Ⅲ 雷鳴響く断崖

 ホームセンターのイベントホールの前のベンチに、俺は座っていた。弟を気の毒に思っていたけれど、今はやっと弟が再婚したいと思える相手を見つけられたことに安堵もしていた。俺はベンチから立ち上がって、自動販売機に向かった。缶コーヒーを買って再びベンチに戻り、横に立て掛けられた車椅子に目をやる。


——今でも、思い出す。


あれは、5年前。

今日みたいな、冬も終わりに差し掛かって、花粉が飛び始めた日のことだった。

弟と妻の絹子が、都市公園へ出掛けた。絹子は外出する人が増えて道が混むから行きたくないと言ったらしいのだが、弟はそれをなんとか言いくるめて出掛けたという。けれど、絹子の不安は的中した。飲酒運転をした宅配ドライバーたちが、赤信号にも関わらず、横から凄まじい速度で突っ込んできた。当然かわすこともできず、弟の車は横転。左側に倒れたために、衝撃と重圧によって絹子は窒息死してしまった。弟は、轢き逃げを図った宅配ドライバーたちの車に両脚を轢かれ、骨折。その後は、車椅子に乗るようになった。


その宅配ドライバーたちは、会社の宅配トラックを私用に乗り回した挙句、轢き逃げまでしたのだから処分が下ったのだとは思う。しかし、彼らと裁判で争おうとした時、宅配会社は示談以外にするつもりはないと言った。僕らはその後、決して多くはない示談金を渡されただけで済まされてしまった。


弟は、それからずっと塞ぎ込んでいた。結婚した当初は、性欲の強い弟が絹子の色気に惹かれただけでしかないと思っていた。だが、弟は本気で絹子を愛していたのだ。俺は、出来るだけ家に太陽の光を取り込むようにしたり、換気をして風通しを良くするようにしていた。それが、大して影響を与えたわけではないと思うが、弟は徐々に立ち直っていった。


俺はそれから、未明町という街に弟を連れて行ってやった。気分転換に、風俗は良いのではないかと思ったのだ。しかしいざ行ってみると、どこの店でも車椅子はお断りだと、門前払いを食らってしまった。弟は、ひどく落ち込んだ。けれど、そんな夕暮れの未明町で、沙羅という若い女の子が声を掛けてきたのだ。


「あの、もし良かったら連絡先交換しませんか?」


俺は車椅子を押しながら、面食らってしまった。

車椅子に乗っていることはまるで気にもせず、果敢に連絡先を貰いに来てくれるような女の子は、今まで会ったこともなかったからだ。俺の目から見ても、その子は可愛かった。弟はと言うと……、


目を潤ませていた。今にも泣きそうだけど、涙を流すのを我慢しているような表情だった。


「僕、車椅子なんですよ」


弟が言うと、沙羅は声を大きくして言った。


「そんなのはどうでもいいんですよ! 私は、あなたに惚れたんだから」


弟は、目を大きくしてその子を見ている。


「じゃあ僕と一緒に、今からホテルに行って3時間同じ部屋にいても構わないってことですか?」


弟が意地悪に聞くと、


「良いですよ。ダメなことはダメですけどね」


沙羅もまた、意地を張ったように言った。


「じゃあそういうことなら、室内デートみたいな感じで、3時間行ってみようか」


俺がそう言うと、沙羅は同意した。

沙羅は部屋に着くと、モカブラウンのダッフルコートを脱いだ。


「では僕はお暇します」


小さな声で言って、俺は足早に部屋を出た。




 3時間後、部屋に戻ると2人はダブルベッドをくっつけるわけではなく、一定の距離を保って向かい合いながら話していた。ずっと、和やかに話をしているだけなのだ。俺が入って、「もう帰る時間だよ」と言うと、沙羅は「私、拓郎くんと付き合います」と何気なく言った。俺が呆気に取られながらも「ほんと?」と聞くと、2人揃って同じタイミングで「ほんとです!」と言った。


——お似合いだな、と思った。


あの日、未明町からの帰り道、沙羅と別れてからさりげなく弟に聞いてみた。


「それでさ、俺がいなかった3時間でセックスはしたわけ?」


弟は、笑いながら言った。


「いやさ、俺のベッドに沙羅が来てくれれば出来ないこともなかったと思うんだけどさ、あいつが『結婚する前にしちゃったら、長続きしないんだよ』って言って、頑なに俺のベッドには来なかったんだよ」


沙羅は、未明町でぶらついていたとは思えない真面目な女の子だった。




 そんな弟が、この春、彼女と新生活を始める。素晴らしいことではないか。俺は、涙ぐみながらコーヒーを飲んでいたため、周囲の視線を集めていたようだった。コーヒーを飲み終えたので、腕時計で時間を確認すると、弟がイベントホールに入ってから、約7分が経過していた。


イベントホールでは、1分やそこらの時間のうちに忙しなく、光がついたり消えたり、点滅したり、光の色が赤くなったりしている。僕はそれを見ながら、昔観た世にも奇妙な物語の『懲役30日』という作品を思い出した。


『忘却治療研究所』


そんな名前の団体が、開催しているその治験は、ホームセンターの〝イベントホール〟でやるにはおよそ相応しくない高額な値段設定をしていた。1回、3万円。行う治験は、『恐怖による記憶の忘却治療』であるらしい。僕がインターネットのウェブ広告で見つけ、訝しむ弟を無理やり連れてきたのだった。



弟は言っていた。

「喪った奥さんが、今でも夢に出てくるのだ」と。


そして、こうも言っていた。

「彼女は夢の中で、ひどく恨めしそうに『お前があの日、公園に行きたいなんて言わなければ、私はまだ生きられたんだ』と墓から出てきて、卒塔婆なんかを折り曲げたりしながら自分に詰め寄ってくるのだ」と。


弟は、睡眠不足ぎみで、常に何かに怯えていた。

その夢は、結婚式場を見てきた今日まで、断続的に見ていたらしい。そして、たまに日常生活の中で、視界の隅にぺしゃんこの白無垢が映ることもあるのだと言っていた。


弟と沙羅の家と、俺と妻の家を二世帯住宅にして、俺と沙羅が代わり番こで弟を面倒見ようと決めた日の夜も見たらしい。


結婚指輪を一緒に買いに行って、沙羅にプレゼントした夜も見たらしい。


挙げれば、キリがない。昨夜だって、そうだったという。けれど、絹子はこの世に未練を残して死んだんだろうか。怨念など、あるのだろうか。


そもそも、彼らが出会ったのは福岡のクリスマスマーケットだったはずだ。連絡先だけ交換して、弟は帰ってきた。彼女と1回、ゴム無しでセックスをしたと言うが、妊娠したという報せはなかった。たまたま彼女が転勤で、僕らの街に来た時に、弟と彼女は再会することになり、それから付き合い始めたようだった。そして、きっかり1年後に結婚した。


事故にしたって、弟は悪くないし、むしろ脚を失っても生きていかなきゃならないことの方が酷だろうと思ったほどだった。けれど、自分で立ち直って、再婚相手を見つけたのだから、もう忘れてもいいではないか。そう思って、ここに連れてきたのだった。




 実際、来てみると外から見た感じはただのお化け屋敷のようなものだ。体験時間というか、治験の時間も10分しかない。それで、3万円とはどういう商売なのか。団体の神経を疑いたいが、弟を悪夢から解放してやれるなら、安いものだろうと思った。




 医者がカウンセリングの時、言っていた。


「恐怖っていうのは、記憶を消すための近道なんですよ。例えばほら、交通事故なんかに遭うと、その前までの悩みとか出来事とか、ほとんど忘れちゃいますでしょ? それは、脳に衝撃が加わったことももちろんあるんでしょうけど、それよりも交通事故にあった時の恐怖がインパクトととして大きすぎて、それ以外を忘れちゃうんですよ。要するに、トラウマの効果ですね。つまり、人為的にトラウマを創り出せば、記憶の忘却にアプローチできるのではないかと、私は考えるのです」


代表取締役のようだが、こいつは事故に遭っていようと無かろうと、頭がイカれてるのではないか。そもそも、交通事故なんてワードを出したら、脚を失った弟は、嫌な記憶を思い出すではないか。忘れるために来ているのに、思い出させてどうするのだ。科学的に裏付けされているのかは、分からない。しかし、彼の言っていることも分からなくはなかった。それを、実験するのだ。


「私たちが治験に使うのは、この病院を思わせるセットと、『落冥/Rakumei』というメタバースと繋がることが出来るVRゴーグルです。まずは被験者さまの忘却の対象を捉え、それを敵とします。その敵が、メタバースという仮想空間の中で自分に危害を与えてくるので、それによる恐怖から忘却させます。しかし、それでもまだ不意に被験者が記憶を甦らせることがあるので、その場合はメタバースでの恐怖体験後、病院パートで恐怖治療をいたします。病院パートでは、しっかりと忘却がされているかの検診、そして、今回はパートナーがいらっしゃるようですので、愛を育んで結婚を考えるまで持っていかせていただきます」


そう、つまり、徹底的にメタバースの中で絹子に攻撃を受けることによって、その存在自体を脳内から抹消しようと試みるのだ。そして、忘却の確認と、沙羅との出逢い。愛を育み、その過程で不意に絹子が現れるのであれば、他にも恐怖体験を加えるのだという。それが、約10分。最先端の治療法、なのだろう。


しかし、どれほどの恐怖体験をしているのだろう。

僕も怖いもの見たさで入ってみたくなるが、ぐっと堪える。病院の設定で酸素マスクをつけるので、叫び声はほとんど聞こえない。


それにしても、『落冥/Rakumei』という名前はちょっと怖すぎやしないか。


時計を見る。そろそろ10分が経過しようとしていた。しかし、その瞬間……、


ゴロゴロ、ドカァァァーン!


花火を河川敷で見た時以上に大きな音が鳴り響いた。鼓膜のそばで、何かが爆発したような衝撃を受け、俺は耳を塞いだと同時にベンチの下に身を隠した。地震のように、怪物の闊歩のように地面が振動していた。


「拓郎、大丈夫か……」


俺は、イベントホールを覗き込む。

嗚呼、中の機械は大丈夫なんだろうか。

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