雪のなんびと
桃波灯火
はるよ、こい
「はあ、はあ、はあ…」
少年は焦っていた。フキノトウを探しに山に入ったはいいが、道を見失ってしまったのだ。一度立ち止まり、「………」と無言で周りを見渡す。木、木、木。それ以外は何もない。不安をあおるように、冬にしては生暖かい風が頬を撫でる。そんな時だ。耳に水の流れるような音が聞こえてきた。
「み、水! 山を抜けられるかも……」
ザクザクザク、雪を踏み抜いていく少年。はやる気持ちを表すかの如く、音は大きくなる。だんだんと音が近くなってきた。そのまま進み続け、着いたのは……竹林だった。
「竹林…?」
先ほどから少年が追い求めていた音の正体は水ではない。風でこすれた竹の葉のものだった。「そんな……」と小さく漏らした少年。そのか細い声は竹林の鳴き声にかき消された。
少年は自分の手が震えているのに気が付いた。迷った恐怖からか? いや寒いのだ。確実に寒くなった。日が落ちる前には山を下りないと、待っているのは……
「死」
少年は驚いた。なぜなら少年はしゃべっていない。背後から声がした。
「!?」
勢いよく振り返った少年。その視界の先には一人の女が立っていた。
「か、かぐや姫?」
混乱した頭で少年は考えた。竹林にいる女、かぐや姫。
今しがたかぐや姫と言われた女は軽く笑い、「そんな…たいそうな人じゃないよ」といった。長く、竹のようにまっすぐな黒髪。白く透き通った肌。山とは似つかわしくないように思える。
「どうしたの、こんな山奥に一人で?」
貴女もだろうと普通なら思うところだろう。しかし、少年の頭はこの状況で回る頭じゃないらしい。
「み、道に迷って…」
少年は寒さに耐えるように手を握った。その姿を見た女は少年の手を優しく包み込んだ。
「寒いの?」
少年の手はジーンと温かくなった。その温かみは懐かしいようにも思えた。
何かを思い出しそうな少年を止めるように女が言う。
「両親が心配しているわ」
その瞬間、少年の視界は村を映しこんだ。どうやら本物のようである。
「……夢?」
少年はつぶやかずにはいられない。
これが少年と女の出会いである。
あの日から1日が経った今も、少年は女のことを考えていた。
「……」
今もなお腫れ気味の頬を撫でる。母親の説教のさなかも女のことを考えていた少年。その姿は話を聞いていないように思われてしまったようだ。
いかなる時もあの姿が目から離れない。昨日上った山に目を向ける。真っ白な雪をかぶった大きい山。
少年はしばらく山を眺め……。もう一度上ることにした。
「はあはあはあ」
当てもない。どこにいるかもわからない。そんな女を探して山を登る少年。その姿をはたから見れば、死にに行っているようなもの。確証もなく、ひたすらひたすら……。
案の定、少年は道に迷った。あたり一帯が静かで真っ白。どの方角に歩いているのかもわからない。
数時間が過ぎた。そんな時だ。耳に水の流れるような音が聞こえてきた。
「!」
少年は思い当たる節がある。あの時もこの音を聞いた先で女に出会ったのだ。歩を進める。ほどなくして竹林についた。
周りを見渡してみる。女は見つからない。それもそうだろう。山の中をやみくもに歩き回っても、昨日と同じところにたどり着ける保証がなかったのだ。竹林にいる時点で運がいいといえる。
しばらく探しても女は見つからなかった。
「とりあえず竹林の周りを……」
少年は探索範囲を広げることにした。
長い間歩いた。一回どうにかして帰ろうかと思い始めたその時、少年は見つけた。
「なんだろう、この木は……」
少年は木を見つけた。大きなものだ。少年が何人手を伸ばしたら一周できるのだろう。予想もできないほどに太い幹。大量の緑の葉は雪を受け止め、白い布のようである。
「モミの木っていうの」
勢いよく後ろを振り返る。少年は、
「またいったいどうしたのかな?」
女を見つけた。
「……」
女の質問に無言な少年。それもそうだ。女に会いに来たと正直に言えないだろう。
「もしや、冬が好きなのかな?」
女はうきうきした様子で尋ねてきた。
「いや……冬山で道に迷ったし、嫌い」
…おっかあにもぶたれたし。
少年は嘘偽りなくそう言った。若いというのは正直で残酷だなと女は感じたはずだ。
「………」
なぜなら無言でひきつった笑みを浮かべているから。
「ま、ま…少年。私が冬の良さを教えてあげるから……」
「平助」
「え?」
女がぽかんとする。
「だから平助。僕の名前、少年じゃない」
女は少年の言葉を聞いてから少し固まり……、
「ははは、なるほどね…平助か」
女は先刻とは打って変わって朗らかな笑いを見せた。
「いや、別に…少年の名前を少年だと思っていたわけじゃないよ…ぷぷぷ……」
そこからしばらく女は笑い続けた。ツボにはまったらしい。
「気を取り直して……」
女がコホンと咳払いする。
「冬は好き?」
「嫌い」
間髪入れずに少年が言った。
「は、早いね……。まあいいか。平助、今から私が冬の良さを教えてあげる。それは……」
「それは?」
”山は眠る”
「……」
少年はまた村の中に戻っていた。不思議な現象だが、たじろいでいる様子はなかった。
”冬は静かだ。水は動きを止め、動物は春を見据え始める”
女にさんざん言われた言葉を胸中で反芻する。あの時の話は三時間を超えていた気がする。とても女は熱心に語っていた。だが、
「難しい話だった」
心に響いているのだろうか?
「ねえ、春は嫌いなの?」
少年はまた、モミの木の前に来ていた。今回は山に入った途端、女に会って案内をしてもらったのだ。
「どうしたの、平助。突然そんなこと」
モミの木の枝に座っていた女が少年のところへ下りてきた。意味を探るように顔を覗き込んでいる。
「え、冬のことばっか熱弁するから……」
今日少年がここに来たとたん、冬の良さ講座が始まったのだ。女が満足するまでに三時間はかかった。
「そうだね、春は…好きじゃない」
女はモミの木に寄り掛かった。
「好きじゃない?」
「そう、嫌いじゃない。けど好きじゃない」
「……」
少年は何も言わない。無言で続きを促しているようにも見える。
「私は、冬の眠りに落ちたような静けさが好き。あの雪も、冷たさもすべてがいとおしい。春は……」
女は言葉に詰まり……
「春は?」
少年が促す。それに押された女は、
「春は…春の、生に奮い立っている様子が騒がしい……」
愁いを帯びた目で、どこを見つめているのかよくわからない目で、言葉を吐いた。静かに、言葉を雪に埋めるように。
「夏だってそう、雪のゆの字も感じられない。一番水が騒がしいんだもの、愛でることなんかできない」
深呼吸くらいの間隔をあけて、女が口にしたのは夏についてだった。
「平助は感じていない? 最近の夏はありえないくらいに暑いのを」
「?……んー」
平助はすぐには答えられなかった。分からないのね、というような表情で見つめられて心臓がきゅっとなった。
「夏なんか過ごしてたら、冬のことを忘れてしまいそう……」
女がしゃべればしゃべるほど、声が震えていく。このままだとすぐに泣き出してしまいそうだ。
「ね、ねえっ…秋は? 秋」
少年は秋に話題を変えようとした。冬を目前にした秋はきっと好きだろうと感じたからだ。しかしそれは…失策だった。
「…秋? 好きじゃない。冬が余計に待ち遠しいもの。なんだかじらされているような気分になってしまう。最近の冬は短いと思わない? 年々雪が降る時期が遅くなってきている。それなのに春は変わらずやってくるの」
女は震えた声でしゃべり続けながら、両手で雪をつかんだ。
「………」
平助は黙っていた。
「…………」
ずっと黙っていた。
「……………」
ずっとずっと。
「ねえ」
しばらくして平助はのどを震わした。
「何? こんな気持ちになるんだから、冬以外はきら…」
「ねえっ」
平助は女の発言をさえぎった。女は平助を見る。
「春も、夏も、冬も、全部好きになろうよ」
「え? 無理だよ、そんなこと…。冬しか愛す気は…」
「好きになればつらくないよ?」
平助は確信を持ってその言葉を口にしている。少年というのは、正直で、残酷で、純粋だった。確かに、言っていることは正しくてとてもいい考えだ。しかし人間は様々なものが絡み合って、邪魔をして、自分で自分を曇らせてしまう。
「……」
女は無言だ。女も理屈ではそんなことわかっている。とうに理解している。しかし、少年のように曇りのない鏡は持っていなかった。
「それに…春が、夏が、秋が、あるから
平助の純粋さは一遍も曇っていない。おおよそ少年が語れないようなことをしゃべり続ける。
「なんでそんなに理解している風なの…?」
女には理解できていなかった。いくら純粋であっても、なぜあの歳の人間が冬がある理由を説明できるのを。
「っ……」
平助はそう聞かれて確かにと思った。とっさに出た言葉だった。識者はたくさんの知識を総合して物事を考える。平助は識者では……
「いっぱい聞かされたから、冬の、雪の、季節の話」
平助は識者だった。識者になっていた。女のもとに行くたびにそうなっていった。
「そう…、そうなんだ」
女は依然として声を震わせながらも、真っ白な顔に微笑を浮かべた。今、白く透き通った肌に赤みがさした。
「平助、もう暗くなっちゃったね。また怒られてしまう」
「え? なんで怒られたことを…」
知っているの? と少年の言葉は続かなかった。立ち上がった女が突然何かを渡してきたからだ。
「っ!」
何回目だろう。視界は村を映しこんだ。
「あ…」
平助の両手には小さなフキノトウが乗っていた。
「ねえ」
平助はまたモミの木の下に来ていた。
「…平助じゃない。よく案内なしにこれたね」
女が枝から降りてくる。
「なんとなく。何回も来たし」
平助は女を見る。なんだかいつもより歯切れが悪い気がした。
「なるほど、学習しているわけだね平助は。この、短時間に…」
女は空を見上げて目を細める。
「冬は山が眠る。私もまた眠っていたのかもしれない」
女は平助を見つめた。温かいまなざしで。女は「そして…」と言ってから口ごもった。
「でも私は山とは違った。山は春に……生に備えていたのに、私はただ立ち止まっていただけだった」
女の声が震え始める。しかし口調は明るい。
「平助、あなたが私を歩かせてくれた。ありがとう」
「…行っちゃうの?」
平助はぽつっとつぶやいた。明確な理由はなかった。なんとなく、なんとなくだ。急にとても寂しさを感じた。
「そうだよ。上を見て」
女が促すと、平助は目を見開いて上を見た。
「前よりも太陽が高くなってるの。来たんだ…」
「「春が」」
二人の声が被った。顔を見合わせて、先にしゃべったのは……女だった。
「さすがだね、平助。春が来る、冬の終わりだよ。…ほら」
女の声と同時に、二人の間を暖かい風が吹き抜けた。
「これが、春告げ精」
春告げ精。その言葉が平助の中を駆け巡る。
「なんか…好き、その言葉」
平助はそう言ってから少し後悔した。女の前であまり使うべき言葉じゃないかもしれない。
だがその心配は杞憂だった。平助の言葉を聞いた女は笑った。
「好き、ね。でも私は雪が、冬が、一番好き」
平助ははっとして女を見た。
「平助、ありがとう。そして、また会おうね」
女は平助の手を握った。温かい。そう感じた瞬間、女が消えた。
「え?」
ぽかんと立ち尽くす平助。そしてあのモミの木も消えていた。
けれども。
「あっ、これ……」
平助の手には小さな雪ウサギが一対、残っていた。
雪のなんびと 桃波灯火 @sakuraba1008
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