第一話 記憶とは違う少女

 カーテンの隙間から斜めに差し込む光を眺めながら、昔のことを思い出していた。真っ白な少女は今でも自分の記憶の中で鮮やかに生きている。真っ白なのに、鮮やかに。光や温度、静謐な空気を思い出し現実の情景に重ねるも、いま光の下にいるのは真っ白な少女ではなく濃紺のブレザーを着たクラスメイトだった。

 五月下旬の気温は心地よくて、腹を満たした午後最初の授業は眠気を誘う。自分も一つアクビをしながら座っている後ろの席から見渡すと、クラスの半数以上が顔を机に伏していた。午前中には体育があったから、尚更疲れて眠気に勝てないのだろう。教壇には日本史の先生が黒板を指しながら説明していて、過半数が寝ていることを諦めているのか特に気にする様子もなく淡々と進めていた。かくいう自分も教科書を開いているにも関わらず、その隣には数学の問題集とノートを並べている。宿題は授業中に終わらせた方が効率がいいものなのだ。この教室においては、起きているだけで偉い方。例え内職をしていたとしても。

 後ろから見れば、クラスメイトが授業を聞いているのか、それ以外のことをしているのかは意外と分かる。左隣は自分と同じように数学の問題を解いているし、一番前の席の女子生徒は先生との距離が一メートルも無いのに立てた教科書には近々映画化される話題の少女漫画を重ねている。ずっと片肘を付いている男子は手の中にイヤホンを隠して音楽を聞いていた。

 再び視線を戻し、目に留まったのは斜め前の席にいるカーテンの光の下にいる紺色のブレザーを着た生徒だった。先程まではちゃんと授業を聞いていたようだったのに、今は違うことをしている。真面目に何かを書いているが、体で隠れて何を書いているのかまでは見えない。ただあれは確実に授業に関することをしているわけではない。宿題をしているようでも無い。文字を書いているような動きではなかった。何度も短い線を重ねたり、丁寧に長い線を書引いたり、塗り潰したりしているように腕が動いていく。絵、だろうか。確か美術部というわけでは無かったようだが。

 前のめりになって、机と目が近い。完全に自分の世界に入っている。一体何をそんなに夢中になって描いているのだろう。

 授業が終了して通りすがる振りをして見ようとしたら、描いてあるものが思いのほか力作で思わず立ち止まってしまった。視界に入る影に気付き「ん?」と現実に戻ってきた彼女が上を向いて、僕と目が合う。

「机はキャンバス?」

「絶好のキャンバス。どんな紙よりも一番上手く描ける」

 絵は紙に記されていなかった。アイボリー色のメラミンの机に、ファッションショーでモデルが着ていそうな服が描かれている。顔には目や鼻のパーツの代わりに十字線が。

「怒る?」

 授業中に内職をしていることを怒られると思ったのか、彼女はそう聞いた。

「いいや? 何を描いてるのか気になって見に来ただけ」

 そう、と言いつつ授業時間中に終わらなかった仕上げを施していく。彼女の前の席の人はどこかに行っていたから、僕はそこに腰掛けた。

 まだ机にしまわれていない教科書に重ねられていたのは、カラフルで奇抜な洋服を着てランウェイを歩くモデルの写真集だった。ファッションショーの服をまとめた本のようだが、こんな本があるのか。

「これを見て描いてるの?」

「参考にね」

 2Bの黒鉛が文字を書くときとは違う筆致で的確な線を引いていく。迷いの無い線は一見すれば雑に引いているようにも見えるけれど、彼女の頭の中にある図面を手を介して出力しているようだ。だからこれは全て意図された線である。その証拠に、無駄な線はほとんど無く線が引かれる度に着々と完成に近付いていく。

「描いてるところを見られても恥ずかしいとかは無いんだ」

「無いね。それに白木だし」

 僕、だからなんだというのか。

 しかし説明をするつもりも無いようで、机に向かい続けている。描かれているのは広い襟で和装を模した上着に、左右の長さの違うロングスカート。襟元にレースを描き、服の皺を描き、斜線で影を入れていくと立体感が出てくる。しばらくすると出来上がり、満足げにしばらくその絵を眺めていた。そのまま流れるような動作で消ゴムを持って。

「待って、消すの?」

 修正をするわけではない。上から消ゴムの幅広い面を机に擦ったところで止めたから、肩の辺りが消えかかる。

「もちろん」

「勿体ない」

「この教室、放課後に補習で使うらしいからさ」

「消すの勿体ないとか思わないの?」

「ここに描いてるのはメモみたいなものだから。良いのが描けたら、家でちゃんと描き直すよ」

「……ちょっと待って」

 ポケットからスマートフォンを出して、逆さまのまま一枚写真を撮る。

「気に入ったの?」

「すごいなと思ったから」

「そんなことないよ。描いたら描けるものだし」

「そうは思わないけどな」

「白木の方がすごいじゃん。家はあの白木紡績だし、次期社長様だし?」

露果ろかの方がすごいよ。僕には出来ないし、誰でも出来ることじゃない。白木紡績は僕のものでもないし」

 社長様、という言葉に嫌味は無い。ただ他の人が僕のことをたまにそう呼ぶから、冗談めかして言っただけ。福井露果という人とは、そんな軽口で話せる仲だった。特別仲がいいという程でもないが、中学が同じで高校でもクラスが同じになったから、他の人よりも互いのことを知っている。そしてクラスメイトの中で僕のことをまともに同列に見る数少ない人だった。

「そんなものかなぁ」と呟きながら、消ゴムでサラサラと消していく。机の上はすっかり綺麗になって、何も残っていない。僕の撮った逆さまの写真しか残っていない。

 そのまま雑談をしていたらチャイムが鳴り、僕は自分の席へ戻った。

 六時間目のホームルームでは、十月にある文化祭のクラスの出し物を決めるようだった。文化祭実行委員の二人が前に立ち、使える場所と出し物を黒板に書き連ねていく。

 今はまだ五月半ばで、夏休みにも何度か登校して準備をすることになっている。正直に言えばあまり行事というものが好きではない。というか、面倒くさい。みんなで何かを成し遂げて、達成感を味わうような場面にいてもどこか冷めた目で見てしまう。

 だから多数決を取るときにも皆が選びそうなものに手を挙げて、結果的に大正カフェに決定したのだった。



 ホームルームが早く終わったから、いつもより早めに家に着いた。帰宅部だったし、友達もあまりいないからどこかに寄り道して帰るということもない。何より優先して家に帰らなければいけなかった。お手伝いさんも帰り父も母も家に誰もいない、今の時間にしか出来ないことをしなければならない。

 玄関で靴を脱いで、うがい手洗いをする。特に手洗いは入念にしなければいけない。リビングを通るとテーブルにはクッキーが置いてあった。お手伝いさんが焼いてくれたもののようだ。一枚食べてまた手を洗い直して、向かうのは二階の父親の書斎だった。

 家に自分しかいないこの時間にはこうして書斎へ忍び込むのが日課だった。入ってはいけないと一応言われているのだが、おそらくバレていて黙認されているようなので自分もそれに甘えている。

 あの日と同じ書斎には、記憶と違う少女がいた。今回は真ん丸な目が特徴的で、二重もくっきりとしている子だった。初めて会ったときは髪が長かったのだが、邪魔そうに頻繁に首を振っていたからか次に見たときにはショートカットにされていた。二週間ほど前まではゴロゴロといつも眠そうにして、寝返りを打つ度に顔にかかる髪を払っていた。今は一畳ほどの膝ほどの高さの木箱の中で自らに細い糸を巻き付けて繭に包まれている。

《カイコガの少女》は、父の研究から誕生した絹糸を産出するための技術の結晶だ。一般的な蚕からは約一三〇〇メートルの糸が取れるのだが、カイコガの少女の繭はその何千倍もの長さの絹糸を取ることが出来た。

 今から十年ほど前、より良くかつ効率的に絹糸を作る研究が行われていたらしい。遺伝子の組み換えにも手を出したが、あらゆる実験を試してもうまく行かず研究は頓挫していた。そこで戯れにヒトの遺伝子を組み込んだ。すると見目麗しい虫の少女が産まれて、その少女は品質基準をクリアする膨大な絹糸の創出が可能だった。カイコガの少女は実験を重ね、白木紡績の傑作品とも呼ばれるものとなり近年市場での流通が進みつつある。

 ちなみにオスには致死遺伝子が発現するために、メスしか産まれないのだそうだ。故に《少女》という名を冠している。

 この少女には『カコ』という名前が付いている。とはいえ呼んだところで名前を覚えるわけでもない。虫は名前を覚えない。

 どんなに姿が人の形に似ていても、カイコガの少女の本質は元の虫である蚕と変わらず家畜化された虫。人の手無しでは生きられず、エサも満足に取ることも出来ず、名前も覚えず、意志疎通も叶わず、生きるために生きて、糸を取るために生かされている虫だった。

 しかし父親の書斎にいる少女についてのみ、在り方は少し違う。

 書斎にいる少女は完全に父親の趣味でペットとして飼われている。その証拠に、父の少女はいつも羽化をさせているらしい。羽化する際にカイコガは繭を出るために酵素を出し繭を溶かして出てくるのだが、そうすると糸が弱くなるために上質な糸を取ることが出来ない。だから糸を取るための少女は羽化させず、繭の中でサナギになっているときに丸ごと茹でてしまう。羽化をさせる父の少女は、糸を取るためではなく愛でるために飼われているのだ。

 この少女ももうすぐ羽化するのだろうか。

 羽化した姿は見たことが無かった。羽化する日には大抵の場合、父が羽化を見届けるために家にいるから書斎に入れず見れないのだ。

 羽化したらどんな姿になるのだろう? 祖先たるカイコガはもふもふとした可愛い姿をしているから、少女もそんな姿になるのだろうか。繭に隔てられた向こうでは、どんな姿をしているのだろうか。

 繭にそっと触れると手に振動が伝わった。見た目には分からないが、起きて中で何かしているらしい。

「何してるの?」

 いつも頭を撫でているみたいに繭を撫でると、動きが止まった。それで僕は直感する。

 カコが、僕がここにいることを認識した。

 繭に触れていた手が湿る感覚があって手を離すと、繭が濡れていた。繭糸が緩んでいるようにも見える。カコが繭の中から酵素を出して、繭から出ようとしているのだ。

「羽化、する」

 扉の方を見ても、まだ父親が帰ってくる気配は無い。

 羽化のときにはどうすればいいのだろう。何かすべきことはあるのだろうか。僕は《少女》のことについて、何も分からないのだ。桑の葉を食べることと可愛いことしか分からない。

 繭の緩んだところをガジガジと噛んで、無理矢理腕を差し込み穴を広げる。広げた穴に頭突きをするように頭を突っ込むと、頭が出てきた。

 黒目の大きな目と目が合う。白い髪の間からは櫛のような触覚が揺れて、息継ぎをするようにハッと外界の空気を身に取り込んだ。酵素を出していたから、ご飯を食べているときの子どものように唇から雫が垂れている。それを薄い色の舌が舐め取った。濡れた髪が頬に沿うように張り付いていて、鬱陶しそうに首を振ると、髪がカコを中心に円を描いて広がった。髪が元の位置に収まると、そこには銀糸の髪の白く美しい少女がいる。

 一挙一動、全てを覚えていたくなるほど美しかった。二週間前よりも顔が一段と大人びたようで、目鼻立ちの幼さが消えて鼻筋も通り、雪の積もったような睫毛は長くてゆっくりと瞬きをする度に胸が高鳴った。

 表情は無い。《少女》は何かの感情を示すようなことは滅多にしない。

 少女はこちらへと右腕を伸ばした。踏ん張りの利かない足を繭の底で懸命に動かして、力の入らない指は曲がっていて、それでもこちらへと力の限り手を伸ばした。

 その手を取っていいのか、躊躇した。だって、この手が求めているのはおそらく僕じゃない。少女はあまり目も良くないから、きっとここにいるのが求める人では無いことに気付いていない。

「健」

 堅い声が背後から掛けられた。振り向くと父が立っていた。帰ってきたことに全く気付かなかったのは、カコに気を取られていたからだろう。

 頬に微かな風を感じた。早足でやってきた父はカコの伸ばされた指に自分の指を絡め、穴をこじ開けてカコの背を支えながら一息に繭から外へと出して、生地のいいスーツが濡れることも厭わずに抱き寄せた。カコの背にはまだ乾かず縮れた翅がある。カコの目は、父の姿を見た瞬間どこか安心したように目尻が緩む。

 カコは父の首に腕を回し、父はカコの頭を大きな手で包むように撫でる。カコは頬を父の頬に重ねて、父は応えるように頬擦りを返す。その姿に自分の胸はひどくざわついた。その感情は嫉妬のようにも、無力さのようにも感ぜられる。僕はこの書斎にいながらにして蚊帳の外だ。

「今からすることがあるから、お前は部屋に戻りなさい」

 変わらず堅い声のまま父は言う。その声とは裏腹に、少女に触れる手付きは綿毛でも撫でるみたいに優しい。

 言われるがままに僕は部屋を出て、抱き合う父とカコを遠ざけるように扉を閉めて自室に入る。脱力するように壁に背を預け、ずるずるとしゃがんで膝を抱えた。

 気分をどう持っていけばいいのか分からない。目の前の情景を消化しきれない。

 父親が少女の姿をしている物を丁寧に扱っている。それだけならば百歩譲ってまともに見られるけれども━━あの二人の間にあるものは、愛以外のなんだというのだろう。

 そもそも。

「刺激が強いのでは……」

 ため息でこの複雑な感情ごと吐き出してしまおうとするも、脳裡には先程の映像が再生されてしまう。安心したカコと見たこともないほど優しい目をした父親。

「……虫狂い」

 罵るように呟いて、僕は立ち上がりベッドにうつ伏せに倒れ込む。この家で布団だけが僕を優しく包み込んでくれた。

『虫狂い』というのは、父親の職場での陰口だ。虫への入れ込み方が常軌を逸しているからそう呼ばれているらしい。

 父親と母親は家であまり一緒にいるところを見ない。父と僕、母と僕では会話があるのに、二人が話しているところすらもあまり見ない。同じ職場なので職場では関わりがあるのかと思いきや、そうでもないらしいということも父の職場に勤めるとある知り合いから聞いた。

 父の愛は少女に向かっているから、母へはもう向いていないというのだろうか。

 しかしながら母もそんな父を咎めることはせず、どこか容認している節もあるから自分にはてんで分からないのだった。

 大人になったら分かるのか?

 いや、分かる気がしない。

 愛……愛ってなんだ。

 この疑問が夕飯まで続くことを自分は既に知っている。



 一時間半ほど眠ってしまい、起きたら大分日が傾いて辺りは暗くなっていた。喉が乾いていたから、一階のキッチンへ行くとそこには見慣れた人がキャベツを切っていた。

「古賀くんだ」

 父の職場の知り合いとは、この古賀櫂斗さんだった。年齢は二十代半ばで背が高く細身だけれど、職場では飼育を主にしていることもあってか意外と腕に筋肉が付いている。古賀くんは数ヵ月に一度うちへ来ていた。今日からお手伝いさんと交代して古賀くんがご飯を作る。

「おう、久しぶり。健くんのご飯も作るけど、何か食べたいものある?」

「なんでもいいよ。冷蔵庫の余りものとかで……この返答って一番困るやつ?」

「じゃあ好きな食べ物は何?」

「……オムライスのホワイトシチューがけ」

「良かった、それなら作れる。俺、あんまり料理出来ないからなー」

「古賀くんの料理も美味しいよ」

「ありがとう。毎日そう言ってもらえるように頑張るね」

 古賀くんが料理をしている音を聞きながら、ソファでテレビを見る。夕食の時間になっても母親はまだ帰ってこない。今日は残業のようだった。

 古賀くんに呼ばれるとダイニングテーブルに夜ご飯が準備してあった。父親と自分は対面するように座る。古賀くんは自分用にとシチューだけタッパーに詰めてすぐに帰ってしまった。

 箸を取り「いただきます」と言った後に会話はあまり無い。テレビも消したから、季節が秋なら外の虫の声をBGMにするほど静かなものだった。父親のご飯を眺めながら、自分のオムライスを口に入れる。

「健」

 寡黙な父が僕を呼ぶ。手を止めて顔を上げると、父は真っ直ぐにこちらを見据えていて少し緊張した。書斎に忍び込んでいたことを怒られるのだろうか。

「お前も《カイコガの少女》を育ててみるか?」

 思いがけない提案に、自分はすぐに反応が出来なかった。驚いていることが伝わったのだろう、父は畳み掛けるように話を続けた。

「好きなんだろう? 小さい頃からダメと言ってもよく覗いていたし。それにお前も、ゆくゆくは白木紡績を継ぐことになるのだから」

「いいの?」

「高校の入学祝いだ。土曜日にでも選びに行くか」

 うん、と返事をして僕たちは食事に戻る。静かな食卓は、いつもより空気が暖かくなったようだった。

 食卓に並ぶ父親と自分の料理は違うものだった。自分の前に並んでいるのは要望通りのシチューがけのオムライス。シチューとオムライスの中のバターライスにはとうもろこしが入っていて、少し甘い味付けだ。

 父親が食べているのは何かの肉のコンフィと何かの肉のストロガノフ。

 ナイフで一口サイズに切って口に入れゆっくりと味わうように噛みしだき、名残惜しむかのように嚥下する。一口、また一口と食べていくにつれて目を細めて涙を浮かべ、その涙が溢れないようにと時折斜め上を見上げていた。古賀くんの作る料理をいつも切なそうな表情で食べている。

 その肉がカコだということを、僕は知っている。


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