第二話 少女選び

 初夏の日差しは眩しくて、駐車場から研究所への道のりを歩いただけでも汗が滲んだ。空は澄み渡っていて、白い雲がふわふわと浮いている。先を歩く父親と距離が空き、慌てて追いかける足取りは軽い。本当に浮いているのは雲ではなく、こちらの気分なのかもしれなかった。

 白木紡績研究所兼製糸工場は、五つの棟に分かれていてその内二つが飼育室のある棟なのだという。二棟は最初に建てたもので、後から建てた三棟は事あるごとに増築を繰り返して建てたため、灰色で長方形の棟が敷地内に乱立していた。

 父親は守衛室に軽く会釈をしつつ、ICカードをかざして本館へと入る。本館は来客者が主にやってくるらしく、ロビーには敷地の図面や会社の歴史、これまで開発した絹糸が展示されていた。

 建物内の空気はしんと冷えている。今日は土曜日だから、社員はほとんどいないようだった。父親が腕時計を見たあとに上階を見る。誰かを待っているようで、しばらくすると階段を駆け足で下りてくる音が降ってくる。

「すいません、遅れました!」

 白衣を翻してやってきたのは、古賀くんだった。慌てて羽織ったのか白衣のボタンは留めておらず、髪も少し跳ねていた。しかし姿勢よく立つ姿はいつもとは違い、どこか凛々しくて仕事をする人の顔をしている。

「準備は出来てますよ。メイが三柱、イツミが一柱、レナが二柱、その他が二柱。みんな二齢幼虫なので選ぶにも育てるにも丁度いい頃かと」

 満足そうに父は頷いて、父を先頭に僕と古賀くんは後ろを付いていく。渡り廊下を渡り、更に廊下を進んで地下へと下りる。本館で待っているときに見ていた地図を思い出しながら、今はおそらく第二研究棟にいるはずと予想を立てる。

「仕事着の古賀くんって不思議な感じ」

「そういやこの格好は初めてだな。どう? 似合ってる?」

 袖を持ち、手を広げるようにして白衣姿を見せてくれる。見慣れないけれど、白衣は長く着られたせいで生地が柔らかそうで、いつもこの姿で仕事をしていることが一目で分かる。

「意外とね」

「良かった。学生のときは似合わないっていつも言われてたんだよね」

「……なんとなく学生っぽくは見えるかも?」

「若くていいだろ?」

 古賀くんは童顔で若く見えるから、研究者というよりは大学で研究している学生のようにも見えた。

「私は本館で仕事をしながら待っているから、古賀と二人で選んできなさい」

 渡り廊下を渡った先の扉の前で、父はそう言い残して廊下を戻っていった。てっきり父も来るものだと思っていたから少し戸惑う。

「自分がいたら健くんが選びにくいと思ったんじゃない?」

 戸惑いを察した古賀くんがそう言った。確かに父親がいたらどこか選びにくい気がしたから、これで良かったのかもしれない。

 手を洗い、専用の白いつなぎを着て、不織布の帽子を被る。古賀くんの髪が跳ねていたのは、どうやらこの帽子を被っていたせいだったようだ。

 手をアルコールで消毒し、向かう扉は二つ並んだ小さな個室。更に向こう側にも扉がある。

「この個室は扉を閉めたら空気が出るエアシャワーだよ。塵とか埃を飛ばす」

 いってらっしゃーい、と軽く言って古賀くんは僕を押し込み扉を閉める。すぐにブオォという激しい音と共に強い風に吹かれてファサファサと服が靡いた。十数秒で風は収まり、奥の扉へと進む。そこには同じ格好の女の社員さんがいて、軽く会釈をすると向こうも軽く会釈をして近くの扉に入っていった。程なくするとエアシャワーの個室から古賀くんがやってくる。

「他にも社員の人いたんだ」

「少女の世話をする人と研究の関係で休日出勤せざるを得ない人はいるからな」

「古賀くんも?」

「そう、俺も。けど振替休日は貰ってるよ。イレギュラーな業務も多いけど、そういうのは一応ちゃんとしてる」

 たまにうちで食事を作るのもイレギュラーな業務の内なのだろうなと思う。公私が混ざりすぎているのではと思わなくも無いけれど、あの仕事は古賀くんしか出来ないようだから仕方ない。

「結構厳重なんだね」

「『カイコガの少女』は病原菌にもウイルスにも寄生虫にも弱い。蚕と人の両方の病気に感染するから、かなり過敏に対策してる。繊細なんだ」

 エアシャワーの扉の向こうは廊下になっていた。成長過程ごとにいる部屋が違うらしい。飾り気の無い廊下を奥へと進んでいく。

「二齢幼虫はここ」

 古賀くんが重い二重扉を開き、続いて自分も部屋に入る。左右の壁沿いに五つずつ檻が並んでいた。檻の高さは膝ほどの低いもので、見た目は檻というよりは枠に近いだろうか。一つの檻につき一人の少女が寝転がっている。

 一番手前にいる少女と目が合った。

 美しい白い少女。

 動悸がする。

「固まった?」

「……どうすれば」

 少女を見ていると脳裡に記憶の少女がちらついた。どうやったって手の届かなかったモノが今目の前にいる。どれを選んでもいいという。身近で育てていいという。どんなに愛でても許されるという。そんな幸せなことがあっていいのだろうか。記憶の少女を、今なら記憶の中でも撫でられる気がする。

 ポンと背を軽く叩かれる。それで少し正気に戻って、見上げると古賀くんはなんだか楽しそうに微笑んでいた。

「さぁね。見て触って優しくしてあげればいいんじゃない?」

「……難しいことを言う」

「健くんに育てられる少女は大事にされるんだろうな」

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ」

 グローブを嵌めた手の甲でマスクごしにグイグイと頬を捏ねられる。一体、自分はどんな表情をしていたのだろうと恥ずかしながら思う。

 少女は大きな絹の布を身体に巻き付けていた。どうやらそれが落ち着くから、一匹に一枚与えられているらしい。布はちゃんと巻かれている訳ではなく、少女によってははだけていてなだやかな胸や四肢も顕になっていた。けれどどうしてかあまりいやらしくは見えない。精巧な美術品を見ているときと似た気分で、自身の情欲を動かすことこそが浅ましいことなのだと思わされた。だからとてもではないが、触れられない。美術館に飾られるゴッホやモネの描いた絵を見たときのような、繊細なガラス細工を前にしたような、触ることは憚られる美しさだった。正確には壊れそうだから、というよりは触れれば汚してしまうのではないかという心配の方が勝る。

 少女は髪の長さや顔付きが違い、檻の中の様子にもそれぞれの個性が表れていた。

 布を巻き付けて寝る少女。

 ゆっくりと葉を食む少女。

 仰向けに天井を見る少女。

 寒いのか丸っている少女。

 退屈そうに目を擦る少女。

 後ろを向いたままの少女。

 扉のある方に近寄る少女。

 腕を舐め綺麗にする少女。

 そしてーー一番左奥には手を地に付けて両腕で上半身を支え、こちらを見ている少女がいる。

 黒目には鏡のように僕が映り、透過して少女の目の奥に像を為す。

 後から考えてみれば、きっともうこの時既にどの少女を選ぶかは決まっていたのだろう。実際のところ、選んだのか選ばれたのかも微妙なところだ。もしかしたら少女に見初められていたのかもしれなかった。本物の運命は向こうから見つめてくる。双方が能動的に噛み合ったとき、運命は訪れるのだ。

 歩きながら順番に少女を見ていく。

「似ている顔の子が何人かいる?」

「モデルがいくつかあるからな。さっきメイとかイツミとか言ってただろ? 遺伝子を提供した人の名前を元にしてモデル分けしてる」

「オススメの子はいる?」

「みんなオススメだよ。メイモデルは目が切れ長で、他のモデルに比べると肌が一段と白い。そのせいか、産まれた瞬間は内側から淡く発光しているようにも見えると言われている。レナモデルは丸い目が特徴で美食家、イツミモデルは少したれ目の食いしん坊。残りの二柱は形質が安定しきってないからまだはっきりとした特徴は掴めてないけど、どちらも可愛さは俺のお墨付き。モデルによって多少の性格の違いはあれど、育てやすさの差は無いから好きに選びな」

 そう説明しながら、檻の中の枯れている桑の葉を取り除き、しゃがんで状態を見て、たまに少女を撫でている。その動作は自然で、普段もこうやって少女の世話をしているのだろう。

「古賀くんはいつも名前を付けてるって聞いたけど、この子達にも付いてるの?」

「付けてるけど、そんなの知らなくていいだろ。お前だけの少女なんだから」

「━━僕だけの少女」

「名前も自由に付けていい。呼ぶ度に愛が増すような名前を付ければいい」

「……難しいことを言う。名前を付けるなんて、普段全然しないし」

「ゲームの主人公に付けるくらいはするだろ?」

「それはまたちょっと違うじゃない」

 手前から少女へと足を進める。

 最奥の少女は長い髪を床に広げ、どこか睨み付けるように目を合わせた。少女の周りだけ温度が低いような、不思議な雰囲気を纏っている。

「気になるなら開けて触ってみてもいいよ」

 引っかけるだけの簡単な鍵を開けて檻に足を踏み入れる。

 目線を合わせるようにしゃがむと、少し警戒しつつ腕を使い身体をにじるように寄ってきた。

 ゆっくりと瞬きをしてこちらを窺っている。撫でてもいいのだろうかと手を伸ばすと、驚いたように頭を引っ込めた。

「ごめん」

 反射的に謝り、びっくりさせてしまっただろうかと行き場を失くした手を彷徨わせていると、少女がこちらを鋭く睨んだ。次の瞬間、口が開く。白さと対比するような赤が見えて、口の中は赤いのかと考えていると。

「えっ」

 噛まれた。

 左手の薬指と小指の先に少女の口が食らいつき、思わず手を引いた。指先から歯が擦れていく感触がした。

「いっ……たくない」

 どうやら噛む力はさして強くは無いようで、痕も無ければ痛みも無い。ただ衝撃が大きくて、心臓がバクバクと早鐘を打っている。

「そう、痛くないでしょう? 歯も小さいからね」

「嫌われたかな」

「びっくりしただけだよ。餌でもあげてみるといい」

 噛まれた手に古賀くんは桑の葉を握らせた。まだ新しい瑞々しさの残る桑の葉だった。

 少女は目線を外していたが、桑の葉を視界に入れるとこちらを向いた。さっき俺を噛んだ口が再び開かれて、今度は葉を口に含む。

 すると目付きが驚くほど柔らかくなって、頬が緩み微笑むような表情を見せた。そんなにも美味しそうに食べるなら、僕も味見がしたくなってしまうくらいだった。

 端から削っていくように柔らかい葉を噛みしだき、たまにゴクリと嚥下するために喉が動く。葉を食べ終えると、心を許してくれたのか今度は手にすり寄ってきた。白い頬はすべすべとしていて、銀の髪は触れる度に繊細なカットをされたダイヤモンドのようにキラキラと光を反射する。

 なんて美しく、そして愛らしいんだろう。

「その子を選ぶんだね」

 まだ選ぶなんてまだ一言も言っていなかった。けれど、確かに自分はこの子にすると確信している。

 似ていると思った。記憶の少女に少しだけ。見た目は全然違うのに、どこか有り様が━━謂わば魂の形が似ているような気がした。

 名残惜しくも少女から手を離し、檻を閉める。

「ファーストインプレッションは大事だからね。俺もなんとなくその子を選ぶかなとは思ってた。準備して後で連れていくから、帰りながら名前を決めるといいよ」

「名前……名前か」

 自分の名前は『健やかであれ』という至極分かりやすい由来だった。確かにこれまで大きなケガや病気をしたことがない。それはこの名前だからとは言わないけれど、人一倍健康でいることを意識しているようには思う。名前には付けた人の願いが強く籠められている。

「古賀くんの下の名前は何て言うの?」

「櫂斗だよ。北斗七星のような目印を目標に、オールのように自分で道を切り拓けるように」

「……いい名前じゃん」

「いい名前なんですよ。気に入ってる」

 自分の名前に不満はないけれど、おしゃれで羨ましい。

「……古賀くんは呼ぶ度に愛が増すような名前を付けてるの?」

「自分で言ったけど恥ずかしいな。実際のところ付け方なんて適当だよ。音の響きとか、見た目のインスピレーションとか、そのときハマっていたものとか。名前は呼んでたら愛着が湧くものでもあるからな。付けてから理由が増えることもある」

「順番が逆転する?」

「そういうことも、稀によくある」

 飼育室を出て仕事をしていた父親と合流し、一旦家に帰ることにする。

 その日のうちに自分の部屋には飼育セットが設置され、夕方には古賀くんの運転する小型トラックで少女がやって来た。

「トラックも運転できたんだ」

 古賀くんは運転席から降りて荷台へと回った。僕はその後ろを付いていく。

「俺は意外と有能で万能だからね。多種多様な免許を持っている」

 トラックの後ろを開けると、飼育室と同じように低い檻の中で少女が眩しそうにこちらを向いた。外へ出るからか、身体にはケープのような服を被せられていた。

「健、運んでみる?」

「どうやって持てばいいの?」

「人を持つときと一緒だよ。前から抱き締めるかお姫様抱っこ、軽いから肩にも担げるよ。おんぶは掴んでくれないから、お勧めはしない」

 檻を開けてしゃがみ、少女の前に対峙する。脇の下に手を入れて持ち上げるものの、確かに脱力していてこっちを掴んでくれる気配なんて無い。どちらかといえば人というよりも米俵を持っている感覚に近かった。

「思ったよりは軽いかも」

「外見は人間だけど、中身は結構虫に寄ってるからな。骨も軽いし脆いから気を付けて」

「あ」

 外を向き、トラックの荷台の段差を降りようとしたところで思った場所に足場が無かった。背筋が冷えて同時に浮遊感に教われ、遅れてガンと後頭部に衝撃が走る。

 目を開ければ夕暮れ色の空があって、笑った顔の古賀くんが視界に写り込んでくる。腕の中にはしっかりと少女の感触。

「お、えらい」

 足を滑らせたが咄嗟に受け身を取って下敷きになった。トラックの荷台の端に頭を打ってしまってジンジンと痛む。

 顔だけを動かして少女を窺うと、胸の上で少女が不思議そうにこちらを見ていた。顔が近くて、どうすればいいか分からない。

「無理……」

「面白い顔してんな」

「うるさいよ……」

「見た目で言えば、健より二歳くらい年下なのかな。妹みたいだね」

「こんな妹がいなくて良かった」

「その心は?」

「毎日側にいたらどうにかなってしまう」

 古賀くんの手を借りながら起き上がり、持ち直してなんとか少女を自分の部屋にまで連れてきた。僕の部屋の檻に入れるとくるりと部屋を一瞥した後、ケープの上から絹を身体に巻き付けて寝転んだ。

「健とよろしくな」

 エサを部屋に運び入れた古賀くんが、少女を一度撫でる。やはり古賀くんには慣れているのか、撫でる手に甘えるようにすり寄った。古賀くんは「またな」と小さく言って、トラックを返しに行くからと職場へと戻っていった。

 父親は一度だけ僕の部屋へ来ていたけれど、少女の姿を確認して「ほう」と納得したように声を漏らしただけで部屋を出ていってしまった。元々口数が少ない方ではあったし、あの様子だとあまり他人が育てる少女には興味がないのかも知れなかった。

 少女と部屋に二人きり。撫で方も触れ方も何も分からない、分かったとしても容易には出来ない僕はただただ見つめることしか出来ない。

「……エサを、あげよう」

 触ることは出来なくても、エサくらいならばあげられるだろう。

 エサは檻の中に入れているけれど、新しく柔らかい桑の葉の方が食いつきはいいと古賀くんが言っていた。エサの袋から青々しく柔らかそうな葉を一枚とり、少女の口許に差し出す。

「お腹空いてる?」

 訊ねてみるものの、返事はない。少女には声帯がないし、言葉を解することも出来ない。しかしそれが声を掛けない理由にはならないと思う。きっと分からないだろうけれど、言葉に乗せた気持ちくらいは、雰囲気くらいは通じないだろうか。

 少女は葉を見るなり目を輝かせて嬉しそうに口に含む。あまりに美味しそうに食べるものだから、僕も少しお腹が減ってきた。

 少女の名前はまだ決まっていない。

 君に似合う響きの名前がまだ見付からなくて、僕は大層困ってしまっている。ただ目の前の少女が美しく可愛いことだけは分かったから、頭の中で名前を探しながら食事する姿をじっと見つめている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カイコガの少女 2121 @kanata2121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ