第13話 夏が来る前に



夏になると山へは行かない

登らずに麓から眺めるだけ


春の陽気が旅心を誘う


暑くなる前に両手と両足を使って

いっぱい汗をかいてみようかしらと思い


独り目指す山はあまり知られていない山で

三角の高い屋根が並ぶ村のひび割れたアスファルトを二輪で走り

住んでいる様子のない民家の間を歩く


都会とは違い

雨戸で締め切られることもなく


中の様子が見え

小さなちゃぶ台などが無造作に置いてあり

人の匂いの残る廃屋に誰かが見えたような気がする


その少し向こうには

荒れた雑草だらけの庭の隅に

錆びた洗濯機が置いてあり

使えないであろう水道の蛇口に緑のホースがぶら下がっている


さらに先へ進むと

坂道は急勾配となりストックに体重を掛け

汗を拭いて振り返れば先ほどの民家が小さく見える


人とすれ違うには山壁にへばりつかないと通れない細い道を登り

目の前には大木が倒れ

道を塞いでいる


どれくらい前だろうか

台風がこの地方を襲った時の様子が窺われる


道は二手に分かれ

右は隣の村へ下山し

左は頂上を目指すことになる


私は右に曲がり

ほんの少し歩くと誰もが通り過ぎそうな

さらに細い道へと入る


蛇のように何度も曲がる道を歩けば

ほんの少しだけ開けた10畳くらいの広間に着く


その奥には小さな祠があり

弁財天が鎮座してあるはずだった


祠は倒れた大木に押しつぶされ

既に弁財天は何処かへ去ってしまったように思えた


私は持ってきた1リットルの天然水を取り出し

祠のあったであろうその場所に水を流すと


隣の細い木を音もなく登っていく細長い縞模様

その縞模様は確かに蛇であり

この縞模様は弁財天の眷属であったことを思い出す


隣の村へ下山する道を歩き

祠はなくとも

確かに弁財天に会えたのだと春の風に笑みを浮かべていると


目の前を立派なツノを持った鹿が横切っていった

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