第3話 七夕の節句

 桃子の愛する女性、菊花が子供を産んでから、早いもので13年の月日がたった。その子供、花子は中学生になった。


 ずっと一緒にいたかった。傍にいる為なら何でもしようと思った。だけど残念ながら、年々ひどくなる菊花の束縛と、それでいて見せつける夫との関係に桃子は耐えられなくなった。

 だから少しずつ距離を置いた。花子が十分に成長し、友達と遊ぶので忙しくなったのもあり、スムーズに距離をとれた。もし小さな頃なら、泣き叫ばれて、離れることなんてできなかっただろう。


 花子と会わなければ、菊花とも会わずに済む。そうして一人きりで過ごした。

 それはとても寂しくて、だけど花子の顔を見るたびに吐血したくなるほどの罪悪感に襲われずに、菊花と会うたびに感じる憎悪に支配されなくていい生活は、桃子の日常を穏やかにした。


 花子とは表面的には仕事が忙しくなったからと言って、携帯電話でのやりとりだけになった。菊花は距離をとりだしたことに気付いてすぐは、しつこく花子と親子でいられなくなると脅しをかけたけれど、初めから親子ではなかったと諦めた桃子の声を聞いて引き下がった。

 親子ではないとは言え、理由もなく連絡すらとるのを許さなくなっても納得するほど幼い子供ではなくなった菊花と、電話で連絡をとることはできた。


 あくまで、親の友達。それだけでしかない。友達もたくさんいて、学生時代は今が一番充実して日々が楽しいだろう。それでも花子は自分だけの携帯電話を手に入れてからは毎日何かしら連絡をしてくれた。

 元々かりそめの幻想でしかなかった親の立場、それを失った桃子はでしゃばらないようにしていたけれど、それでも花子への思いは変わらないので、本当に嬉しかった。


 愛する菊花との関係は、めちゃくちゃだった。今も胸にくすぶる思いは愛情なのか、憎しみなのか、怒りなのか、恨みなのか、もはや自分でもわからない。はたしていつまで恋人関係でいられたのか、思い出すら遠い。

 だけど、それでも花子への愛情は残った。花子が生まれてすぐからずっと、成長を見守ってきた。


 花子に対しての思いだけは、胸を張れる。綺麗でキラキラした愛情だ。花子の為なら、死んでもいい。自分の何もかもを犠牲にしても、彼女が幸せになってくれるならそれでいい。だからこそ菊花との関係は苦しかったし申し訳なかった。

 今だって過去がなくなるわけではないけど、でももう、親ではない。ただの一人の人間として、花子が大人になるまで遠くからほんの少しでも応援できればそれでいい。


「おはよう! 桃子ちゃん! 久しぶりだね!」

「え……花子ちゃん?」


 だけど花子が中学生になって、一人で電車にのれるようになったと言うことで今日、会いに来てくれた。約二年ぶりの再会だった。

 サプライズと言うことで何も聞いておらず、朝一番にやってきた花子に桃子は驚きすぎて倒れそうなほどだったけれど、とても嬉しくて泣いてしまった。


 連絡はとってくれているけど、もうずっと会っていないのだ。花子の中の桃子は昔みたいに大きな存在ではなくなっていって、いずれ姿も忘れられるだろうと思っていたから、会いに来てくれて本当に嬉しかった。

 幼い頃の積み重ねた思い出は、桃子の胸の中だけではなく、花子の中にも残っていて、ちゃんと大事にしてくれていたのだ。


「もー、桃子ちゃんは泣き虫だなぁ。よしよし。桃子ちゃんがお仕事忙しくて、会えないのは仕方ないから、これからは私が会いにくるからね」


 そう言って花子は桃子を慰める様に背中をバンバン叩いて、家に入ってきた。

 母親である菊花とは何もかもが違うその慰めに、だけど昔と違って父親の存在を思って心が黒くなることはなかった。

 ただ純粋に、花子という個人の性格として受け入れられたし、何もかもがとても愛おしいと思った。


 今日は七夕だった。七夕は久しぶりの連休だしゆっくりできる。花子ちゃんは何かお願い事したの? なんて会話を事前にしていたから、花子は七夕セットまで持ってきてくれた。


 50センチほどの小さな竹を持ってきてくれた。ずっと桃子の家から消えていた色彩がもどってきたように感じられた。

 さっそくお茶をしながらゆっくりと、今までだって頻繁に通話もしていたのに、顔をあわせるとまた全然違って話題が尽きることはなかった。

 たわいないお喋りをしながらこちらも持ってきてくれた折り紙で七夕飾りを一緒につくって、それから短冊も切った。


「ねぇ、桃子ちゃんは何をお願いするの?」

「んー……内緒」

「えー、内緒なの? 何か、かなえたいお願いがあるんじゃないの? 私でよかったら協力するよ。今までずっと、会えなかったからね」


 もう二度と会わないつもりだった。だけどこうして会ってしまえば、もう会えなくて平気だったのが自分でも信じられないくらい、花子の存在で胸がいっぱいだった。

 彼女の目に自分がうつっている。幼い頃と変わらず慕ってくれている。こんなに大きくなった。身長もまだ負けてはいないけど、すっかり少女らしくなった。

 そんな彼女へ、贖罪ではないけれどできるだけのことをしてあげたい。会えなかった分、会いに来てくれた分、できるだけ力になりたい。


「んー……じゃあ、お休みの日だけでいいから、私が会いに来ても嫌がらないでいてくれる?」

「もちろん。私、さっきだって花子ちゃんのこと嫌がったりなんてしてないでしょ? もちろん、急にでかけることもあるし、サプライズはもうやめてほしいけど」


 今日も予定がないとは言ったけど、休日だし久しぶりに髪をきろうか、買い物にもいかないと、程度には予定があった。

 それを見越して朝早くに来たのだろうけど、もし入れ違って花子を一人家の前で待たせたかもしれないと思うと、今でも心臓に悪い。


「そうだけど……桃子ちゃんの、恋人とか、いたら、嫌がるかなって」

「ふふっ、ごめん。ははは」


 思わず笑ってしまって、睨んでくる花子に桃子は謝りながらも笑いが止まらなくてしばらく笑った。

 あんなに小さくて、我儘を言って当たりまえみたいにしていた時期もあった子供が、今では桃子を気遣いこともできるのだ。体だけではない心の成長を感じて、胸が温かくなる。

 こんなに素敵ないい子の成長に、ほんの少しでも貢献してきたのだと思うと、幸福で胸が満たされる。


「恋人なんていないよ。私は花子ちゃんが一番大事だから、いつ来てくれたっていいよ」

「……ほんと?」

「うん。ほんと」


 花子にだからそう言っているのではない。本当に、今はもう、恋はこりごりだ。恋心に浮かされて、菊花に振り回された。もちろん了承したのは桃子だし、欲望に負けてだろうがやけくそだろうが嫌々だろうとやることはやってきたし、一方的に菊花のせいにする気はない。

 花子に顔向けできないようなことをしてきたのは事実で、桃子の責任だ。でももう、そうなりたくない。


 今ここに、親でも何でもない桃子に花子が笑顔を見せてくれたから。花子への愛情で心が満たされているから。恋より穏やかで、恋より心地よくて、恋より強く、思っている。

 花子が桃子と繋がってくれているなら、それにふさわしい大人でいたい。花子がもういいってなるまで、花子のことを一番に考えていたい。それまで、もう恋なんてしなくていい。


「そっかぁ……えへへ。じゃあ、安心だね」


 花子ははにかんで、一枚目の短冊に、『桃子ちゃんとずっと一緒にいられますように』と見えるように書いた。

 きゅん、と胸がときめく。なんて可愛くて、いじらしいんだろう。


 今までずっと会わなかった。それに、えー、と不満げな声をあげても、決して無茶な我儘は言ってこなかった。だからもう、大丈夫なのだと思っていた。

 でもそうじゃなかった。こんなに、桃子を好きでいてくれた。思ってくれていた。会いたいと思ってくれていたのに、我慢してくれてたんだ。


「ありがとう。今まで本当にごめんね。私でよかったら、本当にいつでもきていいからね。あ、後で合鍵渡すね。あ、電車賃も」

「もう、そんなに甘やかさなくてもいいよ。桃子ちゃんと会えなかった間も、いっぱいお小遣いくれたから、電車賃も大丈夫だよ」


 お小遣いと言っても、誕生日、クリスマス、お正月にそれぞれお祝いを郵送していただけだ。もちろんただの友人の子には過ぎた金額だが、気持ちだけは親に準ずる存在のつもりなのでそのくらいは当然だ。

 だけど、大丈夫と言ってくれているのに無理にあげるのも違うだろう。後日プレゼントの機会に増額するのが無難だろう、と桃子は心の中で決めながら頷く。


「そっか。大きくなったね」


 言いながら自分も一枚目を書いた。『花子ちゃんが幸せに過ごせますように』


「あー、なにそれぇ。桃子ちゃん、こういうのは自分の事書かなきゃ駄目だよ」

「んー、と。じゃあ、これで」


 見咎めた花子の注意に、桃子は頭を搔きながら無理やり書き足した。『私と花子ちゃんが幸せに過ごせますように』と。


「うん、いいよ。桃子ちゃん、一緒に幸せになろうね」


 お許しがでた。それと同時に、はにかんだような嬉しそうな笑顔に思わず言葉が止まる。

 もう中学生になる花子は会わない間にぐっと大人っぽくなって、桃子が一目で大好きになった、何もかもが好みだった花子の母親に似てきた。少しだけ女性らしさを感じる少女特有の華奢な儚さもあって、ちょっとだけ意識してしまった。


 親ではないと言いながらも赤ん坊から世話をしてきて、本当の親気分でだって過ごした時期もあるのに、ちょっと顔をあわせなくてちょっと好みすぎるだけで意識するのはひどすぎる。

 恋なんてこりごりなのに。桃子はもしかすると、めちゃくちゃこの顔に弱くてちょろいのかもしれない。と今更なことを自覚しながら、自分に言い聞かせる。


「そ、そうだね。でももちろん、私はいつでも大歓迎だけど、花子ちゃんは学校も中学にあがったら大変だろうし、無理はしないでいいからね?」

「無理はしないけど。あ、でも、よかったら勉強とか、教えてくれると嬉しいな」


 にこにこと幼い時と変わらない笑顔で続けられる話題にほっとする。会わなくなる前はまだ、分数もまだだったから普通に教えてあげていた。花子にとっては桃子はまだ頼りになる先生でもあるのだろう。そう思うととてもうれしい反面、少し不安だ。


「私でよければ。でも覚えてるかなぁ」

「覚えてなかったら、一緒に勉強しようよ。あ、そうだ。私、手芸部に入ったことは言ったよね? 今、マフラーを編む練習してるんだ。上手にできるようになったら、桃子ちゃんにあげるね。何色がいい?」


 冗談半分で予防線をはると、あっさりと流された。花子にとっては、勉強会も一緒にすごす口実でしかないのかもしれない。


「嬉しいな。じゃあ……紺色でお願いしてもいいかな?」

「うん! えへへ」


 嬉しそうな花子を見ているだけで自分も嬉しくなる。だけどふいに思ってしまう。


 こんなに可愛い花子だ。きっと友達がたくさんいるだけじゃない。思いを寄せる子だっているだろう。中学生なら、いくら幼く見えてもすぐにでも恋を知っておかしくない年齢だ。

 さっき桃子に恋人を聞いてきたくらいだ。ちょっとはそう言う興味や知識もあるんだろうな。そう思った。

 だからちょっとした好奇心と共に、いつまでこんな幸せが続くか、覚悟するために聞いてみた。


「ねぇ、さっき恋人がいないかって聞いたけど、花子ちゃんはいいなって人はいたりしないの? 中学に入ったら、いっぱい人いるでしょ。どう?」

「……笑わない?」

「ん? と、どうして? 笑わない、けど。あ、もしかしてものすごく年上、とか?」


 軽い調子で聞いたけどは花子は真剣な顔でそう尋ね返してきて、桃子はびくりとする。

 もしかして教師だったりするのだろうか。教師とは絶対に結ばれてほしくないけど、片思いですむ普通の善良な先生なら思い自体は無下にしたくない。だけどさすがに、校長先生、とか言われたら素直に応援できる気がしない。


 花子はもじもじと照れたように頬を染めながら、もう一枚短冊をとってペンを走らせながら、目をあわせないようにしながら頷いた。


「……あのね、私が好きなタイプ……桃子ちゃんなんだ」


『桃子ちゃんと結婚できますように』


 短冊に書かれた文字に、桃子は返事ができなかった。想像もしていなかった。


 だけど、ありえないと言いきれない。親によく似た花子ちゃんに桃子がどきっとしたように、親があれだけ執着した桃子に花子が引かれるのは自然な気さえした。

 でもそれは、不健全な関係だった。それに親が一切関係ないのだとして、少なくとも今、中学生の花子の気持ちは本気にするべきではない。一瞬見た目で意識したけれど、それにしたって、本気でそう言う目で見ている訳ではない。

 知らない好みの女の子ではなく花子なのだと思えば、やっぱり大事な子供としか考えられない。


 だから桃子は黙って自分ももう一枚の短冊を手に取った。


『花子ちゃんが将来、好きな人と幸せになれますように』


「花子ちゃん、少なくとも花子ちゃん大人になるまで、私はそれに応えられないけど。大人になった時、花子ちゃんが幸せになればいいなって思うよ」


 そっと書いた短冊を花子のものに重ねるようにして、うつむいたままの花子に見せながらそう言った。明確な告白でも何でもない、だけど圧のあるその感情の問いかけに、はいもいいえも応えることはできない。

 だけど、花子を大事に思うこの思いだけは本物だ。


「……うん。今はそれでいいよ。私が大人になるまで、恋人をつくらないでね」

「うん。それなら約束する。花子ちゃんがもういいよって言うまで、ずっと、花子ちゃんのこと、一番に思ってるからね」


 ゆっくりと顔をあげた花子の、ちょっと悲し気な大人びた笑みに、桃子は胸に手を当てながら微笑んだ。

 恋なんかより、花子が大事だと言うこの気持ちだけは、嘘ではないから。

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