第4話 菊の節句

「今日は菊の節句だから、栗ご飯作るでしょ? 栗、買ってきたよ」

「ありがとう。花子ちゃんはこう言う季節のイベント好きだよね」

「好きなのは桃子ちゃんでしょ」


 菊の節句は菊酒を飲んだり、栗ご飯を食べたりして無病息災や長寿を願う日で、一年の内最後の節句だ。

 すっかり慣れた様子で家に訪ねてくる花子は買い物袋ごと桃子に栗を渡した。今までもあったことなので驚きはないけど、今時の学生にしては本当にマメだと感心しながら言うと、呆れたように返された。


「私? 私は好きというか、習慣でしているだけだけど」

「私が子供のころから、桃子ちゃんは私に季節の移り変わりやこういうイベントを必ずしてくれたよね。離れてからも手紙で知らせてくれたでしょう? だから、私も大事にしてきたつもりだよ」

「そうだったんだ。そっか、嬉しいな」


 台所に栗を置いて、二人でリビングに向かいながら言われた言葉に、桃子はじんわりと幸せを感じた。


 花子の親になろうとして、でも当たり前だけど親にはなれないと諦めて、だけどまた頻繁に会えるようになって、一人の人間としてその成長を見守ってきたつもりだ。

 だけどその人生に確かに関わってきたと、はっきり言われた。いい影響とか悪い影響とか、そう言う大それたことではない。ただの日常の、何気ないこと。それが一番、嬉しい。


 リビングにはいりいつものようにソファに並んで座ってから、花子はにっこりと微笑む。


「ふふ、当たり前じゃん。だって、大好きな桃子ちゃんが教えてくれたことだから」


 そしてそう、当たり前のように言ってくれた。大好き、と言われたところで、わーい、嬉しいと純粋に喜ばなければならなかった。それが大人としてずっと見守っていた子供に好きと言われた時の正しい反応だ。

 だけど高校三年生、18歳の花子はかつて桃子が一目で好きになった母親の菊花そっくりで、普段は心得ているのにこうして不意打ちをされてしまうと、思わずどきりとしてしまった。


 別に今さら、モトカノのことを引き摺っているわけではない。もうとっくに吹っ切れたし、それどころか顔をみたくないくらいだ。

 だけど菊花本人はともかく、顔が好みなのは間違いがない。親のことを知らず、子供の頃から知ってなければ、一目で好きになる見た目をしてるのだ。わかっていても、油断すると意識してしまいそうになるのは許してほしい。


「そ、そっか。栗ご飯だし、晩御飯は食べてくでしょ? 多めに炊くけど、持って帰る?」


 なので強引に話を変える。意識してしまうのは仕方ないとして、だからってどうするつもりもない。あくまで保護者と同年代の大人として、見守る立ち位置なのを壊すつもりはない。なので悟られて気まずくならないよう、さっさと話を変える。


「ううん。それはいい。今日泊まるから、明日食べるよ」

「え、まあ、いいけど。……ちゃんと親には言ってる?」


 一応、その気になれば未成年なんちゃらで文句をつけようと思えばつけられる関係だ。無断外泊で探されて、なんてことはやめてもらいたい。と思って念のため確認すると、ちょっと拗ねたように花子は答えた。


「友達の家に泊まるってちゃんと言ってるよ」

「うーん、まあ、いいけど」

「名前だされるの、嫌でしょ?」

「嫌ってことは、ないけど。でも、多分、菊花の方が嫌がるんじゃないかな」


 菊花と距離をとってから、一切連絡をしていない。花子と会うのにも、連絡をしたりしていない。花子がなんと菊花に伝えているのか、聞いたこともない。

 花子のことは好きだけど、菊花のことはあまり考えたくはなかった。菊花を一方的に悪く言うつもりではなく、ただ、お互いに黒歴史になっているだろうに違いない。そっとしておくのがいい。


 だから外泊が問題にさえならないなら、なんと説明してくれていても構わない。そこは友人として、花子を信用しているつもりだ。


「ふーん? お母さんの事、何とも思ってないんだ?」

「何ともって、あー、喧嘩してると思ってる? 別に、まあ、疎遠になってるけど、うーん。なんていうのかな、ただ、気が合わないなってだけで、別に、どっちが悪いとか喧嘩してるとか、そう言うんじゃないよ」


 仕事が忙しいと言って距離をとったことにも、そのくせ花子が訪ねてくるようになってからいつだって歓迎していたことも、花子がそれについて突っ込んで聞いてきたことはなかった。

 だけど子供の時ならともかく、やはり何かがありお互いが裂けていると気が付いていたのだろう。


 それでももちろん、ありのまま伝えるわけにはいかないし、何事もなかったみたいに戻ることもできない。もう二度と、会いたくない。


「まあ、喧嘩してるとは思ってないけど」

「えっと、菊花とはね、そうなっちゃったけど。でも花子ちゃんのことはまた別だからね。花子ちゃんとは菊花関係なく好きだから、これからも仲良くしたいし、だから、その……」


 冷静なトーンで続けられたのが、どこか責められているように感じて、慌てたように付け足して、だけど途中で違うなと思った。菊花とのことは、花子は良いも悪いも言っていない。

 これは罪悪感を感じている桃子が勝手に言い訳しているだけだ。だけど、何も言わなくてもいいわけでもない。


「あの、ごめんね。前は、急に距離をとって。仕事だなんて言って、会いに行かないで。ごめんね」


 花子は何も悪くなかったのに、嘘をついて一方的に距離をとった。それから会いに来てくれてからも、ずっと甘えていた。


 この年になって、何もわからないわけじゃないのに、ずっとそれに触れずにいてくれた。信じたふりをしてくれていた。

 なのに桃子は甘えるばかりで、全然誠実に向き合ってこなかった。今更だけど謝りたくなった。


 そんな唐突で今更で、めちゃくちゃな謝罪に、だけど花子は笑ったりしなかった。


「ん。いいよ。許してあげる」


 端的にそう言って、優しく微笑んだ。胸が苦しくなりそうだ。

 菊花を思い出して苦い感情が蘇った分、花子の優しさは心にしみ込むようで、桃子はゆっくり深呼吸して自分を誤魔化した。


「ありがとう。花子ちゃんは優しいね」

「どういたしまして。桃子ちゃんにだから、特別だからね」


 さっき一度意識してしまったせいか、どうにも今日は花子の姿を子供ではないように見てしまうようだ。桃子は頭をかいてそっと視線をそらしながら相槌をうつ。


「そっか。ありがとう。……ちょっと真面目な空気になっちゃって、なんだか照れるね。はは。もう栗皮も多少柔らかくなっただろうし、栗ご飯用意してくるね」

「待ってよ。慌てなくても、夕ご飯まではまだまだ時間があるでしょ」


 そしてさり気なく席をたって、意識を立て直そうとしたのだけど、何故か腕をつかんで引き留められた。すっと引き戻された勢いでソファに座りなおしてしまい、肩が花子にぶつかってしまう。


「あ、ごめん。それはそうなんだけど、お米の吸水時間もあるし、ぎりぎりよりは別に、先にやった方がよくない?」


 ぶつかったことは謝りつつ、確かに気まずいからだったけど、おかしいことは言ったつもりはない。元々桃子は、こういう下準備は先にやるタイプの人間だ。

 なのに今日に限って引き留められ、普通に首をかしげてしまう。そんな桃子に、花子はジト目になって唇を尖らせて不満を表した。


「……そうだけど、でも、今、ちょっといい雰囲気じゃなかった? 逃げたこと謝った癖に、早速逃げてない?」

「え、い、いい雰囲気って?」

「……もしかして、忘れてる?」

「え?」


 急に言われた予想外の言葉に顔を見合わせて繰り返すと、花子はしょんぼりしてから、むっと眉を寄せて怒った顔になりながらぐっと顔を寄せた。

 その距離の近さにどきっとしてしまうのを抑えきれない桃子に、花子は真剣な声をむける。


「私、来年には高校を卒業するんだよ。そうなったら、いくら桃子ちゃんだって、私の事子供扱いできないでしょ?」

「え、っと……子供扱いしてたから怒ったってこと? ごめんね、そんなつもりはなかったんだけど」


 随分大人になった花子に、その成長を日々実感していたし、頼りになる部分もあって小さい子供みたいに扱っているつもりはなかった。だけど当たり前だけど桃子に比べたらまだまだ子供だし、無意識に不愉快なほど子供扱いしていたのだろうか。

 素直に謝る桃子に、何故か花子はその瞳をうるませる。


「そうじゃなくて……本当に、忘れちゃった? 私が大人になるまで、私の告白には応えられないって言ったでしょ?」

「こ、告白!? ちょ、ちょっと待って。何の話?」

「中学一年生の七夕、久しぶりに会った時、私、プロポーズしたのに。忘れたの? 私はずっと、忘れられないくらい全力で挑んだのに」

「あ、う、そ、それはその、覚えてはいるけど」


 今にも泣いてしまいそうな顔で言われて、情けないくらいうろたえてしまう。花子はいつも桃子の前で笑顔で元気でいてくれて、そんな花子が桃子のせいで泣きそうになっているなんて。それだけで、全部花子の言う通りにしますと言いたくなるくらい強力だ。

 だけどまさか、思わないではないか。中学一年生の時に言われて、あれから六年もたつのだ。それっきり、匂わせるようなことはなく、それまでと同じ距離感でずっと仲良くやってきた。まさか、ずっと覚えていて、そのつもりだったなんて。


「でも、その、大人になったら応えるとかじゃなくて、子供の内は問いかけに返事すらできないって話で」

「だから、もうすぐ大人になるよ? そうなったら、返事、くれるんだよね?」

「……ほ、本気で言ってるの?」

「そうだよ。私はずっと、ずっと本気だよ」


 ソファにこすりつけるようにして距離をとろうとする桃子に、花子はぐっと身を乗り出すようにして距離をつめる。その真剣な瞳に、桃子は駄目だと思うのに心臓がドキドキしてしまう。


「だ、駄目だよ。そんな……私は、もう」

「お母さんの事なんて、忘れさせてあげる」

「え……え? ……えっ!? き、き、菊花のことは、関係ないけど!?」

「あのさ、私が本気で、何にも気づいてないって思ってた?」

「……」


 その冷めた視線に、心が凍り付くようだった。知られていた? どこまで? いや、どこまでもなにもない。何らかの関係があったと知られている時点で、桃子は不倫をして何食わぬ顔でその子供にいい大人ぶって接していたクズなのだ。行為の薄汚さの具体性を知らなくたって、それだけで十分すぎるほどだ。

 だけど、おかしいじゃないか。それを知ったなら、軽蔑しているはずだ。気持ち悪いと思っているはずだ。なのに、どうして?


「なん、で、私に、告白したの?」

「は? そんなの、好きだからだよ。お母さんとか関係ない。私は桃子ちゃんを好きになったの」


 その言葉の強さに、怒っているような表情も全てその熱量が高すぎるからだと感じさせられて、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。だけど駄目だ。こんなの。


「だ、駄目だよ」

「なんで? 私にドキッとしてたでしょ? 私の顔、好きでしょ? だったら素直になってよ」

「ど……な、なん、あ、あー……赤ちゃんの時から世話をしてる癖に、顔が好みって言うだけで好きになるような、そんな女、花子ちゃんにはふさわしくないよ」


 今まで時々意識してしまって、ドキッとしていた。それが全部ばれていたみたいで、桃子は頭が一瞬真っ白になってしまったけれど、とにかく自分を諦めさせようと何とか頭をまわす。

 光源氏だって赤子から育てていない。赤ん坊姿でおしめを変えていた癖に、ちょっと成長して顔が好みと言うだけでその気になるなんて、桃子は我が事ながらさすがに変態だと引いてしまうレベルだ。

 冷静に考えれば花子だってドン引きするはずだ。そう思ったのに、花子は普通にその目から情熱を消さないまま、むしろほっとしたように表情をかすかにゆるませて言葉を紡ぐ。


「そんな言い方しないで。私は嬉しいよ。あの人の子供だから好きなだけだって言われなかっただけで」


 そんな風に思っていたなんて。そんなことはあり得ない。確かに生まれてすぐのころは、愛する人の子供だからこそ自分の子供であると言う理屈の元、花子を愛していた。

 だけどその子が成長するにつれて、すぐにその幼い命そのものを愛さずにはいられなかった。


 そして、成長した今は花子その人をただそのまま、大事な人だと思っている。それは恋とは関係なく、綺麗な感情で愛している。

 それと全く別の話として、同時にただひたすら好みの女性の姿かたちをしているので、純粋に意識してときめいてしまう時がある。


「花子ちゃんのことを、菊花の子供だから大事にしていたのなんて一年もないよ。ずっと、花子ちゃんだから大事だったし、その……顔が好みなのは事実だけど、それは菊花に似てるとかじゃなくて、そもそも菊花に会う前から好みの顔と言うか」


 いやつまりそれが似ていると言うことでもあるのだけど。何を言っているのか自分でもわけがわからなくなってきた。桃子は花子に自分を諦めてもらいたくて話していたのに、何故か菊花を関係なく好きだと逆に口説くようなことを言っている。

 なので当然だけど、花子は嬉しそうに桃子の肩にふれ、体ごと触れるほどに寄せてくる。


「ほんとに未練はないの? 全然ない?」

「やめて。菊花のことは忘れたいの。未練はない。でもそれはそれとして、ただ見た目が好みで意識するだけで、花子ちゃんのことを恋愛対象としてみたことはないよ」

「だったら、これから見て。大人になる私を、恋愛対象だって、ちゃんと見て」

「……」


 そんなことをしてしまえば、絶対にすぐに好きになってしまう。だから意図的に意識しないよう意識しないように、としてきて、ドキッとしても見た目だけだからとただの下心のドキドキでしかないと誤魔化してきた。

 見た目だけで恋に落ちるくらい好きで、中身は長年付き合っていて愛している要素しかない性格なのだ。そんなの、絶対に好きになるしかない。

 いやだ。花子を恋愛感情として好きになりたくない。花子に対してだけは、純粋な人への愛情だったのに。醜い感情に溺れていたからこそ、桃子に一つだけ残された美しい感情だと思っていたのに。


「……いいよ、じゃあ。見てもらえるよう、私が頑張るから」


 何も言えない不甲斐ない桃子に、花子はそう囁くように言って、微笑んで抱きしめてきた。

 その甘い匂いに、柔らかくて熱い体に、桃子はくらくらして何も言えないまま、ただドキドキするお互いの心臓を感じた。

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