第7話 お泊り会(前編)

「おかえり、陽香。いらっしゃい、菜穂さん」

「お、お邪魔します!」


 一学期の中間試験が終わったあとの土曜日。よく晴れた日の午後三時過ぎ、駅まで迎えに行った菜穂を連れて玄関のドアを開けると、泉が出迎えてくれた。

 今日は菜穂が泊まりで遊びに来ることになっていた。緊張した面持ちをしている彼女に、泉を紹介する。


「一番上の泉お兄ちゃん」

「藤本泉です。陽香がいつもお世話になっています」

「初めまして、柳瀬菜穂です。お世話になります! あの、これ、母からです。よろしくお伝えくださいと」

「ご丁寧にどうもありがとう」


 菜穂が差し出した菓子折りを受け取り、泉が軽く頭を下げる。


「どうぞ、上がって。ゆっくりしていってね」


 泉が優しい笑顔で促すと、菜穂は安心したように表情を和らげた。

 ひとまず陽香の部屋に案内する。荷物は部屋の隅に置いてもらい、小さめのローテーブルの前に座ってもらう。

 菜穂は部屋の中を軽く見渡して、目を輝かせた。


「陽香ちゃんの部屋、めっちゃかわいいね!」

「あ、ありがとう……!」

「私の部屋なんもなくて殺風景だからさー。羨ましいなぁ」


 くすみピンクのカーテンに白やベージュを基調にした家具。テディベアを始めとしたぬいぐるみたち、小物はピンクを多めに。枕カバーとクッションカバーは好みの布を見つけて手作りした。お気に入りのものばかりで飾った部屋を褒めてもらえるのは嬉しい。

 友達を部屋に招くのは初めてなので、掃除もいつも以上に気合いを入れてしまった。


「あ、そうそう。話してた漫画持ってきたよ」

「ありがとう! こんなに……重くなかった?」

「大丈夫大丈夫ー」


 菜穂がリュックから取り出した漫画は二十冊近くあった。お勧めの漫画を持ってくるという話だったが、思っていたより冊数が多くて驚いてしまう。

 陽香は普段あまり本を読まない。時々、明が買っている漫画を勧められて読ませてもらうくらいだ。次兄の昴はよく小説を読んでいて書店でアルバイトをするくらいに本が好きなようだが、彼女は長い文章を読むことに苦手意識がある。


「『君恋』めっちゃ面白いから読んでほしくて! 返すのはいつでもいいから」

「ありがとう、じゃあ借りるね」

「よかったら感想聞かせてね! ていうか陽香ちゃん、私服かわいいね。そういう感じの着るんだ」

「そういえば、私服で会うの初めてだよね」


 菜穂とは放課後に軽く遊んだことはあるが、休みの日に会うのは初めてだった。

 ガーリーな花柄のワンピースを着て髪も軽く巻いてハーフアップにしている陽香とは対照的に、ショートボブの菜穂はパーカーにジーンズとラフな格好をしている。活発な雰囲気の菜穂にその服装はよく似合っていた。


「私、友達の家泊まるの実は初めてなんだー」

「わたしもお泊まり会って初めてなの!」


 陽香も菜穂もお互いに部活で仲のいい友達ができたが、教室で一緒に過ごす相手は変わらなかった。中学校までの友達とは違い、性格や趣味も違うのに菜穂とは不思議と気が合った。

 テストが終わったら遊びに行こうという話から、お泊まり会をしてみたいという話に発展し、陽香の家で行うことになったのだ。もちろん兄の許可と菜穂の親の許可も取ってから決めた。

 菜穂の家に行ってみたい気持ちもあったが、他所の家に泊まるのは不安があったので、陽香の家ですることを提案した。兄たちを紹介したかったというのもある。


「一番上のお兄さん、優しそうだね」

「うん。すっっごく優しいんだよ。お料理も上手だし」

「いつものお弁当作ってくれるお兄さん?」

「そうだよ。あと、二番目の昴お兄ちゃんはちょっとだけ顔が怖いんだけど、家族の中で一番甘いものが好きでね――」

 そのまま兄たちの話をしているうちに、気が付くと十分近く経っていた。


「あ、ごめんね。お茶も淹れずに。いま持ってくるね」


 自慢の兄たちの話を聞いてもらえるのが嬉しくて、つい話し込んでしまった。陽香が席を立とうとした瞬間、コンコンとドアをノックされる。

 はーいと返事をしつつドアを開けると、両手にお盆を持った明が立っていた。


「お茶持ってきたよ」

「あきちゃん、ありがとう! でも、自分で行こうと思ってたのに」

「このくらい良いって。菜穂、いらっしゃい」

「お邪魔してまーす」


 いつの間にか明は菜穂のことを呼び捨てにするくらいに仲良くなっていた。


「紅茶で大丈夫? アッサムなんだけど」

「ありがとう。紅茶なんでも好きだよ」

「あとこれ、口に合うかわからないけど……」


 一切れずつ切って皿に載せたドライフルーツ入りのパウンドケーキを差し出す。昨夜作って一晩寝かせたものだ。自分でも味見をして兄たちからも好評だったが、友達に出すとなると少し緊張してしまう。


「もしかして、陽香ちゃんの手作り?」

「うん。味は大丈夫だと思う」

「えー! 食べる食べる! いただきます!」


 菜穂はさっそくフォークを手に取ってケーキを口へ運んだ。

 一口食べてから、彼女は目を輝かせた。


「普通にめっちゃおいしい! お店で売ってるやつみたい」

「それは褒めすぎだよー」

「ほんとほんと。陽香ちゃん、お菓子作るの上手なんだね」


 まっすぐに褒められるとさすがに照れくさくなってしまう。

 お茶を飲みながら他愛のない話をする。学校でのこと、部活のこと、好きなお菓子や趣味の話。

 菜穂とこんなに長い時間たくさんお喋りをするのは初めてだった。

 楽しくてあっという間に時間が過ぎていく。――そして、だんだんと下腹部にも重さを感じるようになっていた。


 トイレに行きたい。正座を崩したまま陽香はこっそり膝を擦り合わせた。躊躇いなく飲んでしまった紅茶は、膀胱の中で別の水分に姿を変えている。はやく行かないと。

 自分の家でトイレを我慢する必要なんてない。それはわかっている。けれど無言で席を外すわけにもいかない。口を開くタイミングを伺いながら、吹奏楽の話をしている菜穂に相槌を打っていると、ふと部屋のドアをノックされた。


「はーい」


 返事をしつつ立ち上がり、ドアを開ける。廊下に立っていたのは明だった。


「はるちゃん、ちょっと泉兄が呼んでる」

「泉お兄ちゃんが? ごめんね、ちょっと行ってくるね」


 菜穂に声を掛けてから部屋を出る。

 ちょうどいいので兄の用事が終わったらトイレに行こう。

 そう思っていると、前を歩いていた明がふいに口を開いた。


「ごめん、泉兄が呼んでるって嘘」

「え……?」

「そろそろトイレ行きたいんじゃないかなーと思って。はるちゃん、一度も下りてきてないし」


 明に指摘されて、陽香は頬を染めた。

 小学生の頃から一緒に過ごす時間が長い彼には、すっかりお見通しのようだ。


「ほら、早く行っといで」

「あ、ありがと……」


 促されて階段を下りていき、少しだけ足早にトイレへ向かう。

 恥ずかしいけれど助かった。明はリビングへ戻っていく。

 トイレを済ませて戻ろうとすると、ちょうど菜穂が部屋から出てくるところだった。


「あ、陽香ちゃん。トイレ借りるね」

「うん。案内するね」


 再び階段を下りていき、さっき行ったばかりのトイレに菜穂を案内する。

 同じくらいの紅茶を飲んで同じ時間を過ごしていたのだから、菜穂だってトイレに行きたくなるのは当たり前のことだと今更のように実感する陽香だった。


***


「あー、負けたー! 明、強すぎ! ちょっとは手加減してくれてもよくない!?」

「やだね。俺、手は抜かない主義だから」

「もっかいやろ! 次は絶対勝つ」

「いいよ、次も俺が勝つから」


 菜穂がトイレへ行ったあと、明に誘われて三人はゲームで遊んでいた。

 レースゲームで負けて悔しそうな菜穂に対し、負けず嫌いな明も勝気な笑みを浮かべて応えた。さっそく次のコースを選んでレースが始まる。

 リビングのテレビに向かってコントローラーを握る菜穂と明は白熱した様子を見せているが、操作が苦手な陽香は隣でほぼ観戦に徹していた。NPCにさえ抜かれてしまうが、二人の勝負を見ているだけでも楽しいので負けることはあまり気にならない。


 裁縫やお菓子作りが好きなので手先が器用な方だと自分では思っているが、ゲームの操作はなんだか勝手が違っていつまでも上手にできない。普段も自分で遊ぶよりも明が遊んでいるのを隣で眺めている方が好きなくらいだ。

 陽香がのんびりとコースを進んでいる間に、二人の勝負は決着がついていた。今回も明が勝ったようだ。


「悔しいー! いまのは惜しかった!」

「もっかいやる?」

「やる! って言いたいところだけど……陽香ちゃんつまんなくない? 違うのやる?」

「大丈夫、見てるの楽しいよ。菜穂ちゃん、がんばって!」


 気遣ってくれた菜穂に笑顔を返すと、菜穂も安心したように表情を緩めた。

 菜穂は軽く腕まくりをするとコントローラーを握り直す。


「よーし、次こそ勝つから!」

「はるちゃん、俺のことは応援してくれないの?」

「ん-、今日はお客さんだから菜穂ちゃんの応援するね」


 次のレースは接戦の末に菜穂が勝利した。やったね、と思わず二人でハイタッチをする。

 負けた明は悔しがりながらも、楽しそうな様子だった。兄二人もあまりこのゲームが得意ではないので、本気で遊べる相手が目の前にいるのが嬉しいのだろう。


「みんな、夕飯なにかリクエストある?」

「唐揚げ!」

「グラタン!」


 ひと段落ついたところで、いつの間にかリビングにいた泉が声をかけてきた。明と陽香が口々に好物を答える。泉は軽く苦笑しつつ、菜穂に顔を向けた。


「菜穂さんは? なにが食べたい?」

「クレープ……」

「えっ?」


 予想外の答えに目を丸くする泉に対し、菜穂は慌てた様子で首を横に振った。


「あっ、ごめんなさい! クレープが好きなので、つい! なんでも大丈夫です、とくに嫌いなものとかアレルギーとかもないので!」


 泉は少しだけ思案したのち、良いことを思いついたように口を開いた。


「……そうだ。夕飯、手巻きクレープにしようか。トッピング色々用意して」

「いいね!」

「楽しそう!」


 兄の提案はとても素敵なものに思えた。明と陽香はすぐに賛成したが、菜穂はなんだか呆気に取られた様子だった。


「晩ごはんにクレープ食べていいの……?」

「今日は特別だもん。菜穂ちゃん、なんのクレープが好き?」

「……チョコバナナ。あと、ツナとチーズとか」

「どっちも食べよう! 泉お兄ちゃん、わたしも手伝うね」

「あ、私も、なにか手伝います!」

「じゃあ俺も」


 結局全員で用意をすることになった。

 生地は泉が作ってくれるというので任せて、三人で手分けして具材の用意をする。

 菜穂はあまり料理が得意ではないというのでレタスをちぎってもらったりバナナを切ってもらったりと簡単な作業をしてもらう。陽香がハンドミキサーで生クリームを泡立てている間に、明が卵やソーセージを茹でる。

 手際の良い泉は唐揚げとミニグラタンも作ってくれていた。元々唐揚げは作るつもりで下味をつけていたようだ。


 ダイニングテーブルにホットプレートを運び、主に泉と陽香でクレープ生地を焼いていく。バナナに缶詰の白桃、ホイップクリーム、チョコレートシロップ、いちごジャム。

 おかず系の具材はハムやチーズ、ソーセージ、ツナ、レタスにきゅうり、ゆで卵。あとは各々好きな調味料。次々と生地を焼きながら好きな組み合わせでクレープを食べるのは楽しかった。

 ご飯の時間なのに甘いものばかり食べていてもいいなんて最高と思いながら、バナナとホイップクリームのクレープを頬張る。

 顔を綻ばせると、向かいに座っていた明が口を開いた。


「はるちゃん、桃といちごジャム結構おいしいよ」

「ほんと? 次やってみるね」

「陽香、少しでいいから野菜も食べてね」

「はぁい」


 泉にたしなめられ、陽香は申し訳程度に生地にレタスときゅうりを載せ、ツナとマヨネーズとともに包んだ。口に入れてから、これでいいでしょと言わんばかりに斜め向かいに座る泉の顔を見る。兄は小さく苦笑を浮かべながらも頷いてくれた。

 隣に座る菜穂は、おかず系のクレープをいくつか食べてから、クリームとバナナを生地に載せた。控えめにチョコレートシロップをかける彼女に、「もっとかけていいよ!」と勧める。チョコバナナクレープを一口食べた菜穂は、おいしそうに頬を緩ませた。


「菜穂ちゃん、おいしい?」

「うん! 家だとこういうのやらないから楽しいっ」


 泉の提案のおかげで、菜穂にも喜んでもらえてよかった。

 食べている途中で玄関が開く音がした。アルバイトに行っていた昴が帰ってきたみたいだ。


「ただいま」

「おかえり。陽香のお友達来てるよ、柳瀬菜穂さん」

「お邪魔してます……!」


 長身で声が低いうえに仏頂面の昴が顔を覗かせ、菜穂はにわかに緊張した様子を見せた。

 背筋を伸ばした菜穂に、次兄が小さく頭を下げる。


「どうも、藤本昴です」

「昴お兄ちゃん! 夕飯、クレープだよ」

「……そうか。着替えてくる」


 短く応えた昴の表情はあまり変化がなかったけれど、口角がほんの僅か上がっていた。

 彼が踵を返してから、思わず笑みが零れる。


「ふふ、昴お兄ちゃん、嬉しそう」

「……そっか、甘いもの好きって言ってたね?」

「うん。わかりにくいけど、すっごく喜んでるよ」


 昴もチョコバナナクレープが好きなことを教えると、菜穂は安心したように表情を緩めてくれた。

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陽香は三人の兄と幸せに暮らしています 志月さら @shidukisara

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