第2話 端午の節句

 五月五日はこどもの日だ。節句として言うなら端午の節句だけど、男女差別を忌避する風潮からすっかりこどもの日として定着している。

 桃子が幼い頃からその名前で親しまれてはいたけど、だけど桃子の家ではやっぱり男の子の日だと言う印象だった。飾られる立派な等身大の鎧兜は兄のものであり、妹である桃子が被ることはなかった。もちろんひな祭りのお雛様は桃子の物で、差別されていたわけではないけど、幼少期の桃子は鎧をつけてみたかった。


 そんな思いがあったので、小学校に上がって自我のはっきりしてきた花子(はなこ)に桃子は尋ねた。


「ねぇ、花子ちゃんは兜とかって、欲しい?」


 大学時代からの恋人、菊花の娘である花子は桃子と手を繋いでデパートの正面に飾られている鎧兜などを見上げて、んー、とのんびりした声をあげる。


「あのねぇ、あれって、男の子のだと思うの」

「昔はそうだけど、今は女の子とか、男の子ってあんまり関係ないと思うな。男の子がお人形を好きでもいいでしょ?」

「そうだけど。うーん。でもいいや。だって、あーゆーのって、やばん? だし、それに、お家のお雛様って桃子ちゃんが買ってくれたんでしょ? 私はお雛様でじゅーぶんだよ」


 それを聞いて、桃子は胸の奥がすっと落ち着くような気持だった。ずっと気になっていた。本当の親じゃないからこそ、あまり型破りなものを勝手にプレゼントするわけにはいかない。

 菊花の顔色をうかがいながら控えめに提案してプレゼントするしかできなかった。

 だけどちゃんと本人の好みがあり、それをはっきり口にだして、プレゼントしていたものを喜んでくれていたとわかって、ほっとした。


「そっか。花子ちゃんがそう言うならいいんだ。欲しいかなって思っただけだから」

「ん! 私ね、桃子ちゃんみたいな女の子になるから、兜とかはいらないの」


 きゅん、と胸がときめく。もちろん恋愛感情ではない。大切な、世界で一番大事にしたい子が、桃子を見て憧れてくれている。それはこんなにも嬉しいものなのか。

 これが、子供を育てると言うことなのだ。子供を慈しみ、純粋に愛すると言うことなのか。


 同性愛者の桃子には、こんな風に好きな人の子供を自分の子供のように育てるなんて不可能な夢のはずだった。こんなにも、幸せなのか。桃子は自分の幸福を噛みしめた。


「そっかそっか。嬉しいなぁ」

「えへへ。桃子ちゃん、嬉しいんだ?」


 デパートをスルーして歩き出す。花子はぶんぶんとつないでる手を振りながら嬉しそうに桃子を見上げる。


「うん。嬉しい。私は花子ちゃんが一番大好きだから、そんな風に思ってもらえて嬉しい」

「えへへへ。私もね、桃子ちゃんが一番大好きだよ! えへへ。お母さんとお父さんには内緒ね」

「ありがとう。内緒にしようね。嬉しいこと言ってくれるから、帰る前に甘いもの食べて帰ろっかなー」

「やったー! ケーキがいい!」


 子供の日の今日は、桃子と花子は一緒に動物園に行ってきた。花子が生まれて、一人で歩けるようになってからほとんど毎週花子を預かっている。乳幼児期のひどいときは泊まり込みで世話をしたこともある。

 少なくとも父親よりもずっと世話をしてきた自負があるし、成長を見守ってきた。


 血がつながってなくても、ただの母親の恋人でしかないとしても、薄い繋がり以上に、桃子は心から花子を愛していた。


 彼女が生まれた時、桃子は複雑な気持ちだってあった。菊花が子供を望まなければ、別れる必要はなかった。花子は大好きな菊花の子供と言うだけではなく、結婚して菊花を抱いている夫の子供でもあるのだ。

 菊花は恋人は桃子だけだと言った。その言葉に嘘はないのかもしれない。だけどとても残酷だった。恋人ではなくても、夫がいて、夫のことも夫婦として愛しているのだから。当たり前のように彼に抱かれたことも平気で話す。


 それでも、どんなに辛くて惨めでも、菊花が引き留めるまま彼女から離れられなくて、八つ当たりをされて身も心もぼろぼろになりながら子育ての協力をした。

 そして今、しっかりと二本の足で立って、力強く桃子の手を握って、大好きと笑顔で言ってくれる花子がすぐ傍にいる。


 この思い入れだけは、愛情だけは、両親にだって負けないものだと自信を持って言える。


「そろそろ帰ろうか」

「えー、もう? 今日は桃子ちゃんのお家にとまりたーい」


 それでも、花子を家に帰さなければならない。どんなに愛しても、自分の実の子供ではないのだから。


「だーめ。今日はそう言う予定じゃなかったでしょ?」

「うー。じゃあ、明日は? 明日もお休みでしょ? 遊びにきてくれる?」

「明日は……花子ちゃんはお休みでも、私はお仕事だから。ごめんね」

「えー!?」


 明日は土曜日だ。桃子の勤める会社は極めてホワイトで有休もとりやすいが、不定休だ。祝日だって出勤している社員はいる。小学校の完全週休二日制とは違い、明日も普通に出勤だ。


「……お仕事なら、しょーがいよね」

「ごめんね。また来週末、一緒に遊ぼうね、その時にはお泊りできるよう、お母さんにお願いしようか」

「ん! ほんと!? お母さんがいいって言ったら、お泊りしてもいいの!?」

「うん。いいよ」

「やったー!」


 ご機嫌になってくれた花子と一緒に家に帰る。

 時間は夕方。晩御飯にはまだ少し早いくらいだけど、小学一年生の体力を考えればもう限界が近いだろう。家に近づくにつれ、花子の口数は少なくなっていった。


「ただいまぁ」

「おかえり。今日も花子の面倒をみてくれてありがとうございます」

「おかえりー。桃子もお疲れ様」


 夫婦が二人そろって迎えてくれた。帰るなり抱き着いてきた花子を夫が抱き上げ、桃子に会釈してくる。菊花の夫は全部知っているくせにまるで普通に妻の友人のように接している。それがとても、苦手でたまらない。


「花子、疲れた? 晩御飯まで時間あるし、お昼寝したら?」

「んー、でも」

「ほら、桃子にばいばいして」

「……ん。桃子ちゃん、またね」

「ばいばい、またね」


 ばいばい、と手を振ってから抱っこされたまま二人は家の中に入っていった。玄関から中には入らない。小さな花子に振り回されている頃はともかく、落ち着いた今はあまり積極的に入りたくはない。

 だってここはどうやっても、桃子には入れない完成された家族の家だから。中に入ればお客様でしかない。


「今日は朝早くからありがとう。久しぶりにゆーっくりしたわ」

「どういたしまして。また来週、連絡するね。それじゃあ」

「待ってよ。お茶くらい飲んでいってよ」

「菊花、気づいてるでしょ? あんまり家庭にはいりたくないの」

「旦那には居間から出ないように言っておいたわ。だから寝室なら二人きりよ」

「……正気?」


 菊花が結婚してから、花子がうまれてからも、恋人と言う関係は変わらない。だから肉体関係だって0になったわけではなかった。だけど当然、花子も幼稚園に行っていて、誰も家にいないとき、桃子の家でだった。

 なのに当たり前みたいに、菊花はついさっきまで花子も夫もいた玄関で、桃子の腕をひいて抱き着いた。ふわりと香る、シャンプーの匂い。かすかにしけった水の匂い。胸の中が熱くて、はらわたが煮えくりかえりそうだ。


「最近、花子がよくあなたの家に泊まるじゃない? 私たちすっかりご無沙汰だわ」

「それは……恋人だって、長い付き合いなんだし、そうなることだってあるでしょ」

「駄目よ。あの子の親でいたいんでしょう? だったらちゃんと私を愛してくれないと。私の事、一番に愛してくれないと駄目よ」


 菊花も夫も、気がくるっている。そうとしか言えない。どうしてこんなことができるんだ。

 もういい。桃子はもう、いい。今が幸せだから、もうそれでいいのに。菊花の恋人なんて名目だけでいい。本当に菊花のことを愛している。その気持ちは嘘じゃない。だけどそれ以上に、花子が育っていくのを見守るのが幸せなのだ。


 花子の本当の親ではなくても、ずっと大人になるまで、大人になってもずっと、彼女を見守っていきたいのだ。傍にいて、大変な時は力になりたいのだ。

 だから、花子の顔を正面から見えなくなることなんてしたくない。


 こんなのは異常だ。狂っている。怒りと屈辱が噴き出して、今すぐ菊花を拒絶したい。どんなに愛していても、愛しているからこそ、この状況が苦しくてしかたない。

 菊花のことは好きだ。だけど、もはや花子が健やかに育ってくれることが一番の喜びになってしまった。花子の悪影響になるこんな関係はやめたい。


「……わかってる。一番、愛してるよ」


 だけどそれを口にしてしまったら、何もかも終わってしまうのもわかっていた。

 この関係を破たんさせれば、菊花は間違いなく桃子を捨てるだろう。しょせん桃子と花子の関係は、対外的には友人の子供でしかない。秘密であっても恋人の子供と言う関係を続けなければ、接点なんてないに等しいのだ。


「ええ、それでいいわ。私も愛してるわよ、桃子」


 頷いて靴を脱いだ桃子に、菊花は満足そうに微笑んだ。そして寝室にはいる。むっとするほどの体臭がくすぶっている。二人の人間がシャワーを浴びたところで、室内の空気が変わるわけではないのだ。

 乱れた寝具にそのまま腰かけて、菊花は桃子を抱きしめてキスをする。


「ねぇ、さっきね、中にだされちゃった。私、二人目はいらないの。だから、頑張ってかきだしてくれる?」


 桃子は心の隅に残っている菊花への愛情がなくならないように、大事に大事にくるんで、心を殺して余計なことは何も考えないようにして、無心で菊花に応えた。

 それだけが、自分が幸せになる道だと言い聞かせて。

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