ホワイダニット・ホワイトの治験 ; revised

QUILL

Ⅰ 於・精神病院 ——懐疑——

 目が覚めると、そこは殺風景な部屋だった。拓郎は何だか酷くて惨い悪夢を見たような気がして、汗をかいていたTシャツの背中に手を伸ばしながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。


うぅぅぅぅ……、寒い。


ブルブルと震え上がりながら、さっきまで掛けていた毛布と布団の中に引っ込んだ。そうだった、と僕は非常に不鮮明な記憶を手繰り寄せた。僕があのような残虐極まりない行為を受けた(実際に受けたわけではなかったのに、記憶にはそのイメージだけが鮮明に焼き付いている)のは、確かクリスマス2日前の夜のことだった。この日時というのも実に曖昧で、僕の錯乱した意識がどこまで正確な把握をしていたのかは、僕の知るところではない。しかし、あの日から何日経っているのか、というのが1番僕の中では憂慮されるような切実な問題であると思う。もしも昏睡状態で数日間も生と死の境を彷徨い続けていたとでも言うのであれば、それこそ怖いことだと思うのだ。あの日は、雪が降っていた。雪が地上に降り注ぐ前は純粋な雫でしかなかったように、僕も元々は普通の人間だったのである。それが、普通でなくなってしまったのだから、僕はこの精神病院に入院させられているのだ。そして、それよりも、気になることがあった。例のトラウマになりそうな(事実、なっている)拷問のあのイメージについてだ。あれの場合は、全てが薬の副作用によって描き出されたものなのかどうか、確認がしたいところだ。


今、僕は精神病院のベッドの上にいる。そのことは間違いないだろう。確認に近くのチューブのようなものに触れてみると、視界にノイズが生じるように、眩暈がした。どうしてか、目の前に広がっている風景が現実でないような気がしてならない。それは僕が、病人だからだろうか。見渡す限りは、白い布で囲われた空間が広がっている。ベッドサイドには鏡が取り付けられていて、そこにはひどく老いた男が映っている。これが個室なのかどうかも分からないが、ホワイトで埋め尽くされた病室の雰囲気は北国の雪景色を思わせた。僕がそっと、手近の布に手を伸ばして軽くつついてみると、その隣にあるのであろう空間から声が聞こえた。


「うぅぅぅぅ……」


僕はその声のする方に、声を掛けてみようとする。


——あの、同室なんですか? 僕は拓郎と言うのですが、本日からよろしくお願いします。

と言った感じで。


しかし……、


カツ 、 カツ 、 カツ カツ

 カツ 、 カツ 、 カツカツ


——遠くの方から徐々に、ピンヒールのような足音が近付いてくる。隣人に入院当初から馴れ馴れしく話し掛けるような患者は、与える印象も良くないだろう。そんなことを思って、一旦また眠るような体勢に戻った。


カツカツカツ、カッ、カツカツカツカツ……


ヒールの音は、不気味なリズムを刻みながら、徐々に自分のベッドを取り囲むカーテンの近くへと迫って来つつあった。そして、その音は、やがて自分のベッドの前あたりで止まった。


カツカツカツカツ、カツ。


僕は非常に厭な気分で布団に潜り込み、音を立てないように耳を澄ましている。


すると突然……、


ガ ラ ガ ラ ガァラガラ、キー ガラガラガラ、

ギギギギギギギギ、ガラガラガルルゥ


といった調子で、異常なまでに耳障りな音が突如として響き渡ったのだ。耳を塞いでも突き抜けてくるその猛獣の雄叫びのような音は、数十秒ほどで止んだ。しかし、その後は嵐の後のような静けさが横たわっているだけだった。


——いったい、何だったのだろう。


ピンヒールの足音が僕のベッドを囲む白い布の前で止まって、耳障りな音があたり一帯に響いた後、恐る恐る布団の中から顔を出して白い布の途切れた隙間からその向こう側を覗いてみたら、ピンヒールを履いた脚などは1本も見えず、ただただ狐につままれたような不思議な気分になった。




 それから数時間、僕は入院時のカウンセリングを思い出していた。これもハッキリとどんな感じの質問を投げ掛けられたのか覚えていないが、何だか医者がすごく食い下がってきて、ありもしないことをあったように答えてしまった気がする。未明町という街で、複数の女性と交際関係を持ったということは、自分から話した事実だった。だがしかし、複数の女性との関係を続けるために、妻の金品などを質屋に売ったことなどはなかったと思う。それなのに、医者はそんなことを何度も「やったんですよね?」と問い掛けてきた。僕は次第に医者の質問の方が正しいような気がしてきて、「そんな事もあったと思います……」と、しどろもどろに答えたのだった。



コツ 、 コツ 、 コツ コツ

 コツ 、 コツ 、 コツコツ



——また、遠くから足音が近付いてくる。


これは、医者の足音だ。医者がやっと、診察をしに来たのだ。僕たちが正常な状態か見に来たのだ。


(いや、でも……)


一瞬、自分への疑問が芽生える。


そもそも、カウンセリングを最初に受けた時点では、医者は椅子に座ったままだった。足元を確認して、何を履いてるか見た訳ではないが、そもそも僕は医者の足音を1回も聞いていないのだ。なのに、それが医者のものだと分かった……、


コツコツ、コツコツ。


足音が止まったのは、僕の隣のベッドの前。さっきの足音はピンヒールの音だったが、あれは誰のものだろう。看護師か、それ以外。もしかしたら、侵入者か何かだった可能性も考えられる。それを踏まえた上で、僕は総合的に今聞こえた足音を、医者のものであると判断したのではないか。


いやでも、そんな思考が僕には残っているのだろうか。仮にも僕は今、精神病院のベッドの上に寝かされた患者だ。自分では、自分の頭のイカれ具合は計れないのだ。だが、それ以外に足音を判別できた理由があるだろうか。いや、ある訳がない。



医者が、隣の患者の名前を呼んだ。


「沙羅さん、本日服用分の薬です」




 医者は、ジャラジャラと音を立てて、アルミか何かのトレーに薬を入れたようだった。そして、次は僕のベッドの前へ来た。



「拓郎さん、本日服用分の薬です」




 目が覚めると、ベッドサイドのトレーには薬が入っていた。カラフルなそれらを手で数えてみる。


「60錠」


思わず口に出してしまった、薬の数。

明らかにこの量は多い。

しかし、精神病者に反論などできるはずがない。

飲まなければ死ぬ、と脅されるに決まっている。


仕方なく、それらを右手いっぱいに満たし、口元に近づける。左手には水の入ったグラスを持って、口元で右手を傾けた。



ポロ、ポロポロポロポロ……、



何錠か薬がこぼれ落ちた。ひとまず口に入った薬を左手の水で流し込んで、ベッドの下を覗き込んだ。


無い。


こぼれ落ちたはずの薬が、ベッドの下にも布の端にも見当たらないのだ。気味の悪さを覚えながら、もう一度ベッドの下を覗くと、薬はあった。


さっきから感じている地に足のついてないような感覚が、徐々に線になっていくような気がした。

拾おうとすると、また意識が途切れた。




 目を覚ますと、天井のライトがチカチカしていた。さっきこぼした薬……、

何を言っているんだ。まだ1回も医者に会っていないではないか。薬など飲んでいない。



カツ 、 カツ 、 カツ カツ

 カツ 、 カツ 、 カツカツ



——また、


違う。これが初めてだ。


ジャラジャラ。2回目なんかじゃない。


「拓郎さん、本日服用分のお薬です」


医者は、白い布の途切れた隙間からしか、その姿を見れない。




 ピンポンパンポン……

そんな音で、目が覚めた。

精神病院に館内放送などあるのだろうか。

視界が、赤い。

目が充血しているのかと思った。

けれど、目は痒くない。

ベッドサイドのテーブルにアルミのトレーがあり、その上に薬が置いてある。

これを飲めば、僕は正常で真っ当な人間になれるのだろうか。

僕は、それを飲んだ。

何回かに分けて、こぼさないように。

でも何でそんなことをやったのだろう。

自分は、せっかちな性格なのに。




 目が覚めた。電気が消えている。

目が痒い。目を掻こうとする。

手が虚空を掻く。

目が搔けない。

痒い。

痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い……、

絶対におかしい。

狂っているのは自分じゃないのかもしれない。

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