第6話 雨降り、風邪の日
しとしとと、窓の外からは静かな雨音が聞こえてくる。
熱い。頭が痛い。全身がだるい。
朝の八時を過ぎたベッドの中で、陽香は高熱に浮かされていた。
「ぅ……」
苦しげに寝返りを打つ。ふと、廊下を歩いてくる小さな足音が耳に入った。普段なら兄たちは全員出かけている時間だが、どうやら誰かが残ってくれたらしい。
ゆっくりとドアが開いた。なるべく物音を立てないようにと配慮しているのが伝わってくる。
ぴたり、と額に冷たいものが触れ、陽香はうっすらと目を開けた。
「……昴、おにいちゃん……?」
ぼんやりとした視界に、眉根を寄せた兄の顔が映る。口を開くと掠れた声が漏れた。喉が痛くて上手く声が出ない。
「ああ。大丈夫か」
「んー……」
額に手を当てて心配そうに顔を覗き込む昴に問われて、陽香は曖昧に頷いた。あまり大丈夫とは言えそうにない。
「熱は計ったか?」
「うん。八度二分だった」
「高いな……」
掠れた声で応えると、昴は案ずる表情でぽつりと呟いた。
陽香を起こしにきた泉が彼女の不調に気付いて、大慌てで体温計を持ってきたのが数十分前。表示された三十八度二分という数字を見て、泉は仕事を休むと言い出した。
身体が丈夫とは言えない陽香だが、熱を出したのは久しぶりだったので長兄は随分と慌ててしまったらしい。
「一人で寝てれば大丈夫だから……お兄ちゃんは仕事行かなきゃだめだよ……」と、陽香は言って泉を説得したが、心配性な兄は聞く耳を持たなかった。
いわく、熱を出して苦しんでいる妹を置いて仕事になんか行けるわけがない、と。
そんな彼をなんとか宥めて仕事に送り出していた昴が看病に残ってくれたようだ。
「……お兄ちゃん、学校いいの?」
大学生の昴には今日も講義の予定があったはずだ。
しかし、彼は表情を変えずに「気にするな」とだけ応えて、それ以上は何も言ってくれなかった。自主休講というやつなのかもしれない。
「それより、なにか食べられるか?」
「……ちょっとだけ、なら」
食欲はないに等しいが、何か胃に入れないと薬が飲めない。こくんと頷くと、昴は少しだけ口元を緩めた。
「少し待っていろ」
踵を返そうとする昴の袖を、とっさに腕を伸ばして軽く引っ張る。すぐにこちらを振り向いた彼は珍しく驚いた顔をしていた。
「どうした?」
「あ、あのね……」
ぶるりと身体を震わせて、陽香はおずおずと口を開いた。ちょっと恥ずかしいけれど、彼に告げるほかにどうしようもない。
「トイレ、行きたい」
陽香は頬を染めて小さな声で訴えた。
下腹部が重たくて、先ほどから強い尿意に襲われていた。目が覚めてからまだ一度もトイレに行っていないのだから当然だろう。自分で起き上がって行こうと思ったのだが、頭を上げようとするとぐらりと眩暈に襲われて立ち上がれそうになかった。
ああ、と頷くと、長身の兄はすぐに陽香の身体を優しく抱き上げた。もじもじと膝を擦り合わせて、ぎゅっと彼に縋りつく。我慢の限界が近付いていたが、昴はすぐに彼女をトイレまで連れて行ってくれた。
***
ざあ、と水を流してふらつく足取りでトイレのドアを開けると、膝から力が抜けて倒れそうになった。廊下で待っていた昴にすぐさま抱き留められる。
「大丈夫か」
こくっと頷く。けれど、頭がくらくらして身体に力が入らない。
昴は軽く息をつくと、陽香を洗面所まで支えて歩いた。手を洗って、また軽々と抱き上げられる。彼は陽香を抱えたまま危なげなく階段を上っていき、部屋まで運んでくれる。
ベッドに戻されると「すぐに戻るから待っていろ」と言って、昴は部屋を出て行った。
陽香はベッドの上でぼんやりと天井を見つめて、大人しく彼が戻ってくるのを待っていた。窓の外からは微かな雨音が耳に入ってくる。ずきずきと頭が痛い。
風邪をひくのは久しぶりだ。昨日、雨に濡れたあと身体を冷やしたせいだろうか。
季節の変わり目には体調を崩しやすいが、こんなに高い熱が出ることは最近なかった。兄たちに迷惑をかけていると思うとどうしようもなく気分が落ち込んでくる。
少しすると、両手にお盆を持って昴が戻ってきた。本当にすぐに戻ってきてくれた。五分と経っていないかもしれない。
「食べられるか?」
ベッドサイドのテーブルにお盆を置いて、昴は静かに訊いた。
小振りのお椀に盛られた卵雑炊が湯気を立てている。やはり食欲はほとんどないけれど、これなら食べられる。
頷くと、昴は木製スプーンに一口分を掬って、彼女の口元に差し出してきた。
陽香は一瞬ぽかんとして、それから小さく首を振った。
「じ、自分で、食べれる」
「……そうか」
昴はわずかに残念そうな様子を見せて、陽香にお椀とスプーンを手渡してくれた。
彼は好意でしてくれたのだろうが、さすがにこの歳になって食べさせてもらうのは恥ずかしい。
口元に運んだ雑炊をふうふうと冷まして、ゆっくりと一口を咀嚼した。柔らかく煮たご飯と卵の優しい味が口の中に広がる。お粥はあまり好きではないが、体調を崩したときに作ってもらう卵雑炊は大好きだった。
「これ、昴お兄ちゃんが……?」
「いや。兄さんが作っていった」
「そっか」
出掛けにばたばたしていたにもかかわらず、泉がわざわざ作っていってくれたらしい。昴は掃除や洗濯などの家事はひと通りこなせるが、料理だけは苦手意識が強いみたいだ。彼がキッチンに立つ姿はほとんど見たことがない。
「無理に全部食べなくてもいい」
「ううん。食べれる」
お椀に盛られた雑炊の量は少なくて、このくらいなら少食の陽香でも全部食べられそうだった。なにより、兄が自分のために作ってくれたものを残したくはなかった。
ゆっくりご飯を食べ終えて風邪薬を飲むと、陽香は再びベッドに横になった。額に貼られた冷却シートが冷たくて気持ちいい。
「じゃあ、安静にしていろ。あとでまた来るから」
陽香の髪をそっと撫でて、昴は食器を片付けるために立ち上がった。
部屋に一人きりになるのは少しだけ心細いが、彼は家の中に居てくれる。本当に独りになるわけじゃない。大人しく頷いて、陽香は瞼を落とした。
***
雨音が耳に届く。
ざあざあと雨粒が激しく地面に叩きつけられる音。
「……?」
ぼんやりと目を覚まして、陽香は枕元の時計にのろのろと視線を向けた。時刻はもうすぐ十四時になろうとしていた。
ごろんと寝返りを打って、はあと重い息を吐き出す。ずっと寝ていたからか朝よりは少し熱が下がったような気がする。しかし、まだ頭が重いし全身がだるい。
きょろきょろと室内を見渡して、昴の姿がないことに気付いた。
彼はほとんど付きっきりで傍にいてくれた。陽香が時折目を覚ましたときに水やスポーツドリンクを飲ませてくれたり、汗を拭ってくれたりした。お昼には陽香が食べたいと言ったフリーズドライのにゅうめんとバニラアイスを用意してくれた。恥ずかしいけれど、トイレにも何度か連れて行ってもらった。
いまは何か用事があって席を外しているのかもしれない。
――大丈夫、すぐに戻ってきてくれる。
そう自分に言い聞かせて、陽香は再び目を閉じた。
静かな部屋に、雨の音だけが響く。朝から降り続いている雨は勢いを増したようだった。
(……寂しいな)
静寂と、雨音。
まるで世界に自分ひとりしかいないような気がしてくる。
そんなはずはないのに。
熱のせいか、ひどく感傷的な気分になっているようだった。
雨はあまり好きではない。どうしても、嫌なことばかり思い出してしまう。両親の死を知ったときも、親戚に見捨てられて施設に連れて行かれたときも、雨が降っていたから。
陽香にとって雨は寂しさの象徴のようだった。
――兄たちとは戸籍の上では家族だが、血の繋がりは全くない。彼らは陽香を妹として迎え入れてくれたけれど、時々どうしても不安に思ってしまう。
自分の存在が迷惑にならないかと。
かつて彼女を“家族”にしてくれた大人たちには何度も裏切られた。邪魔だと、迷惑だと、いらない子だと思われて。そうして、見捨てられた。
血の繋がりがあってもそうだったのだ。血の繋がりのない義兄たちが、いつまでも彼女に優しくしてくれるとは信じきれずにいた。
こんなことを考えてはいけないとわかっているのに。
泉も昴も明も、兄たちはいつもあんなに優しいのに。
視界が、ほんの少し霞がかった。
「……っ」
ぞくっと身体に嫌な寒気が走って、陽香は慌てて目元を拭った。
トイレに行きたい。目を覚ましたときからなんとなく感じていた尿意が、気が付いたら一気に襲ってきた。起き上がるのは辛いけれど、このままベッドにいたらシーツを汚してしまうかもしれない。それだけは避けないと。
兄の手を借りることはできないので、陽香は一人でのろのろと起き上がった。
「うぅ……」
ゆっくりと動いてベッドから抜け出す。フローリングの床に足を着けた途端に強い尿意に襲われて、陽香は背中を丸めてパジャマのズボンを押さえ込んだ。ぎゅうっと太腿を擦り寄せて、手に力を込める。
(はやくしないと、もれちゃうっ)
膀胱がぱんぱんに膨らんでいる。熱を下げるために水分をたくさん摂ったからだろう。早くトイレに行きたくてたまらないのに動けない。どうしよう。
必死に我慢してふるふると震えていると、突然ドアが開いた。助けを求めるように、陽香は顔を上げた。
「陽香!?」
狼狽を顕わにして、昴が声を上げる。
陽香はほとんど涙の混じった声を絞り出した。
「お兄ちゃん……おしっこぉ……っ」
昴は一瞬目を瞠って固まったが、すぐに我に返ったようにベッドに駆け寄った。急いで、けれど手付きは優しく、陽香の太腿の下に手を差し込んで抱き上げる。
恥ずかしいだとか何だとか考えている余裕はなく、陽香は両手でパジャマの前を押さえつけたまま、昴に体重を預けた。
「すぐに着く」
昴は静かに呟いて、足早に廊下に出た。トイレは一階にしかない。自分でのろのろ歩いて行くならともかく、昴の足でならすぐに着くはず。それはわかっているのに。
「ゃっ……あ、あっ、だめ……」
じわり、と下着が湿るのを感じて、陽香は小さな悲鳴を上げた。
我慢しないといけないのに。
目をぎゅっと閉じて、ズボンを押さえる手に痛いほど力を込める。けれど彼女の意思とは反対に、身体は勝手に限界を迎えてしまった。
ぴちゃぴちゃ、と小さな水音が床を叩いた。手のひらが熱い。陽香の様子に気付いた昴は、そっと足を止めた。
「……もう、我慢するな」
耳元で低く囁かれる。
限界を迎えているのに、陽香はそれでも懸命に我慢を続けようとしていた。けれど、昴の声を聞いて、身体からふっと力が抜ける。押さえた指の隙間から内股に生温かい感触が伝わって、廊下に大きな水音が響いた。
「……ふっ、ぅ、ふえぇ……っ」
ひっくひっくと嗚咽を漏らして、昴の腕の中で陽香は泣き出してしまった。
濡れたパジャマが下肢にまとわりついて気持ち悪い。昴の足も汚してしまい、廊下には大きな水溜まりが広がっていた。
「泣くな、大丈夫だ」
「だ、だって、我慢、できなかっ……」
「具合が悪いんだ。気にすることない」
「で、も……」
階段までのわずかな距離すら我慢できなかった。そのことが情けなくて、兄の前でおもらししてしまったことが恥ずかしくて。それも二日連続でだ。
泣いていると余計に昴を困らせてしまうことはわかっていても、次から次へと溢れてくる涙は止めようがなかった。
ひっくひっくと泣きじゃくる陽香に困ったように、昴は短く息をついた。
びくり、と思わず肩を竦める。
「ごめ、なさ……っ」
思わず怯えたように謝る陽香に、昴はわずかに狼狽えた様子を見せた。
「いや、違う。陽香は悪くない。……俺がもっと早く様子を見に行ってやればよかったと、思っただけだ」
「……じゃ、怒って、ない?」
「ああ」
短い、けれど優しさのこもった声に、陽香は少しだけ安堵した。昴も表情を和らげる。
「戻って着替えよう」
陽香が頷くと、昴は濡れた廊下はそのままに踵を返した。
***
ようやく寝息を立て始めた陽香の横顔を眺めて、昴は安堵の息を吐いた。眦に残っている雫をそっと指先で拭う。
泣きじゃくる彼女を落ち着かせて、濡れタオルで身体を拭かせて着替えさせ、寝かしつけるのは一苦労だった。決してその手間を厭いはしないのだけれど。
――小学生の頃から、陽香は粗相をすることが何度もあった。家族で出かけた帰りの車の中であったり、家に帰ってきた途端であったり、あるいは夜中にトイレまで間に合わず廊下や布団を濡らしてしまったこともあった。
そのたびに藤本家の男子たちは泣きじゃくる彼女を慰めて後始末を手伝っているのだが、それを嫌だと思ったことは一度もない。
陽香が恥ずかしさに顔を真っ赤にして泣いてしまうのはいつものことだが、今日はいつも以上にひどく泣かせてしまった。熱のせいで精神的に不安定になっていたのかもしれない。けれど。
着替えさせたあと、ベッドに入った陽香はぽつりと気になる言葉を呟いた。
「わたしのこと、迷惑じゃない……?」と。
そんなことはない、と即答した。
もしかしたら、陽香は嫌なことを思い出してしまったのかもしれない。彼女が幼い頃に不幸な境遇にいたことはなんとなくだが知っている。
「俺も兄さんも明も、迷惑だとは少しも思っていない」
そう言うと、ようやく陽香は安心したように表情を緩めて、瞼を落とした。
長兄の泉ならば、もっと優しい言葉で彼女の不安を取り除いてあげられたのだろう。同い年の明ならば、彼女の不安な気持ちにもっと寄り添ってあげられただろう。不器用で口数の少ない自分がもどかしい。
(――こんなに愛しいと思っているのに、迷惑だなんて思うものか)
そう心の中でだけ呟いて、昴は静かに廊下へ出た。彼女の粗相の跡を早く片付けるために。そして、すぐに戻って、今度は片時も傍を離れないようにしようと心に決めた。
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