第19話 よびすて

 氷がたっぷり入った麦茶を持ってきた友里は、なにもない自分の部屋に、クローゼットの中から折り畳み式の小さいお裁縫用の机を出した。ミシンをかけたり、アイロンをかけたりするものだ。優には、まだその趣味を伝えてない。優のアルバムを見る仕事が終わったら、この間作ったシャツをプレゼントしてみようかな、と思っていた。

 優は、友里が見せたアルバムを一生懸命眺めている。「おちゃどーぞ?」と横に座った。


「ねえ、この時の…高岡ちゃんってなにしてたの?」

 優の長く美しい指がさししめすアルバムの写真の中を、友里は優の顔の前にもぐりこんで、覗き込む。

「え、なんだったかなあ、泣いてて…そうそう、悔し泣きする子で…?それがスゴイ、プライドの塊!!って感じで尊敬しちゃったから、お母さんに頼んで、肩くんだ写真を撮ってもらった気がする。エモい。そうだ、思い出した。同じレオタード貰ったのにさ、個人個人でだんだん色がかわってくんの!みんな自分で手洗いするんだよ!ピンクから白にさ~、見てみて、優ちゃん、これなんか……」

「へえ…」


 ちいさな二人が、笑顔で肩を組んでいる写真だった。友里はまだ、乳歯が抜けたばかりで、笑顔で見せている歯が欠けている。朱織もガリガリで真っ赤な頬。口を真一文字にして、不遜に笑っている。戦友のような雰囲気をまとっていた。


「あ、お茶ありがとう」

「いえいえ♡ エアコン付ける?もう暑いね」


 友里が、壁にかけてあるエアコンのリモコンに手を伸ばして冷房ボタンをおした。半袖の白い普段着のTシャツから細い腕が伸びている。思い込みとは怖いもので、見慣れた友里のしぐさが、クラシックバレエのしなやかな動きをした気がする。

 ──もしも川に落ちず、怪我をせず、あのままバレエを続けていたら、友里は優ではなくクラシック・バレエのそばにいたのだろうか。


「友里ちゃん、ごめんね」


 時おり罪悪感で潰されそうになる。けれど感じる罪の意識は、友里はきっと感じて欲しくないと思っているものだ。優は飲み込む。澱のような罪悪感はなかなか消えてくれない。


「ん?なにが?」

「んー、自分も……自分の都合で水泳とか辞めたのに、と色々考えちゃった…」

 優はいつも、少しほんとで少しの嘘を、友里に話している気がして、こんな人間が友里に恋をしてて、申し訳ないな、と思った。恋ゆえにつく嘘が多い。恋をしてなければ、ただの幼馴染でいられたのに。


 少しでも、友里に気付いて欲しいし、気付かれないで欲しい。相反する気持ちが、いつもせめぎ会う。


 友里の手のひらをそっと持って優は、自分の手のひらに重ねた。手の大きさも、優のほうが大きい。きゅ、と指の間に指を入れて手をつなぐ。そして、肩を組む。

「高岡ちゃんと同じポーズだ!?これこれ、かわいいっ」


「……うん、そうだね」


 先程、高岡への恋心があると誤解された優は、(誤解を完膚なきまでに解きたいな)と言う気持ちを込めて友里にあっさりと甘えた。気持ちの問題で、告白したい気持ちが高まっている時は、友里に触れる事さえ怖くなってしまうのに、それができないとわかっている時はすんなりと友里を抱きしめてしまう。

(この、感情の差異はなんなんだろう)

 優は自分がおかしくなってしまう。幼馴染としての感情なのだろうか?本当に触れたいところに触れない時の接触は、自分が思っているよりもずっと大胆だ。今まで何度、自分より小さい友里の体を抱きしめたかわからない。友人の触れ合いや嫉妬をしておいて、恋心に気付いてほしいと思うのはおこがましいかもしれない。

 しかし、友里に触れていると、頭の中にがかかって、友里のことしか考えられなくなってくるのが難点だ。このまま抱きしめていては、取り返しがつかないことになると思って、触れられなくなる。恋はひどい病だなと思った。


「優ちゃん?」


 友里が黙ってしまった優をじっと見つめる。


「友里……」

「え!」

「友里って呼ばれてたの?高岡ちゃんに」


「あ!そう…そう、クラスのみんな、呼び捨てたよ~、わたしは、なんか付けしちゃった!先生がそうだったからかな」

「そっか」

 何の気なしに呼び捨てに出来た高岡朱織に嫉妬している。高岡が得られた友里からの信頼なんて、絶対得られないのに、自分も欲しがってしまって、なんて欲張りだろうと優は苦笑してしまう。恋は友里を傷付けるような感情を、持ってしまって怖い。


「うんそう………そう、なんだけど、優ちゃんのよびすて、いいね!今ドキドキしちゃった」


「え!」


「そんなにびっくりする!?」


 肩を組んだまま、ダンスでも踊るかのようにクルクルとしながらふたりは言った。

 優が驚いたはずみで2人のダンスはバランスを崩し、優の重みに耐えきれなくて、友里は背中側に崩れ落ちる。優に押し倒されたような形で、床に転がる。


「ねえ!名前、よびすてて呼んでみて」

 そのままの態勢で、友里は頬を赤く染め、嬉しそうに優を見上げながら優の頬に手をそっと回し、言った。友里の可愛さにくらくらして、優は言われたままに友里の名を呼んだ。


「友里…」

 心臓が、どくどくどく!と早くなった。


「うん!!かわいい、最高…!声がいい!!」

「ゆりちゃん…」


「だめじゃん!」


 友里はくすくす笑いながら、優の胴にしがみついた。

 優は肘を床につけて、友里の首すじに埋まるようにして、耳元に頬を付けた。

「息がくすぐったいよ~!優ちゃん!!」

 友里はくすくすと笑って、優にさらにしがみつく。じゃれつく子犬のように無邪気だ。


 優は、もうどうしたらいいかわからなかった。完全に、そういう状況になってしまった。友里に、自分から触ることが出来ない、あの状態だ。心臓の音がうるさい。小さくて柔らかい、友里の体が自分にぐいぐいと押し付けられて、体中で友里の体の感触を感じる。


「ちょ、あの…友里ちゃん まって」

 プランクの態勢で何とか耐えているが、友里からぐいぐいしがみついてくるので、理性が沸騰蒸発しそうで耐えられない。麦茶のグラスの中で氷が溶けて、カランと言った。


「友里」

「うん!」


「友里……」


「優ちゃん、──わたしも呼び捨ててみて、いい?」

「え!……うん」

 優はもう、その好奇心いっぱいのキラキラした友里の瞳に耐えきれなくて、ぎゅっと目を閉じると横にごろりと落ちた。起き上がれない。そのまま、寝そべって二人は見つめ合う。



「優」


 友里は、少しだけ起き上がると床に頬杖をついて、片方の手の指先で目のあたりに落ちていた優のこめかみあたりの黒髪を優の耳にかけて、頭をなでるように髪を整えてあげながら優の名前を呼んだ。

「ふへ、名前の呼び方かえただけなのに、きんちょーするね!──ねえ、後でプレゼントあるんだ、優」

 笑顔でもう一度、声色を変えながら何度も呼んだ。


「優」


 優は、今は完全に友里の頬を触れないモードなので、輪郭をなぞる。くすぐったがって、友里が肩をすぼめた。くすくす笑う優しい声、赤い頬、優をしっかりと見つめる瞳。柔らかな声で、優を呼ぶ。しろいTシャツから覗く鎖骨のくぼみに、ふわふわの髪の毛がかかって、するりと背中側に落ちていった。いつもの友里のヘアフレグランスの香りが、鼻をくすぐる。


(……ああ、もうだめだ)


 優は、友里の唇にそっと手を触れた。


 夢の中では冷静に、キスをしていいか、問いかけることができたのに、なにも言えない。



「優ちゃん…?」






 コンコン!!!!!


「ごはん食べてくのー?」


 友里のお母さんの声がして、優はビクッとして起き上がった。小さな手芸用机に長い足が引っ掛かり、ほとんどのんでなかった麦茶のグラスが倒れて、二人は思い切り麦茶をかぶってしまった。



「先にお風呂かしら?」


 友里のお母さんは、その惨状をみて、あらあら口調で言うとタオルをとりに戻ってくれた。

 今日は日曜日、友里の部屋。


 キスは既の所で我慢できたけれど

「一緒にお風呂、はいっちゃいなさいね」

 その誘惑に、選択を迫られた優だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る