陽香は三人の兄と幸せに暮らしています
志月さら
第1話 朝の光景
カーテンを開く衣擦れの音が聞こえて、閉じた瞼の向こうが明るくなる。
けれど、彼女の意識が完全に覚醒するには至らなかった。暖かいベッドの中は居心地がよくていつまでも微睡んでいたい。でも、今朝はなんとなく違和感を覚えた。
なんだか、少しだけひんやりしている、ような。
「陽香、陽香。そろそろ起きないと、遅刻しちゃうよ」
聞き慣れた声とともに、掛け布団の上から優しく身体を揺すられる。
もぞりと身じろいで、
窓から差し込む眩しい光に思わず目を細める。ごろんと寝返りを打って朝日から逃れると、ぼんやりとした視界にお気に入りのテディベアが映った。この家に来たばかりの頃、兄たちがプレゼントしてくれたものだ。
寝ぼけ眼でぼうっとしたままでいると長兄に顔を覗き込まれ、陽香はぱちぱちと両目を瞬かせた。
「おはよう、陽香」
「
「ほら、早く起きて。もう朝ご飯できてるよ」
すでにスーツに着替えて出勤準備を整えている兄に促されて、陽香はゆっくりと起き上がろうとした。――しかし、ふと下半身に違和感を覚えて、ぴたりと動きを止めてしまった。
「あ……」
「陽香? どうした?」
彼女の様子に、泉は怪訝そうに首を傾けた。
陽香は答えることができず、かあっと頬を染める。
――腰からお尻の辺りがぐっしょりと濡れている。シーツも、パジャマも。どうしてそんなことになっているかなんて、思いつく理由はひとつだけで。
「……っ」
自分の失敗に気付いた途端、それが無意味な行動と知りながらも彼女は失敗の跡を隠そうと両手で掛け布団を押さえつけた。もちろんその動作は目の前にいる兄にばっちり見られていて。
「あー…………汚しちゃった?」
察した様子の彼の言葉に、陽香は深く俯いた。
ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で呟く。
どうしようどうしよう、とその言葉ばかりが脳内を渦巻くが、どうすることもできずにただ涙だけが迫り上がってくる。俯いたまませめて泣くのだけは我慢しようと必死に唇を噛んでいると、ふわりと優しい手が髪を撫でた。
「よしよし。そんな顔しないで」
「おにいちゃ……」
「大丈夫大丈夫。泣かなくていいんだよ」
泣くなと言われても、優しい声でそう言われながら頭を撫でられては、涙腺が耐え切れなかった。
ぼろぼろと零れ落ちてくる涙を、陽香は必死に両手の甲で拭う。
そんな彼女の様子に泉は淡く苦笑するが、ふと腕時計に視線を移して顔色を変えた。
「陽香、ごめん。落ち着くまで待ってあげたいところだけど、早くシャワー浴びて着替えておいで? このままじゃほんとに遅刻する」
「えっ……」
「布団は俺が片付けとくから。ほら、急いで!」
言いつつ泉が掛け布団を捲り上げる。大きく染みの広がったシーツとパジャマが露わになって恥ずかしくなるが、枕元の時計を見ると落ち込んでいる暇はなかった。
着替えて朝食を食べる時間を考えると、確かに急がないと遅刻してしまう。
兄におねしょの後始末をしてもらうことを申し訳なく思いながらも、陽香は慌てて着替えを掴んで浴室へ向かった。
***
シャワーを済ませて制服に着替え、陽香はわずかに髪を湿らせたままダイニングへ急いだ。
泣き顔をどうにかしようとしたら思ったより時間がかかってしまった。
兄たちは全員食事を済ませたらしく、テーブルの上には陽香の分だけが残されている。
「おはよう、陽香」
「あ、おはよー、はるちゃん。遅かったじゃん、泉兄は?」
コーヒーを飲みながら新聞に目を通している次兄の
「……あの、わたしの布団を……」
頬を染めてぽつりと告げると、昴は表情をほとんど変えないものの納得した様子を見せた。明も気付いたのか「あー、そっか」と少し気まずそうに呟く。恥ずかしいことにこの手の失敗をしたのは一度や二度ではないので、それだけで事情は伝わったようだ。
ベッドの上にマットレスではなく敷き布団を使っているのもそのためだった。もっとも、こんな失敗をするのは本当にごく稀なのだけれど。
「気にするな。早く食べろ」
昴に促されてようやくトーストを一口齧るものの、あまり食欲が湧いてこない。もともと朝は食が細いのだがいつも以上に食べる気がしなかった。
それにゆっくり食べている時間はない。そろそろ家を出ないと、電車に間に合わなくなってしまう。半分も食べ切れないうちに、陽香は手を止めた。
皿の上に残されたほとんど手付かずのおかずを見て、昴が渋い顔をする。
「こら、ちゃんと食べなきゃダメだろ」
突然、泉に後ろから頭をごく軽く小突かれ、陽香はおずおずと後ろを振り向いた。布団を干してきたらしい泉が、スーツの上着を羽織りながら立っている。
「い、泉お兄ちゃん……でも、あの、時間が」
「学校まで送ってってあげるから、ゆっくり食べな。それとも、本当に食欲ない?」
もしかして具合が悪くて食べられないんじゃないかと額に手を当てられて、陽香は頬を赤くした。顔が近い。近すぎる。
「だ、大丈夫! 食べる、食べれるからっ」
大きな手の平から逃れるように顔を離して、陽香は食卓に向き直った。火照った頬を押さえながら、黙々とスクランブルエッグを口に運ぶ。
「昴、今日二限からだっけ?」
「ああ」
「陽香を送ったらそのまま仕事行くから、悪いけどシーツ干しといてもらえるか? あと食器も頼む」
「わかった」
「えー、はるちゃんだけずるい! 俺も乗せてってよー」
泉が昴に家事の残りを頼んでいると、明が不満そうに声を上げた。自分だけ満員電車に乗って学校まで行くのは嫌なようだ。
「仕方ないなー」
「やった!」
苦笑を浮かべる泉に対し、明は笑顔になる。
そんな兄たちのやりとりを聞きながら朝食を食べることに専念していた陽香は、ふいにぴたりと手を止めた。そして、傍らにいた明の袖をくいっと引っ張る。
「あきちゃん」
「ん?」
「トマト食べて?」
プチトマトのへたを掴んで差し出すと、明は苦笑しつつぱくりと一口で食べてくれた。
ありがとう、と頬を緩めて、陽香は皿の端にへたを置いた。フルーツヨーグルトを食べて、牛乳を飲み干して、一応完食。
「ごちそうさまでした」
しっかりと手を合わせて、食器を下げようと立ち上がる。
しかし、キッチンに向かおうとした陽香の手から、昴が食器を取り上げた。
「俺が片付けるからいい。早く支度してこい」
「……うん。ありがとう、昴お兄ちゃん」
陽香がはにかむように顔を綻ばせると、昴もほんの少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、車出して来るから。明、陽香、忘れ物ないようにな」
「了解ー」
「はーい」
泉の言葉に頷くと、陽香は鞄を取りに自室へと急いだ。
パタパタと少しだけ早足で廊下を歩き、通学鞄だけを掴んですぐに部屋を後にする。
「陽香、弁当忘れるな」
玄関を出ようとしたところで昴に呼び止められ、陽香は慌ててピンク色の小ぶりなランチバッグを受け取った。
「ありがとう、いってきます」
ひらひらと手を振る兄に微笑んで、陽香は玄関から飛び出した。
門の前に止められた乗用車には、すでに泉と明が乗り込んでいる。
後部座席のドアを開けて明の隣に座ろうとすると、首を巡らせた泉が声を落として訊ねてきた。
「陽香、トイレ行ったか?」
「あっ……」
ばたばたしていたからすっかり忘れていた。
そういえば、起きてからまだトイレに行っていない。
それまで全く気にならなかったのだから平気かと思ったけれども、泉に指摘された途端に尿意を催してしまったのかのように、急に下腹部が気になった。
同時に今朝の失態とともに、過去に犯したいくつもの失敗も思い出してしまう。用を済ましておきたいけれど、時間は大丈夫だろうか。
どうしよう、と戸惑っていると、泉は優しく微笑んだ。
「待ってるから、早く行っておいで」
こくんと頷いて、陽香は荷物だけ座席に置くと一旦車を降りた。
くるりと踵を返して、来た道を駆け足で戻っていく。
――こうして、慌ただしくも穏やかに、藤本家の朝は過ぎていくのだった。
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