Ⅱ 隣人との接触 ——恐怖——

 真夜中、隣人との接触を試みた。

白い布を叩くと、隣人が囁き声で言った。


「どうしたんですか?」


「いや、どこかでお会いしたような気がして」


「そうですかね?」


隣人は、知らないと言ったふうに呟いた。


けれど、そうだろうか。

隣人とは親密な関係を築いていたような……、


いや、そんなわけがないだろう。

僕はまだ、記憶を手繰り寄せている。


「あの、デビルビル……って知ってますか?」


「はい、知ってます。けど……、」


「けど、なんですか?」


質問をすると、隣人はクスッと笑う。


「あそこ、〝デビルビル〟じゃなくて、

〝ビル・デ・ビル〟ですよ」


「それって、どんな意味ですか?」


「フランス語で〝ビルのビル〟って意味です。

突飛ですよね」


また、隣人がクスッと笑いながら言った。


やっぱり、隣人とは面識があった気がする。

顔は見えないが、聞き慣れたような声だ。

自分の記憶が、信じられない。

自分は、精神病者だが、それだけが原因だろうか。

何だか、自分の記憶が誰かの手によって消されたりされそうな気がする……。いや、変なことを考えるのはやめよう。


また声をかけた。


「あの、恋人って、いたりします?」


「いますよ」


「やっぱり」


「その人は、すごく愛おしいんですけどね、たまに思い出すみたいなんですよ」


「何をですか?」


「踏み込みすぎです」


「ごめんなさい」


「許します」


そんなことを言う声に、鼻水を啜る音が混じるのを、僕は聞いていた。彼女も、彼女なりに苦悩があるのだろう。泣いている彼女に、声を掛けた。


「大丈夫だよ、俺が守るから」


——え?


今、自分はなんて言ったか。

俺が守るって何だ?


考えていると、ベッドサイドの鏡に反射したハイビームの光で、薬指が鈍く光った。


——指輪だ。


(ちょっと待て……、俺には奥さんがいたはず……)


そう思った瞬間、だった。


けたたましく、サイレンの音が鳴り響いた。

そして、革靴の低い足音がバタバタと早足で近付いてくる。


——ヤバい、死ぬ。


初めて聞いたはずなのに、医者のものだと分かる。更に、きっとこれは自分に向かってきている足音だと。刑務官が死刑を執行する時にだけ、囚人には足音が違って聞こえるような感覚だった。


だが、それは杞憂で……、



足音は、隣人の前で止まった。



情緒乱れた息遣いが聞こえる。

そして、それはどんどん激しさを増してゆく。


「やめて!!」


沙羅は悲痛な叫び声をあげる。

助けたいのに、足が震えて動かない。


「はい、お薬飲みましょうね」


「やだやだやだやだ!」


「飲んでください。飲め、飲め、飲め飲め飲め」


そして、沙羅が足のジタバタを押さえつけられたのか静かになると……、


「飲まないならこうします」


チェーンソーの音が、間近で響き出した。


「ぎゃあああああああああああぁぁぁ」


沙羅が、断末魔の叫び声をあげた。


「助けて! 助けて! 助けて!」


助けを求める声は、僕に向けてだろうか。

ただ、金縛りのように足が動かないのだ。

これは、悪夢か。


「ひゃっ!!」


チェーンソーがとうとう大きな音を立てた時、沙羅が薬のトレーに手をかけたのか大きな音が響いて、大量の薬が床に散らばった。


……そして、大量の血液が、ぐちゃっと音を立てたと同時に、白い布に滲んだ。


沙羅は、死んでしまったのだろうか。

チェーンソーの音とサイレンが鳴り止むと、束の間の静寂が流れた。だが……、


「どうして……」


何気なく、呟いた言葉だった。

しかしそれは、医者にも聞こえていたようだった。


低い革靴の足音が、ステップを踏むように近付いてくる。サイレンは、脳裏で何度も再生されている。頭がおかしくなりそうだった。

そして、その医者の足音の後ろから、正体不明のあのピンヒールの足音も重なって聞こえてくる。


「ああああああああああああぁぁぁ」


僕は発狂して、目を瞑った。

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