[第二話]始まりのレール:もう一人の王

 『ガイアの腕』と称されるこのレールの世界には、大小様々な国家が存在している。ごく一部の例外を除いてほぼすべての国家がレールに依存し、人々はそれにぶら下がる国家の中で生活しているのだ。


 その生活様式も国家によってさまざまで、ちっぽけな箱でせかせかとレールを辿りながら一人で暮らしている男もいれば、数百万人もの国民を抱えてゆったりと特定の線域を往来している巨大な国家も存在する。それらの国々は互いに取引をしながら、時にそれは戦争という衝突へと発展することもあったが、始まりの線域では幾つかの巨大な覇権国家が相互不可侵条約を結び合い、百年余りの平和な繁栄の時代を謳歌していた。



 『始まりの線域』という名は、かつて初めてこの世界を一周した国家がその旅を始めた線域であることから、その偉業を称える意味も込めてそう呼ばれるようになった。


 その線域には多くの国家が存在しているが、その殆どは常に陽が昇っており気温が高く、レールの数も多い線域の中央部である『昼の領域』を往来している。だが国家の規模が桁違いに大きい覇権国家は、その大きさ故の隣接するレールへの干渉を避ける為、中央部から離れた『朝の領域』か『夕の領域』を往来していた。


 始まりの線域の覇権国家の一つである『黒鉄の国』は、朝の線域側を往来している。その名の通りに国の外観は黒光りする金属質な装甲で覆われており、巨大な円盤の形をした十二ある階層と、国家の中心部を貫く昇降機を内蔵した柱で繋いでいる縦長い、特徴的な形状となっている。


 各階層を形成している巨大な円盤は一つ一つ(『一枚一枚』と言った方が的確かもしれない)が居住区やナノマシン工場、食料を生産する水耕栽培施設を内蔵しており、約二十万人の国民の生活を成立させている。


 その中の最上層の円盤の外縁部、国家の最上位層の国民が住む居住区から、一人の女性が外の世界を眺めていた。黒鉄の国の礼装である黒いスーツ姿で、立ち姿からその体が相当に鍛えられていることが伺えた。スーツの所々には国家の威信を現す黒鉄で繕われた大樹の意匠が施されている。特にその頭に飾られている黒いティアラは、彼女が王族であることを現すものだ。彼女は国の中央に背を向ける形でただ静かに、時の流れを気にする素振りも無い。


 居住区は側面と天井を透明な外壁によって覆われ、外の光が十全に取り込めるような作りとなっている。草木が植えられた公園や、空気に潤いをもたらす噴水が所々に造られているが、今の時間帯は国民の大半が仕事か学校での勉学に追われている為、それらを美しいと称賛する者はおらず。ただ、透明な外壁を内外から整備する半球型のドローンたちが微かな稼働音と共に働いているだけである。


 円盤の外縁部を囲う様に居住区は造られているが、レールと沿う方向には中央の昇降機へと繋がるメインストリートが存在している。居住区より内側にある工場区を貫くその道の先には、昇降機と一体化している摩天楼が派手な輝きを窓から零しながら立っている。居住区と違って上部が半透明ではない国の中心部は一日中暗くなっているが、その設計は摩天楼の輝きと威光を知らしめるためだと説明されたら、国外からやってきた人は無条件で信じ込むだろう。


 国の中心である摩天楼は、国を治める王族達の居城でもある。王族達は公務以外では摩天楼から出ることは無い。今まさに、国の外を眺めている彼女を除いて。



「ジュン様、またこのような場所に居られたのですね」


 ジュンと呼ばれた女性が振り向き、その声の主を見る。


「…居住区の管理長官から話を聞いてきた。そのついでに散歩していただけだ」


 そう応えると、視線の先の年老いた男は微笑み小さく頭を下げた。服装は黒いスーツではあるが、その服にジュンの着ている服のような凝った意匠は無く、彼が王族付きの使用人であることが伺えた。


 使用人の男は頭を下げたまま口を開く。


「左様でございましたか。しかし護衛の一人、いや私のようなじいの一人でも付けて下さらなければ、じいの心臓が持ちませぬ」


 男、じいの言葉に軽く溜息を吐きながら、ジュンのつり気味の目が柔らかくなる。


「王城にいると私のような異物はいつ殺されるとも知れぬ。まだ警備の目が行き届いている居住区にいる方が安全だ」


「王城から出ることには反対しませぬ、ただそれでも万が一の事態に備えて下さいませ…」


 絞り出すようなじいの言葉に、ジュンは少し視線を下げ、沈黙で答えた。そして再び国の外の、どこまでも広がる水平線を見た。



 ジュンは黒鉄の国の王族、先代の王の長子である。しかし父王が最初の子を成したのは使用人の女であった。黒鉄の王族の歴史上、そのようなことがかつて無かったわけではないが、その母と子は他の王族や有力な権力者たちから疎まれることとなった。


 使用人であった母を父王は愛したが、他の妃らから命を狙われ、毒物に起因する病で若くして命を落とした。父王はそれを悲しみ、残された娘を大切に守ったが、他の妃らとの間にも子を成した後、やはり病に伏してこの世を去った。


 ジュンは長子ではあったが、王族としての血の薄さや権力者たちからの支持の薄さを理由に自ら王位継承争いから身を引いた。それは祖父でもあるじいの忠告でもあった。彼女は王族としての生き方を早々に捨て、一介の国民として生きようと努めて来た。



「…じい、母の話を…また聞かせてくれないか?」


 ジュンは唐突に、しかし楽し気にじいに尋ねた。振り返ったその顔は言葉同様に微かな期待に染まっていた。


「…もちろん、何度でもお話しいたしますぞ」


 そう言うとじいはジュンを近くの芝生の上にハンカチを置いて座るように促し、正面ではなく少し逸れた前に自らも腰を下ろすと明るい口調で話し始めた。


 二人の間で何度も繰り返されたジュンの母の話は、しかし二人の気持ちをその都度あたためてきた。


 じいとその娘は元々タワーで働くドローン技師であったこと、黒鉄の国がタワー製のドローンを導入するにあたってドローンを扱う技術指導や整備士としてこの国へやってきたこと、先代の王が使用人として働き始めた娘から外の話を聞いて仲良くなっていったことや、ジュンが生まれる頃にはじいもドローン技師としての職を終え、娘と孫の為に王城で働くようになったこと…それらの間に起きた話をじいはこれまでに何度も話し、今回も同様に話した。ジュンもまた静かに聴いていた。


 ジュンはじいが話している間時折、側壁と一体化するように建てられている格納庫から飛び立つドローンを眺めた。じいと母がかつて導入したそのドローンは、今でも現役で働き続けている。飛び立ったドローンは透明な側壁と同化するように、高い位置に開けられた穴から外へと飛び立ち、側壁や天井外部の清掃や劣化を補修する為のナノマシンの散布を行っている。ジュンも母とじいの影響で、自然とドローンの構造や操縦に詳しくなっていた。じいが話してくれる母との思い出も職業柄、ドローンが関係したものも多かったから―――



 場所は違えど、黒鉄の王族らしい穏やかな時間を過ごしていた二人は、突然の異質な振動に表情をこわばらせた。ジュンは素早く身を屈めた状態に立ち上がり、周囲を警戒した。爆発音や何かが倒壊するような音は無く、実際に摩天楼の方を確認しても異常は見られなかった。


「別の階層で…何か良からぬことが起こっているのは間違いないようですな」


 じいが静かに状況を呟いた。ジュンはその声に混ざり、小刻みな振動と異常な振動が繰り返され、それが接近してくるのを地についた足と右手の平で感じ取っていた。


「下から…何かが上がって」


 ジュンがそう言った次の瞬間…


 自然と二人が向いていた国の中央にそびえる摩天楼が―――爆ぜた。内側から激流となって溢れ出て来た『水』に引き千切られるように。


 二人は何が起こっているのか、瞬時には判断できなかった。しかし先に気を取り直したじいが立ち上がりながら叫んだ。


「ジュン、逃げるのだ!」


 その声でジュンも立ち上がった。目の前の現象を理解するより逃げなければどうにもならない事態だということを、本能で感じ取っていた。しかし立ち上がったはいいがどこへ逃げればいいのか咄嗟には思いつかず、周囲を見渡す。そうしている間にも摩天楼だったものからは水が溢れ出し続けており、居住区まで辿り着くのも時間の問題だった。


「整備用のドローンに!あのドローンであれば人を乗せるのも造作もない筈…」


 じいが振動の中、ジュンの手を取り近場の格納庫へと駆け出す。ジュンも理解して、じいを追い越しながら格納庫の扉に描かれている大樹の紋章に触れ、扉を開いた。徐々に上部へ開いて行くじれったさから、二人共腰をかがめて格納庫へ突入する。


 内部には仕事を待つドローンたちが静かに並べられていた。じいが急いで二機のドローンを緊急起動させ、自動整備用の設定を素早く手動操縦へと切り替えるてゆく。その間も水が迫ってくる振動と音が近付いて来ている。


「ほ、他の人達は…」


「間に合わん!何が起きておるのかもわからん、自分が生き残ることを考えるのだ!」


 じいは整備士時代の口調でジュンに言い放った。ドローンを操る手は衰えておらず、二機のドローンが完全に起動し、微かに浮いた。じいが片方に飛び乗りながら言う。


「早う乗れ!もうそこまで来ておる!」


 ジュンもその言葉と同時にもう片方に飛び乗り、開いたままの扉から飛び出した。正面から向かってくる自ら間一髪上空へ逃れ、旋回しながら高度を取る。


「なんだ、これは…」


 自分達の下を流れて行く濁流を見てジュンは愕然とした。未だに水は摩天楼から溢れ続けて勢いは衰えず、国中を蹂躙していた。


 しばらくの間ジュンは呆然と眼下の出来事を眺めていたが、じいは周囲の観察を続け、工場区の高層ビルに人が取り残されていることを確認した。


「何か状況を知っておるかもしれん、ビルの人達に話を聞いてくる…ジュンは作業中のドローンを回収してあのビルまで連れてくるのだ」


 じいはそう言うと一人でビルへと接近していった。ジュンは再び気を取り直すと飛び去って行くじいの背中とビルを眺めたが、ビルの根元の水が異常に膨らみ始めたことに気付くと、背筋を伝わる寒気から逃れるよう、咄嗟に叫んだ。


「じい、だめ!水の動きが―――」


 次の瞬間膨らんでいた水が急激にビルの外壁を覆う様に登り始めた。それは獲物を貫く弾丸のように速く、


「おか…し…い……」


 瞬く間にビルを覆い尽くした水は次なる獲物であるじいへ向かって伸びると、声を上げる事さえ許さず、


「………………あ、ぁ」


 獲物たちを濁流の中へと引きずり込んでいった。


 ジュンは無言のまま、訳も分からぬまま、外壁上部のドローン用の穴から脱出した。



 惨劇の少し前、黒鉄の国からおよそ十キロメートル線境側のレールの下を、テンの国は全速力…とは程遠いスピードで辿っていた。


「…水耕栽培セットを受け取る前に出港しちまうとはねぇ…」


 自室に戻ってきたテンは椅子に座ると、背もたれに全力で体重を掛けながら伸びと共に苦々しく言葉を吐いた。自室の横にある食料栽培用スペースにいつも通りに水耕栽培セットの設置を終えてきたのだが、積み込むのを忘れていた水耕栽培セットと食料生産が遅れた分の食料をタワーデリバリーに頼んで持ってきてもらった出費のせいで機嫌が悪いのだ。


〔忘れたのは私のせいではないので、苦情は受け付けかねます〕


 ツウの言葉にテンはさらに目を細めた。事実これまでの目覚めではこのような初歩的なミスは起こさなかったし、ツウは常に国家の管理で忙しいことを知っている。他でもない自分のミスだからこそ、小さな出費だったとしても気にしてしまうのはテンの数少ない弱点でもあった。


「そうそう、忘れたあんたが悪いんだから…ぅん、まあ忘れてもらった方がこっちは儲かるからいいんだけど」


 窓の外から女性の声がした。ツウ二号機や幻聴などではなく、テンの部屋の窓が大きく開かれ、その外にドッキングする形で一台のドローンバイクが停止している。そしてその操縦席で、一人の女性が人口肉を薄いパンで巻いたものを頬張っているのだ。


 テンの机の上にも同様の食糧、『巻きパン』が半透明な容器に入れられた状態で置かれているのだが、テンションが下がっているからか手を付けようとはしない。代わりに視線を配達員の女性へ向けて口を開く。


「…仕事が終わったんなら帰れ!こんなちっちゃい国に無理矢理引っ付いてさぼってんじゃねえぞまったくよぉ…」


 小物臭漂う文句を垂れるテンに対して女性二人が噛みつく。


〔初対面の女性にストレスをぶつけるのは感心できませんね〕


「管理AIいいこと言うじゃん!…んく…『国王』かつ『お客様』だからって何言ってもいいと思ってたら大間違いだし、こんなちっちゃい国の癖に」


「国は小っちゃくても!俺はタワーと!『ガイアの腕』一の覇権国家と!研究協定を結んでんだよ!国のサイズだけ見て馬鹿にするなよ?」


 安直な挑発に乗るテンと配達員との間で言い争いが激化する中、ツウは国の正面を監視するカメラに映った映像をモニターに映し出した。


〔テン様、お遊びはここまでに。こちらをご覧下さい、様子がおかしいです…〕


 真剣な口調のツウの言葉にテンも一瞬でテンションを戻し、モニターを確認する。その変わりように配達員も口をつぐむと、窓の外から一緒にモニターを確認する。


 ツウはカメラで確認できるテンの国とは反対側のレールを向かってくる黒鉄の国の下部をアップで映す。


「懐かしいな、黒鉄の国か…相変わらず変な形…?」


 テンの視線が鋭くなり、モニターのある箇所に引き付けられる。


「…海が、せり上がってるのか?」


 モニターには黒鉄の国直下の海が大きく盛り上がり、国の最下部へ接触しようとしている様子が視認できた。


〔現在、この国が保有するデータベースには同様の現象は記録されていません。タワーのデータベースへの接続の許可を求めます〕


「許可する」


 それだけ言うとテンはモニターから目を離さずに食料に手を付け始めた。その真剣な眼差しのまま巻きパンを一口食べて飲み込むと、窓の外の配達員に声を掛ける。


「お前は…こういうのは見たことがあるか?」


「ないよ、海がこんなふうに動くわけ…ないじゃん」


 即答された言葉にテンは頷かなかった。海がついに黒鉄の国の底へ触れようとしていた。そして次の瞬間、ツウの声が響く。


「タワーのデータベースにも同様の現象に関する記録は確認できませんでした。この現象は正真正銘、この世界における初めての事例と言えるでしょう」


 そしてその言葉の終わりと同時に、海が黒鉄の国の底に触れた。盛り上がった海は急速に縮み始めた。しかしそれは海水が元ある場所へ戻った訳では無く…急激に黒鉄の国を登り始めたのだ。その黒と透明な外壁を覆い尽くしながら。


 最下部の円盤を覆い尽くした海水は、外壁に開いていたドローン用の穴を通って国内へと侵入していった。国内へと水が流れ込み始めた為に外壁を登る海水の勢いは急速に削がれたが、国内を登って押し流してゆく海水が透明な外壁を通して確認できた。それは下の階層から次々と上の階層へと伝わって行く。


「黒鉄の国に通信を繋げ!」


〔了解しました〕


 テンの激しい声にツウはいつも通りの冷静な声で答える。そしてそのままテンはモニターを凝視していた。国家間の通信は特に特別な同盟関係に無い限りは、レールを通じてツウのような管理AI同士の会話機能を代用して行われるのが一般的である。


〔…通信接続不能のようです。恐らく既に黒鉄の国中枢部まで、あの海水に侵入されているものと思われます〕


 ツウの冷静な返答に、テンはしばらくの間応えられなかった。テンの国は変わらず前へ、黒鉄の国方面へ向かって進み続けている。


「…『黒鉄の国』は覇権国家の一つだぞ…それが一瞬で…」


 テンが絞り出した言葉に、配達員が我に返ったように声を上げた。


「ってこのまま進んじゃっていいの!?戻った方が…」


〔…私達の目的地はあの先にありますが、貴女はすぐに仕事に戻るべきかもしれません〕


 ツウが静かに答え、一呼吸置いてテンも頷いた。女性配達員はそれを見て一瞬動きを止めて、思い出したように食事の容器を片付け始める。


「それでいい。俺はこの現象に興味があるが、安全とは言い難いからな」


〔テン様、生存者を確認しました。モニターに映します!〕


 ツウの報告に二人の視線がモニターに釘付けになる。映し出されたのはタワー製のドローンに乗り、対岸のレールへ逃れようとしている一人の女性の姿だった。


 しかしドローンは見た目通り決して速くなく、彼女を追う様に海水が最上段の円盤の上で盛り上がり、腕を伸ばす様に彼女へと迫っていた。


「おいお前!さっさとドッキング解除しろ!」


 テンが素早く怒鳴った。その言葉に配達員はドッキング用のアームをテンの国から引き離した。そしてアームを格納しながらレールの上部まで上昇して行く。それを確認したテンがさらに叫んだ。


「全速力!生存者の救助に向かう!間に合うかわからんが何もしないよりはましだ!」


〔了解しました〕


 国が加速し始めるのと同時に窓が閉じた。そしてこれまでの遅さが嘘のような速さでテンの国は前進して行く。その先では既に、生存者と彼女を乗せたドローンがテンたちのいるレールの上に辿り着いていた。そしてそれを追う海水の腕もレールに纏わりついて彼女を追っている。悪いことに、生存者はテンの国とは逆方向へと逃げていた。


「外部スピーカーにマイクを繋いでおけ」


〔了解しました。しかしまだ声は届かないでしょう〕


 ツウの言葉通り、生存者との距離はまだ三キロメートルほどあり、声が届くとは思えなかった。そして海水の腕は黒鉄の国から伸び続けており、その速さは生存者のドローンを明らかに上回っていた。


〔このままでは、我々が追い付く前に生存者が飲み込まれます〕


 ツウの報告にテンはただ目を細めて独り言のように答える。


「海水がこっちに進路を変えてくれるかと思ったんだが、そんな知能は無い感じか…?」


 そう言った瞬間、モニターに映るレールの上部、二人の国を高速で追い抜いて行く影が映った。その影の正体を悟ったテンがスピーカー越しに声を掛ける。


「無理はするなよ?あ~…お前、名前なんだ?」


 恐らく後半は聞こえていないだろう。それほどまでにドローンバイクは速く、テンの国を引き離していった。



 そして生存者を追う海水が覆うレールの直前で機体を上空へ跳ねさせた。海水に触れることなくドローンバイクは海水を飛び越える。


「荷台に乗り移って!」


 それだけ叫ぶと、そのまま生存者の前方に降下した。ドローンバイクのエンジン音に気付いていた生存者、ジュンは目の前に降下してきたドローンバイクに驚くことは無く、並進してきたその機体後部に必死に手を伸ばし、そしてこれまで乗っていたドローンを一目見た後、それを蹴り飛ばして乗り移った。


 蹴り飛ばされたドローンがレールへと叩きつけられ、二人を追ってくる海水に飲み込まれた。ドローンバイクは再び速度を上げ、迫る海水を引き離そうと試みる。しかし重量が増した機体は先程までのスピードを失い、海水に追いつかれなくとも引き離すことも出来なかった。


「ありがとう…私はジュン」


「ジュンね?『コウ』、私の名前」


 操縦している配達員コウも、荷台にのって操縦者の背中にしがみついているジュンもそれっきり言葉を交わす余裕も無く、ただ得体の知れない恐怖に追われながらレールの上を進み続ける。黒鉄の国の横を通り抜けてそれなりの距離を進んできたが、追ってくる海水の勢いは衰えない。激しい水音が常に背後に張り付いている。


 ふとジュンは首だけを僅かに後方へ向け、横目で祖国を確認した。海水に覆われたままの祖国は動きを止め、そこに生き残っている人間はいないのだということを知らしめていた。そしてその国の残骸から自分達の真後ろまで海水の腕が伸びてきている。重力を無視したその動きは、まさに獲物へと伸ばされた長い腕のように、生き物としての意志を感じることさえ可能だった。だからこそジュンも、コウも恐怖に苛まれた。


 そんな彼女たちの耳に、水音とは別の、人の声が聞こえて来た。


「…か?そ…そろ聞こえるか?」



「もう聞こえてるな?これから『空間凝固型障壁』を展開した状態で突入し、あの水を吹き飛ばす!お前達は合図と共に左側へ飛び退いて、開いた窓の位置にバイクをドッキングさせて部屋に飛び込んで来い!」


 そう言うテンは既に自分の部屋から狭い廊下へと退避していた。ドアは開いたままだが大事なモニターと椅子も持ち出し、そこからカメラの映像を確認しながらタイミングを計っていた。


「…そもそもドローンバイクって二人乗りして飛べるのか?」


 ふとテンの心を不安がよぎったが、今更作戦を変えるわけにもいかず気にしないことにした。


〔空間凝固型障壁、展開準備完了しました〕


 ツウの安心できる声を聞き、テンは気合を入れ直す。


「よし…展開開始!飛べ!」



「飛べ!」


 確かに後方からそう聞こえた直後、コウはドローンバイクを左側へと跳ねさせた。それを追って海水もレールの左側へと伸びる。


 そしてその腕のように伸びる海水を轢き飛ばしながら、障壁を展開したテンの国が間に割って入った。飛び散った先の海水は死に絶えたように力を失い、遥か下方の海面へと落下していった。同時に展開されていた障壁が砕け散り、テンの部屋の窓が開く。


 命令通りにレールの左側へと飛び出したドローンバイクだったが、操縦者のコウはすぐに二人乗りの功罪に気付いた。


「やばい、高度が維持できない!?」


 ドローンバイクはゆっくりと、しかし徐々に加速しながら高度を下げて行く。普段ならば海水面まで降下したとしても、そこから近場のタワーまで行けばよいだけだが、正体不明の海水に追われているという今の状況で、海水面まで降りたくは無かった。コウはハンドルを右へ全力で切ると、背中にしがみついているジュンへ叫ぶ。


「ごめんこのまま突っ込むから衝撃に備えて…!」


 そして真っ直ぐに、高度が足りている内に部屋の開いた窓へと狙いを定めて素早く突入した。



 凄まじい衝撃が、テンの部屋を中心に小さな国を襲った。それでも国は速度を落とさず、未知の敵から逃れるように進んでゆく。


 衝撃から立ち直ったテンがモニターを持ち、無言で自分の部屋を覗き込む。そこには床に転がったドローンバイクとエアバッグが作動して上半身がもこもこな気を失ったコウ、そしてその傍らに片膝を突く形で着地していたジュンの姿があった。


 ジュンが視線を上げると、その強い眼差しがテンと交差する。二人はしばらく無言で見つめ合ったが、ようやくテンが口を開いた。


「…、あんたは無事そうだな?よかったよ、助けられたのなら…」


 その言葉にジュンの口が僅かに開いた。表情も柔らかくなり、二人の間の緊張感が急に解けた。同時に床に転がっていたコウが呻き声をあげて身をよじる。ジュンがテンへの警戒心を解き、コウの上半身を抱き上げる。もこもこな着衣式のエアバッグに妨げられて上手く抱きかかえられない彼女を見かねて、テンが歩み寄りエアバッグの左肩部にある、小さいファスナーに手を掛ける。


「この中に栓があるんだよ」


 そう言ってファスナーを下ろして中の栓を抜くと、瞬く間にエアバッグが元通りのサイズへと縮み、ジュンは初めて見るその変貌に驚き、傍らに立つテンへ視線を向ける。


「あ、ありがとう…初めて見たんだ」


 視線をコウの顔に戻して少し恥ずかしそうに言うジュン。テンは頷きながらモニターを机の上に戻すと、改めて視線を向けて話し掛ける。


「俺も起動してるところは初めて見たよ。知ってたのはまあ、年の功って奴かな」


〔お取込み中失礼します。件の海水にさらに動きが見られました〕


 その言葉と共にモニターに外部の映像が映し出された。テンの国の後方を監視しているそのカメラは、海水がこれ以上追って来ていないことと、黒鉄の国の対岸まで伸びていた海水の腕が、本体まで戻っている様子が映し出されていた。


 しかし海水は変わらず黒鉄の国を包み込んでおり、黒鉄の国の前後のレールも広範囲にわたって海水に覆われていた。


「獲物を諦めるだけの知能はあるんだな…」


 テンの呟きにジュンは息を呑む。テンが考え込み、再び無言の時間が訪れた。しかしその沈黙は、モニターから流れて来た音で遮られた。


「何だ?この音は…」


 外部カメラに付属しているマイクが拾った音、絞り出された悲鳴のような音にテンとジュンはただ無言のまま、モニターに映し出された映像を眺める。


〔不明です。この国のデータベースには無い音です…ただ、物体を無理矢理に捻じ曲げている音のように聞こえます〕


 聞いた事があるようで正体不明の、故にあまりにも不気味な音だった。テンの国はその間も全速力で海水の塊から離れ続けている。しかし音は距離に反して徐々に大きくなって行く。そして―――


「レールが…」


 ジュンが映像の異変にいち早く気付いた。海水は黒鉄の国の外壁を次々と登りながら覆い尽くし、国の何倍も巨大な塊になっていたが、黒鉄の国とレールの結合部、そのテン達から見て手前側が一瞬しなり、直後、さらに巨大な、獣の咆哮のような音と共にレールが折れた。


 あまりの轟音にコウが目を覚まし、ジュンは言葉を失ったが、テンはモニターへ向けて素早く叫んだ。


「タワーに伝達!第一・第二タワー間で外部レールが崩落、周辺国家の避難誘導を急がせろ!」


〔了解しました〕


 未だ轟音は続いていたが、何とかその言葉を聞き取ったツウは返答すると通信に専念する為に沈黙した。モニターには黒鉄の国が落下して行き、崩落個所から次々と、支えを失ったレールが連鎖的に崩落する様子が映し出されている。


 その崩落個所の伝播速度は全速力のテンの国を凌駕し、ついに国の隣のレールも崩落を始め、テンの国を追い抜いていった。


「…何が、起こってるの?」


「レールが国と海水の重さに耐えられずに折れたんだ…」


 理解できていないコウの言葉に、テンが静かに答える。テンはよく理解できていなさそうなコウに顔を向け、続ける。


「レールがタワー間の超長距離を支柱も無く形を維持できているのは、その内部に多量のエネルギーを流してレールを構築しているナノマシーンの形を維持しているからだ」


 そこまで言うと視線をモニターに戻してさらに続ける。


「一か所でも折れてエネルギーの流れが途切れれば、広範囲のレールが崩落する…今見ている感じで、な」


 モニターは惨劇の映像と崩落の音、そして黒鉄の国と崩落したレールが海水へ落下する音をただ淡々と伝えている。崩落は折れた地点から前後両方へ向けて、いまだに伝播し続けている。


 テンが頭を掻きながら溜息と共に吐き捨てるように言う。


 「この様子だとタワーのだいぶ近場まで崩落するかな…違うレールでよかったと、思うべきなんだろうな」


〔タワーへの情報共有が概ね完了しました。ただ詳しいデータや目撃者であるテン様、生存者様からの情報を『内密に』知りたいとのことでしたので、第二タワーに到着次第、タワー内部で聴取を行うとのことです〕


 ツウからの報告にテンは首肯で応える。そして未だに呆然としている残りの二人を一目見ると部屋のドアへと向かいながら言う。


「了解、第二タワーは元々の目的地だし、このまま全速力で頼む…三人分の食料がねえからな」


 そう言うと部屋を出て、水耕栽培部屋へと向かった。



 部屋に残された二人は、扉が閉まる音ではっと我に返った。それをカメラ越しに確認したツウが静かに話し掛ける。


〔…癒される音楽でも流しましょうか?〕


 モニターからそう、声が聞こえると続けて単純な音楽が流れ始めると共に外の映像が消え代わりに、いつ撮影したのだろうか、綺麗な星空や雲一つないひたすらに青い空、橙に染まる夕暮れの空などが代わる代わる映し出される。


 二人はしばらくの間それを眺めて、コウが先に口を開いた。


「ありがと、やっぱり性格と出来のいい管理AIね」


〔お気に召したのなら幸いです〕


 微笑んで謝意を伝えるコウに丁寧に返すツウ。しかしもう一人、ジュンの表情はただ暗くなり、そして流れる音楽に隠れるように微かに呟いた。


「なん・・・で・・・」


 その後は言葉にならず、ただうな垂れて涙を流し続けた。

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