カイコガの少女

2121

プロローグ しろいかみさま

 原風景には白い少女の姿があった。

 自分は十五年ほど前に生まれたけれど、記憶が始まりちゃんと自分が自分として存在し始めたのはあの少女を見たときからだったように思う。おそらく三歳のとき。母親は出掛けていて、お手伝いさんはうたた寝をしていて、レゴブロックで遊ぶことに飽きた瞬間、耳に入ってきたのは微かな物音だった。布と布が擦れ合い、キシリと床が軋む。例えばゆっくりと寝返りを打ったならあんな音が鳴るように思う。自分以外のモノがこの家にいることは感覚として知っていた。家の人が全員集まっても、どこかで物音がする。どうやら会ったことのないペットか何かがどこかにいるらしい。

 お手伝いさんが寝ていることをもう一度確認し、背伸びをしてノブに手を掛け自分の部屋を出る。広い廊下は毛足の長い濃紺の絨毯で、何も履いていない足は少し埋もれてしまう。この洋館は父の叔父さんが元々住んでいて、亡くなったタイミングで譲り受けたらしい。当時からあった調度品や絵画は今も残っていて、自分の手の届かないところに飾られていた。家自体が登録有形文化財にも指定されていると知ったのは中学に上がる頃だっただろうか。そのせいもあってか常に掃除も行き届き綺麗な家ではあったが、父母自分の三人で住むには少し広すぎて寂しい感じがした。

 音はおそらく右に曲がった廊下の突き当たりからだろう。そこは開けてはいけないと言われていた父親の部屋だった。

 再び背伸びをして戸を開く。鍵は掛かっていなかった。電気の点いていない薄暗い部屋には、大窓から斜めに光が差し込んでいる。その光の下にいるモノが何なのか一目では判断できなくて混乱した。

 犬や猫のようなペットはいなかった。

 真っ白な少女が眠っていた。

 背を丸めて横になり、こちらからは頭のてっぺんが見える体勢だった。髪も白く、青い絨毯に波を作るように広がっている。白い髪はおばあさんの白髪のようではなく、銀の絹糸のように手触りが良さそうで、光を反射してキラキラときらめいて目の奥に残像を残した。

 何か動物を想像していたのに、人がいるなんて思ってもみなかった。もしかして、自分には出会ったことのない姉弟がいたのだろうか? 起こさないように足音を潜ませて、少女に近付いていく。

 少女は自分より年上のように見えた。おそらく十歳は上なのではないかと思う。透けるほどの薄い布を裸に巻き付けて、四肢は顕になっていた。宗教画に描かれている女や石膏像が裸体であっても恥ずかしくはないように、少女の白い肌を見てもただただ美しいという感情しか浮かばない。毛穴など存在しないようなキメ細やかな皮膚に、全てが黄金比で構成されているのではないかと思われるほどの体の輪郭。あまりにも完璧な物の前に、恥ずかしいなどという粗末な感情は存在しない。

 しかし『もしかしたら自分に兄妹がいたのでは』という考えはすぐに砕かれる。

 人の形をしている。けど人じゃない。だからといって、人形という訳でもない。これはれっきとした生き物だ。

 人ではないと察したのは、肌が異様に白いことが大きかったが他にも理由はあった。

 四肢が細い。

 体温を感じない。

 生命の匂いが稀薄。

 呼吸をしているのに胸は動かない。

 自分はこれを知っている。身近なところで、この存在に似たものを見たことがある。

 ━━虫のようだ。虫の幼虫のような雰囲気がある。

 身体を丸めている姿は、蝶か蛾の幼虫と類似している。不思議だった。目の前にいるのは人の形をしているのに、脳内にはどうしても虫の姿がちらついた。

 だからこの人は姉弟じゃない。根本から違っている。そもそもこんなに美しい生物と自分の血が繋がっているはずもない。

 白い少女は春に気付いたかのようにゆったりと瞼を開く。黒目の異様に大きな瞳が、こちらを見た。心臓が一度大きく鳴る。

「あの……!」

 悪いことはしていないのに弁解するように言うものの、口を中途半端に開けたまま言葉は続かない。少女は端から興味など無かったのか、ふいと目線を外し寝返りをうって睡眠を再開させてしまった。絹糸の髪は寄せて返す波を立て、絨毯に新しい形を描いた。

 少女は自分に興味がない。いや、そもそも興味を持てるような好奇心も知識も頭脳もない。本能のままに眠り、本能のままに食べて生きる。与えるものではなく、享受し消費するものだ。

 窓の向こうには雪が積もっていた。しんしんと降る雪は音を吸収して、部屋を静謐な空間にしていた。

 少女にそっと触る。頬に掛かる髪を払うように。

融けない雪のようだった。ヒヤリとしていて、サラサラとしていて、永遠のような存在感で目を離せば解けていってしまいそうで。

 目覚める様子は無い。しかしこれ以上触るのもどこか壊してしまいそうで出来なかった。ただ、見つめることしか出来なかった。じっと見ることさえもどこか綻ばせてしまうのではと思ってしまうほど繊細なもので出来ている。

 どれくらいそうして少女を見ていただろうか。突如として聞こえた声に顔を上げる。お手伝いさんが起きたようで、自分の名前を呼んでいた。目は少女を見つめる作業で忙しかったけれど、意識は行かないとという方に行っていて、少女と扉を交互に見やる。

 三度名前を呼ばれたところで、観念して立ち上がった。

「またね」

 最後にまだ眠る少女を視界に入れて、幼稚園の友達にでも言うみたいにそう言った。『またね』なんて物は来なかったし、本当に最後だったのだけれど。

 仕事から帰って来た母親の足に纏わりつくように掴まった。母親ならば、あの白い少女の正体を知っているはずだと思ったから聞くことにした。

「お母さん」

 んー? と仕事鞄を置いてご飯を用意しようとしている母親の意識は、こちらではなく家事をする方にあるようだった。

「お父さんの部屋にいるのは何?」

 『誰?』と聞かなかったのは、やはり人であると自信を持って言えなかったからだ。

 母親は手を止めてこちらを真っ直ぐに見据えた。驚いたような様子は無い。スッと膝を曲げ、目線を合わせる。母親は父親の部屋に入ったことを咎めることはしなかった。僕がいずれその約束を破ることを知っていたような反応だった。だから問いにもすんなりと答えを返す。

「神様よ」

「……かみさま?」

 そう、とたっぷりと時間をかけて頷き、母親は続けた。

「うちにはいつも神様が一柱いらっしゃるの」

 壁の向こう、少女のいる部屋の方向を見て言う。同じ方向を自分も見て、お互いの記憶の少女を二人で見つめる。

 一柱という聞き慣れない単位を新たに頭に記憶すると同時に、どこか納得してもいた。『一人』と数えるのはどこか憚られたからだ。あの少女は自分と同列に数えられてはいけない存在だと、直感で察していた。『柱』という単位は、神様を数えるときの単位なのだと後に知る。

 あのときの母親の視線がどこか諦めを秘めたような形容しがたい色をしていた理由を、自分は死ぬまで知ることはない。

 うちに住む白い神様は『カイコガの少女』、

 二ヶ月の命の、麗しく尊い虫だった。

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