第3話 帰り道のハプニング

 夕方の電車には帰宅途中の学生が大勢乗っていて、朝の満員電車ほどではないにしてもかなり混雑している。


「きゃっ」


 吊り革に手が届かない陽香は、ふいの電車の揺れに耐えられずバランスを崩した。とっさに隣に立っている明にしがみついてしまう。


「……大丈夫?」

「あっ! ご、ごめんねっ」

「いいよ、掴まってて」


 慌てて離れようとしたが、微かに笑う明に甘えて、そのまま腕にしがみつく。

 男子としては低めの身長を揶揄されることもある彼だが、それでも吊り革には楽々と手が届いていて、背の低い陽香からしたら羨ましい限りだ。手すり前や低めの吊り革の前には先客がいたため、陽香が掴める場所はなかった。

 駅に着くたびに人が乗り降りするが、車内の人口密度はあまり変わらない。むしろ乗ったときよりも増えているような気がする。

 高校に入学して電車通学するようになってから大分経つが、この人混みにはあまり慣れそうにない。

 友達とおしゃべりをしている他校の高校生やスマートフォンを触っている青年、ブックカバーをつけた文庫本を開いている大学生くらいの女性など、様々な人が乗っている雑多な車内の雰囲気が陽香は少し苦手だった。 

 

「……ん」


 ふいに、陽香はぶるりと身体を震わせた。下腹部が重たい。お腹の奥がきゅうきゅうと疼いて、早く出したいと訴えてくる。

 実はだいぶ前から尿意を催していた。学校か駅で寄ってくればよかったのだが、今日は途中まで菜穂と一緒だったのでなんとなく言い出すタイミングを逃してしまったのだ。

 最寄り駅まで我慢するつもりでいたが、電車に乗ってから尿意は段々と強くなってきていた。強い波に襲われるたび、途中で降りてしまおうかと何度か考えた。

 けれど、隣に立つ明に何も言わずに電車を降りることはできないし、トイレに行きたいから途中の駅で降りたいと言うのもなんだか恥ずかしい。


 周囲に気付かれないようにこっそりと膝をすり合わせて、陽香は不安に顔を曇らせた。自宅の最寄り駅にはまだ距離がある。このまま降りる駅まで我慢できるだろうか。

 心の中で自分に問いかけてみて、陽香は否と判断を下した。

 似たような状況で結局我慢できずに――ということを幼い頃から何度か経験しているのだ。大勢の人が乗っている電車の中で、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。

 まもなく次の駅に着く、というアナウンスが聞こえてきて、陽香は思わず明の袖を軽く引っ張った。


「あきちゃん。わたし、次で降りてもいい?」

「いいけど、どうかした?」

「あの、ね……えっと、トイレ行きたくて……」


 訝しむ明にこっそりと耳打ちする。恥ずかしさに顔が赤くなった。


「わかった。俺も一緒に降りるから」

「えっ、そんな。あきちゃんは先帰って……」

「だーめ。はるちゃんを一人にしたら俺が兄ちゃんたちに怒られるよ」


 苦笑を浮かべる明に手首を掴まれる。ちょうど二人のいる反対側のドアが開いた。そのまま明に手を引かれて人波を掻き分けていく。

 しかし、混雑した車内を動くと人の腕や鞄が腹部にぶつかって、陽香は悲鳴を上げそうになった。尿意に耐えている身には苦痛でしかない。


「……っ」


 陽香は思わずスカートの裾を握り締めた。できることなら前を押さえつけたいところだが、多くの人がいる場所でそんな仕草はできない。

 幸い乗り降りする人は少なく、駅のホームは空いていた。

 明に手を引かれるまま小さな歩幅で足を進め、改札内を歩く。ほどなく見えた手洗いの案内表示に、陽香は一瞬安堵した。


 ――しかし。​


『女子トイレ故障中。現在ご利用いただけません』


「うそ……」


 扉の前に貼られた無残な張り紙に、陽香は愕然とした。

 足を止めた瞬間に強い尿意に襲われて、思わず片手でスカートの前を押さえてしまう。もじもじと小さく足踏みをしながら、どうしたらいいのかと困惑した。

 小さい駅のようなのでトイレがあるのはここだけみたいだ。駅から出ればコンビニでもあるかもしれないが、初めて降りた駅なので地理が全然わからない。切羽詰まった尿意を我慢しながら探せる気がしない。

 トイレが使えないと知った途端に尿意が増した気がして、陽香はもう限界を迎えそうだった。じっとしているのが辛くて、その場で小さく地団駄を踏む。スカートを押さえる手にぎゅっと力が入った。


「――はるちゃん、こっちのトイレ空いてるから使わせてもらおう」

 

 戸惑っていた陽香の手を明が優しく引いた。

 すぐ側にあった多機能トイレに連れていかれる。入っていいものかとドアの前で躊躇っていると、明が引き戸のドアを開けてそっと背中を押してくれた。

 

「大丈夫だよ。ほら、早く」

「わ、わかった」

 

 明に促されて多機能トイレに足を踏み入れる。少し奥にある白い便器を見た瞬間、ぞくっと身震いした。


「あっ……!」


 じわりと下着の中が温かくなり、陽香は思わず、ぴたりと足を止めた。

 だめ、我慢しないと。けれど、前を押さえる手にもじわじわと熱が広がっていく。もう一歩も動けない。


「はるちゃん!?」


 驚いた様子の明に、陽香は声を振り絞った。


「見ないでっ……!!」


 それが引き金になったかのように、溢れる水流が勢いを増した。

 どれほど手に力を込めてももはや意味をなさず、指の隙間から零れた温かな水が太腿を伝い落ちる。ぴちゃぴちゃと水音を立てて、足元にうっすらと黄色い水溜まりが広がっていった――。


「……ぅっ」


 長い時間が経ったような気がして、ようやく水音が止まった。

 息を吸い込むと、微かな嗚咽が唇から漏れた。独特の臭いが鼻をつく。自分がやらかした跡を目の当たりにして、陽香は頭が真っ白になった。

 視界がぼやける。俯いたまま立ち尽くしていると、ふわりと頭を撫でられた。明が顔を覗き込んでくる。


「……大丈夫?」

「っ、み、ないで、って、……ったのに」


 見ないでって言ったのに。

 途切れ途切れに呟くと、明はばつが悪そうに「ごめん」と小さく呟いた。


「……ううん。わたしこそ、ごめん、なさい」


 陽香は弱々しく頭を振った。

 明が悪いわけではないのに謝らせてしまった。悪いのは自分のほうなのに。

 それ以上何も言えずにしゃくり上げていると、明にもう一度頭を撫でられた。さきほどよりも、うんと優しく。


「早く着替えちゃおう。ジャージ持ってるよね?」


 こくんと頷く。今日は体育があったからジャージもタオルも持っている。

 さすがに替えの下着までは持っていないが、濡れたままでいるよりはずっとマシだ。こんな格好では家に帰れない。

 明がトイレのドアを閉めて鍵をかけた。陽香の視界の先には使いたかった便器があり、このほんのわずかな距離を耐えられなかったのが情けない。


「はるちゃん、鞄貸して。あとこれ」


 明はいつの間にか洗面台で濡らしてきたのか、手には濡れタオルを持っていた。


「俺のタオル使って。使ってないやつだから、ちゃんと綺麗だよ」

「えっ……! だ、だめ。汚しちゃう」

「いいよ。どうせあとで洗うし」


 戸惑う陽香をよそに、明はびしょびしょになった彼女の手をタオルで拭った。そこまでされると、もうタオルを受け取るしかなくなる。

 ありがとう、と呟くと、明はもう一度「いいよ」と言って小さく笑った。

 彼に鞄を預けて、ジャージの入ったトートバッグだけを持つ。


「着替え終わったら声かけてね。その間に片付けとくから」


 明が別のタオルを使って、彼女が汚してしまった床を拭き始める。そんなことまでさせてしまうことに申し訳なさを感じつつも、陽香は奥の方で急いで着替え始めた。


 ***


「……あきちゃん、着替えたよ」

 

 ジャージに着替えてそっと振り返ると、背中を向けていた明がこちらに顔を向けた。濡れていた床は綺麗になっている。

 

「落ち着いた?」

「……うん」

「じゃあ、早く出ようか。あんまり長居しちゃいけないし。タオルだけちょっと洗っちゃうね」

 

 陽香の粗相の跡を片付けてくれたタオルを洗面台で手早く洗っている明に、おずおずと声をかける。

 

「タオル、ごめんね。新しいの買って返すね」

「いいよべつに。これ、そろそろ捨てようかと思ってたやつだし」

「でも……」

「じゃあ、今度買い物付き合って。それでいいよ」

「……うん。ありがとう、あきちゃん」

 

 絞ったタオルをビニール袋に入れて鞄の中にしまい、手を洗ってから明はトイレのドアを開けた。

 

「よかった。誰もいないみたい」

 

 外に順番待ちの人はいないようだった。

 陽香たちが多機能トイレに篭っている間に待っている人がいたらと思うと気が気でなかったので、誰かに迷惑をかけることはなくてよかった。

 ホームに向かって並んで歩きながら、明が優しく窘めるように口を開いた。

 

「トイレ行きたかったんなら、もっと早く言ってね?」

「……ごめんなさい」

「謝んなくていいけど、はるちゃんが嫌な思いするのは俺も嫌だからさ」

「うん。……次から気をつける」

 

 そう応えてから、思わずため息が零れた。

 

「大丈夫? もしかして体調悪かったりする?」


 心配そうに明に問われて、陽香は慌てて首を小さく振った。

 涙は止まったものの表情はまだ泣き顔のままだ。汚れた下肢を拭いて着替えたものの、ぐっしょりと濡れた下着と靴下は脱いで直接ジャージとローファーを履いているのでなんとなく落ち着かない。


「……お兄ちゃんに怒られないかな」


 ぽつり、と陽香は不安そうに呟いた。

 いままで泉に怒られたことなどほとんどないのだが、高校生にもなって制服を濡らして帰ってくるなんてどう思われるだろう。


「大丈夫、泉兄は怒らないよ」

「……ほんと?」

「うん」


 安心させるように明は優しく笑った。彼がそう言うのなら大丈夫なのだろうと、根拠もなく信じられてしまう。


「ほら、早く帰ろう」


 明はそっと陽香の手を取った。重ねた手が温かい。

 ジャージで電車に乗ると悪目立ちしないかと不安に思ったが、隣に明がいてくれれば安心できる。

 手を繋いで、二人は帰路を急いだ。

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