第2話 昼休みと体験入部

「わぁ、陽香ちゃんのお弁当かわいい……!」

「あ、ありがとう」

 

 昼休み。隣の席の柳瀬やなせ菜穂なほと机を向かい合わせてお弁当を広げると、彼女が小さく声を上げた。菜穂のお昼は朝コンビニで買ったらしいメロンパンとコロッケパンだ。

 ミニハンバーグ、ハート型の卵焼き、ハムとチーズのくるくる巻き、枝豆とカニカマのサラダ、デザートにいちご。小ぶりなお弁当箱には色とりどりのおかずが詰め込まれている。どれも陽香の好物ばかりだ。おにぎりは猫の形になっていて、海苔で顔を作っているのが可愛らしいが、可愛すぎるあまり少し食べづらい。

 中学までは給食だったが、高校生になってからは毎朝、泉がお弁当を用意してくれている。今日は何故だかとくに気合が入っていた。給食は苦手な献立が多くて残してしまうことも多かったが、兄が作ってくれるお弁当はおいしく食べられるものしか入っていないので有難い。

 

 いただきます、と軽く手を合わせてからさっそくミニハンバーグを口に運ぶ。食べ慣れた好きな味に思わず頬が緩んだ。

 陽香は野菜全般が苦手なのだが、細かく刻んでこのハンバーグの中に練り込まれているのは知っている。けれど、野菜の味を感じることはなく、照り焼きソースで味付けされたミニハンバーグは好きなおかずのひとつだった。

 

「お弁当いつもおいしそうだよね。自分で作ってるの? それともお母さん?」

「えっと、お兄ちゃんが家族全員分作ってくれてて」

「そうなんだ! いいお兄さんだねっ」


 うん、と頷きを返す。家に“お母さん“がいないということはなんとなく言い出せなかったが、べつにいま言うべきことでもないなと思い直す。

 菜穂とは入学初日に仲良くなった。席が隣で、彼女の方から話しかけてきてくれたのだ。

 小学校五年生から中学校三年生までずっと同じクラスだった明とはクラスが離れてしまい、寂しく感じていた陽香だったが、菜穂と仲良くなれたおかげで新生活も不安が少なく過ごせていた。

 

「そういえば、部活ってもう決めた?」

「手芸部にしようかなって……」

「裁縫とか好きなんだ?」

「うん。中学のときは家庭科部だったの。菜穂ちゃんは?」

「私は吹部かなぁ。小学生のときからトランペットやってるんだ」

「そうなんだ。楽器できるってすごいね……!」

「全然すごくないよー。陽香ちゃんもよかったら体験入部だけでも一緒に行かない? 楽器触るの楽しいよ!」

「見学だけでいいなら……」

 

 お弁当を食べ終えてからもおしゃべりを続けていると、ふいに、隣のクラスの明が陽香の机までやってきた。

 

「はるちゃん。ごめん、ちょっといい?」

「あきちゃん! どうしたの?」

「英語の教科書あったら貸してくれない? うっかり入れ忘れてた」

「いいよ。はい、どうぞ」

 

 机の中から英語の教科書を取り出して明に手渡す。英語の授業は午前中にあったので、午後は使うことがない。

 

「今日はもう使わないから、返すのはあとでいいよ」

「ありがと。邪魔してごめんね」

 

 ひらひらと手を振る明に小さく手を振り返して、教室を出ていく彼を見送る。明が廊下へ去ってから、菜穂が興味津々といった様子で口を開いた。

 

「友達? それとも彼氏?」

「ううん、お兄ちゃんだよ」

「えっ、双子……でもない? もしや、なにやら複雑なご家庭……?」

「えっと、そんなに、複雑とかじゃないんだけど……」

 

 神妙な面持ちになる菜穂に対して、どう話そうかと言葉を探す。

 すぐには事情を上手に説明できないのと、学校であまり人が多いところでしたいような話でもない気がする。陽香が言い淀むのを見て、菜穂は慌てたように手を振った。

 

「ごめん、無理に言わなくていいよ! 訊いちゃってごめんね」

「違うの、ごめんね、上手く説明できなくて。今度、時間があるときにゆっくり話すね。……いい、かな?」

「もちろん」

 

 菜穂は優しく微笑んで頷いてくれた。

 

 ***

 

「あきちゃん、ごめん!」

 

 放課後、先にホームルームを終えて教室の前で待ってくれていた明と顔を合わせるなり、陽香は手を合わせて謝った。

 今日の放課後は明と二人で手芸部の体験入部に行く約束をしていたのだが――。

 

「わたし、先に菜穂ちゃんと一緒に吹奏楽部の見学してきてもいいかな」

「べつにいいよ。ていうか、それなら俺も一緒に行ってもいい? えーと……柳瀬さんだっけ」

 

 入学初日に菜穂と仲良くなったということは明にも話していたので、彼女の名前を覚えていてくれたようだ。

 明が視線を向けると、陽香の横にいた菜穂はにっこりと笑みを浮かべて頷いた。

 

「柳瀬菜穂です。えっと……」

「藤本明。よろしく」

「よろしくね、藤本くん……明くんでいい?」

「好きに呼んでいいよ」

「じゃあ、明くん。もちろん、一緒に行こう!」

 

 菜穂の先導で音楽室へ向かって歩きながら、明がさりげなく口を開いた。

 

「俺とはるちゃんが兄妹って話聞いた?」

「え、うん。昼休みになんとなく」

「まあ、血は繋がってないんだけどね。連れ子みたいな。俺の方が誕生日先だから、一応兄って感じ」

「なるほどー。そういうことだったんだね」

 

 さらっと話した明の説明に、菜穂は納得したように頷いた。陽香も同意の意味を込めてこくこくと頷く。内心では、明の巧みな説明に少し驚いていた。

 彼は本当のことを全て話したわけではないけれど、確かに嘘も言っていない。

 ――本当の事情は、いつかきちんと伝えたいと思っている。いますぐには少し難しいけれど。

 

 

 吹奏楽部の活動場所である音楽室へそっと足を踏み入れると、上級生たちが楽器の準備をしていた。

 陽香たち以外にも、体験入部に来たと思われる一年生たちが何人か音楽室に入ってくる。ある程度人数が集まると、音楽室のドアを閉めてから、まずは部員たちが合奏を披露してくれた。それから、先輩の指導で楽器を触らせてもらうことになる。

 陽香は授業で習ったことのあるピアニカやリコーダーくらいしか楽器には触ったことがない上にそれも得意とは言い難い。迷った末に、菜穂と同じトランペットを選んだ。明もトランペットの体験を選んだようだ。

 とりあえず触ってみようと勧められ、教わった通りにトランペットを持ってマウスピースに息を吹き込むがなかなか音が出せない。明も苦戦しているようだったが、菜穂は当然のように最初から綺麗な音を出せていた。トランペットの構え方も、なんだかぎこちない陽香たちと違い、様になっている。

 

「上手いね。経験者?」

「はい! 中学でもトランペットやっていました」

「どこの中学だったの?」

「あ、長野の方なんですけど……親の転勤でこっちに引っ越してきて。高校でも吹奏楽やりたいなと思いまして」

「ぜひ入ってよ! 大歓迎だよ!」

 

 菜穂は初対面の先輩とも物怖じせずに会話している。

 一方、陽香は緊張しっぱなしだった。副部長だという優しそうな女子の先輩が息の出し方や指の押さえ方を丁寧に教えてくれるが、初対面の人相手という緊張も相まって上手くできない。悪戦苦闘の末ようやく少しだけ音が出せると、副部長の先輩が小さく手を叩いて褒めてくれた。

 

「そうそう、そんな感じ!」

「あ、ありがとうございます……」

 

 少しは音が出せてよかった。ほっとするとともに、下腹部がじんわりと重たいことに気付いた。こっそりと膝を擦り合わせる。

 なんだかトイレに行きたくなってしまった。そういえば昼休みの前に菜穂と一緒にトイレに行ったあと、一度も行っていない。席を外したいが、何も言わずに音楽室から出てはいけない気がする。トランペットも持ったままでは動けない。

 初対面の先輩に告げるのは恥ずかしいが、菜穂は集中しているようで声をかけづらい。どうしよう、と戸惑っていると、少し離れたところにいた吹奏楽部の女子生徒が、陽香の横にいた副部長の彼女に声をかけた。

 

「先輩、ちょっといいですかー?」

「はーい。いま行きます! ちょっとごめんね」

 

 陽香たちにトランペットの吹き方を教えてくれていた先輩がその場を離れた隙に、隣で座って練習している明にそっと声をかける。

 

「あ、あきちゃん……」

「ん? どうしたの?」

 

 周りには楽器の音が溢れていて、陽香の小さな声は届かないのではないかと不安に思ったが、明はすぐに反応してくれた。こちらを向いた彼に顔を寄せて、そっと囁く。

 

「あのね……と、トイレ行きたい……」

「あー、ちょっと待ってて。楽器どうすればいいか聞いてくる」

 

 明はさっと席を立つと、少し離れたところにいる手が空いていそうな女子部員に話しかけにいった。軽く会話したあと、室内の端に寄せてある机の上に持っていたトランペットをそっと横向きに置いてすぐに戻ってくる。

 

「そこの机に置けばいいみたい。トイレも行っていいって。行こう」

「う、うん」

 

 明に促されるままトランペットを置きに行き、彼に手を引かれて音楽室から出ていく。

 音楽室は特別教室が集まった棟の三階にある。音楽室から離れると、放課後の廊下は静まり返っていた。二人の足音だけが響く。窓の外からは運動部の快活な掛け声が聞こえてくるが、それも遠くに感じる。トイレは音楽室から距離があった。

 

「はるちゃん、高校慣れた?」

「一応、なんとか。あきちゃんと離れちゃって寂しいけど、菜穂ちゃんもいるし。あきちゃんは?」

「俺もまあまあ慣れた。わりといいクラスだし。柳瀬さん、いい子そうでよかったね」

「……うん」

 

 一緒に暮らし始めてから、義務教育の間は明とずっと同じクラスだった。もしかしたら何か特別な配慮があったのかもしれない。

 女の子の友達もいたけれどそれほど親密ではなくて、友達以上に一番仲のいい相手が明だった。状況が許す限りはずっと彼と一緒に行動していた。明と離れているときの方が不安だったから、周囲の目はあまり気にならなかった。

 明は手先が器用で料理も裁縫も好きだったから、中学の部活は相談するまでもなく家庭科部を選んだ。男子部員は彼だけだったが、陽香と一緒に楽しそうに活動していた。高校も当然、同じ進学先を選んだ。他の兄たちも賛同してくれた。

 高校生になっても同じクラスになれるものだと漠然と思っていたけれど、そうはならなかった。――この先、いつまでも明と一緒にはいられないことは、なんとなく理解している。

 

「吹奏楽部って大変なんだね。楽器重いし、難しいし。ランニングとかもするんだって」

「ねー、俺たちには絶対無理だね。やっぱり入るなら手芸部だよね」

「うん。あとで見学行こうねっ」

 

 他愛のない話をしているうちにトイレの前についた。陽香の手を優しく握って引っ張っていた明の手が離れる。女子トイレのドアに手をかけつつ、肩越しにそっと振り返った。

  

「あきちゃん、ちゃんと待っててね」

「待ってるから大丈夫だよ。早く行っといで」

 

 促す彼の声に頷きを返し、一人きりで女子トイレの中に足を踏み入れる。個室は全て空いていた。

 尿意にはまだ少し余裕がある。落ち着いた足取りで奥の個室に入り、用を足した。手を洗って、少しだけ乱れていた髪を整えてから廊下へ戻る。明は窓際に寄りかかるようにして待っていてくれた。

 

「ごめん、お待たせ」

「べつにそんな待ってないよ。とりあえず戻ろっか」

 

 一旦音楽室へ戻ると、菜穂が駆け寄ってきた。室内の一年生の数は少し減っている。他の部活の見学に行った生徒が何人かいるのだろう。

 

「二人ともどこ行ってたの?」

 

 首を傾げる菜穂に明が答えた。

 

「ちょっとトイレに。俺たちこのあと手芸部の見学に行くけど、柳瀬さんは?」

「私はもうちょっと練習参加させてもらう。じゃあ、陽香ちゃん、また明日ね。明くんも」

 

 小さく手を振る菜穂に陽香も手を振り返す。指導してくれた副部長の先輩にも軽くお礼を言ってから音楽室をあとにする。

 ――いつまでもは一緒にいられないとしても、せめて高校生の間は、彼と一緒に過ごしたい。できるだけ一緒に、同じことをしたい。

 明と並んで歩きながら、陽香は手芸部の活動場所である被服室へと足を向けた。

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