第3話

 自分の部屋に着いてみて、この部屋には文子しか入れたことがなかった、それがここを穢しているように感じる。一回目でそう感じたから、以後は招いていない。文子とは日曜日にデートをする。他の曜日は会わない。前まではどこかのラブホテルでしていたけど、彼女の親がタワーマンションの一室を買って、そこに文子が住むようになってからは専らそのマンションでしている。反吐が出る。向こうの両親は稔を婿にしたいらしく、わざわざマンションの契約に稔を同席させた。つまり、婿になればこの部屋をやる、と言う。そもそも原資が遺産の金だと言うことも胸糞悪いのに、たった一億五千万で俺の人生を買えると値踏みされたことに腹が立つ。そんな人間の息子に誰がなるか。文子といずれ別れると決意した、その一つの根拠になった。でも、ラブホ代をケチって稔はそのタワマンで文子とする。そこで休まることは一切ない。

 文子が稔の部屋に持ち込んだ穢れと同じもので、そのタワマンは満ちている。

 何をしても自室の文子の穢れが取れない。いっそ久美をここに連れ込んではどうかと考えたこともあったが、住居が知られるリスクの方が嫌だったからやめた。でも、この部屋で落ち着けないのは文子を入れるよりも前からのような気もする。

 シャワーを浴びて、布団に入る。肌から侵入して来る緊張の侵攻が止まらない。それを無視するように瞼を閉じる。呼吸の一つ一つがため息のように感じる。正しいことって何なんだろう。他人が押し付ける倫理観や正義感ではないことは間違いない。最大公約数の正しさなんて信用する方がどうにかしている。……ないのかも知れない。正しさなんてものはそもそも幻想でしかなくて、存在しないのかも知れない。間違っていないことをいくら集めても正しさには通じないように、誰彼の思い描く正しさを並べて吟味しても、矛盾しか生まないんじゃないのか。だったら、正しさを基準に考えることは放棄した方がいい。俺はとっくにそうしている。いや、自分がしていることを正しいとはそもそも思っていない。だけど必要だからしていることと、抜け出せないからしていることが重なっている。その重なりは正しくない。それでも生き残るためには重ねるしかない。

 眠気が来ないからベランダでタバコを吸う。ベランダの方が僅かに落ち着く。

 文子と別れなくてはならない。理由はいくらでも挙げられるけど、彼女は俺と結婚したがっていて、俺は穏やかでいられないあいつと生きていく未来を何としても回避したい、それで十分な筈だ。文子は髪を伸ばしている。結婚式で結うためだ。その髪を鋏でジョキンと切りたい。真剣に未来を考えるから別れる。それだけで納得してくれたらどんなに楽だろう、本物のため息が出る。

 再び布団に入る。本来なら聖域の筈のこの場所が、一番汚染されている。どうして俺はここに彼女を呼び入れてしまったのだろう。さらにセックスまでしてしまったのだろう。浅はかだったあの日の俺を叱りつけたい。ここは落ち着かない。だけど、ここで寝るしかない。久美と一緒に眠ったら深く眠れるのだろうか。でもその一線は越えたくない。彼女が俺にとってどんな存在であるかを変質させる愚を犯したくない。夜から同じ夜までの間に封じ込めておかなくてはならない。

 夜はどんどん更けてゆく。眠気は全然来ない。俺は一体何を欲しているのだろう。


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