第3話 海鳥

 人の波は、綺麗に3人を避けて進んだ。不自然に整った円がぽっかりと浮きあがる。 人々は、日常からの異物の存在が目に入っていないかのように振る舞いながらも、視線は興味を隠しきれずにいた。あからさまな好奇の目が絶え間なくジオと少年の全身をねぶっている。少し離れた場所には、野次馬根性でわざわざ足を止めて覗きこむ者までいた。


 それもそのはず、奴隷の子どもが市民の腕を掴みあげて怒鳴ったのだ。

 にわかには信じがたい光景だった。

 しかも、その横には元最高剣闘士が所在なさげに突っ立っている。



 店主は少年を振り払おうと腕を回すが、少年はぴくりとも動かない。それどころか、地面に根を生やしているように微動だにせず、薄い唇を突き出したまま店主から目を逸らすことすらなかった。


 少年は一言言い捨てた後、もはや言葉を発することもなく店主を睨みつけていた。燃えるような赤や、深海の底の暗い青、太陽のようなまばゆい白が、瞳の中で代わる代わる輝く。この世のどんな宝石でも追いつけない色彩の瞬き。らんらんとした真珠層の瞳だった。

 意志をもった一対の目は、言葉以上に饒舌に店主を糾弾きゅうだんしていた。


 その目は、自分と親子ほども年の離れた男を圧倒し、やがてみずぼらしい抵抗を止めさせた。


 そのうちに店主の腕がみしりと音を立てる。たわんだ木の枝が立てる消極的な悲鳴のようだった。乾燥してひび割れた皮膚は、枯れ枝よろしくねじれていく。

 更に責め立てるように少年の指に力が加わる。じわじわと青紫の血管が露わになり、浅黒く薄い皮膚がぼこぼこといびつな山脈を浮かべて膨らんだ。


 ジオは慌てて少年の肩を掴んだ。掴んでみると見た目よりもずっと固く、ごく普通の13、4歳そこそこの成熟前の少年の肩とは思えない。

「やめなよ、離すんだ」

 ジオが請うようにそう言うと、少年は眉を吊り上げたまま店主の腕を放り投げた。どこぞの茂みに蛇の抜け殻を放り投げるように乱暴で無遠慮に。

 少年は店主にようやく次の言葉を投げ捨てた。


「その串はと貼り出しているが、なぜ彼の財布からを抜いたんだ。それも

 少年は忌々いまいましそうに言った。それは明らかに店主だけに聞かせるためではなかったし、答えなんて求めていないのがその響きのもつ圧迫感から理解できた。ようやく解放された店主は息着く間もなく、ぶるぶる震えながら酸欠の淡水魚みたいに口を閉じたり開いたりした。何かを言いかけては止め、言いかけては止め、次の言葉を空気中から探し出そうとしているかのようだった。


「もしかして見間違えたの?」

 屈託のない声でジオは言った。緊迫した空気を掻き分ける言葉に時が止まった。その瞬間、周囲の音がやけに大きく響いた。ラッパの軽やかな音、猫が喧嘩する鳴き声、知らない人のうわさ話。

 これ幸いと言わんばかりに、店主は声高に「ええ、ええ、そうです!で見間違えたんですよ!」と飛びついた。


 少年は信じられないものを見る目でジオを振り返ったが、図体の大きな世間知らずの青年はあっけらかんとした間の抜けた顔をして小首を傾げるばかりだった。ハを描く眉毛はのんきに上下し、猫目が瞬きする。

 ジオの様子を見ると、彼は大きな舌打ちの音を鳴らした。そのままきびすを返して店に背を向けて去っていった。たったそれだけの勢いに、目の粗い麻の服がぺらぺらと弱弱しくひるがえり、無地の裏面が覗いた。


「ところではここに書いてあるとおり5袋で銅貨1枚なんだよな?」


 店主の目が泳いだ。そのびくびくした卑屈な視線は、ジオと、今しがたジオに勧めた紙袋の列を掠めた。

 少年は店主に答える余地さえ残さず、人を掻き分けて去っていった。高く胸を張り大股に進む堂々とした後ろ姿は高貴そのもので、俯くことなく真っ直ぐに前を向き、凛々しく涼やかな表情を崩すこともない。糸で吊ったかのような美しい姿勢は、少年が奴隷であることを忘れさせてしまう。

 ジオは思わずその後ろ姿に見入った。


 人混みに小柄な身体が溶けて見えなくなると、店主は足元の缶を蹴り飛ばした。アルミ製の空っぽの缶が倒れて転がり、派手な音をまき散らかす。1つ転がると、それに合わせて周りの缶まで転がり出し、道行く客の足先にぶつかった。人から人へ、缶はボールのように蹴られ、ついには目の届かない遠くまで転げてしてしまった。


 しかし、こめかみに青筋を浮かべて歯ぎしりをする店主は、そんなことを気にも留めていない様子で悪態をついた。


「奴隷でもってか?島も土地も持たない根無し草が」


 ジオは、彼が言っている言葉がよく分からなかった。しかし、その物言いが昔の主人の1人に重なった。顔は忘れたけれど、怒ると必ず何かを壊さないと気が済まない人間だったのは覚えている。棚の本は全て床に落とし、ガラスというガラスを割る。散乱した本を何度も本棚に並べ直したのものだ。

 ジオは無意識の内に、爪先を器用に立てて、足音を立てないようにしてその場を離れた。


 さっきまで明るく輝いて見えていた景色は、色という色を緩やかに失い、暗く濁り出す。店のカラフルなテントはやかましい原色を掲げて道を圧迫していたし、周囲には濃すぎる調味料で味付けした臭いが交じり合ってたちこめ、その正体を失っている。

 すれ違う誰もが自分をせせら笑っているような気がして、ジオは思わず足が震えた。

「あいつらの方がよっぽどいい商売してやがるくせに」

 背中の向こうで、店主が憎々し気に吐き捨てるのが聞こえた。


 ジオは頭の中に渦巻く雲を振り払おうと一目散に海辺を目指した。正確には海辺に建つ小学校を目指した。学校は浜から続く道を登った先に建っている。小高い丘のため、街を見渡すことができ、清々しい風が吹く。


 昨日は追い返されてしまったけれど、今日は気が変わっているかもしれない。あわよくば入学させてもらえるかもしれない。よしんば許されなくても、窓の外から授業を受けることくらいは見逃してくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、ジオは海へ続く道を歩いた。


 歩き進めていくと、石造りのレンガで舗装されていた道は小石だらけのむきだしの地面へと変わり、靴を履いていても地面の輪郭が分かるようになってきた。段々と潮風の匂いが濃くなり、呼吸の度に磯のふくよかで複雑な匂いに鼻と肺がくすぐったい。

 海風で目の下の薄い皮膚がヒリつく頃には、街の外れにたどり着き、周囲は家ひとつない殺風景な景色に移り変わっていた。

 市場に溢れていた活気は影も形もなくなり、手入れされていない伸び放題の草原が広がった。

 古来より、ガーデル人は好き好んで海の近くには住まない民族なのだ。


 人の声に代わって、力強い波が浜に勢いよく打ちあがる音と、海鳥が長く響く声で呼び合っているのが絶えず聞こえてくる。青空に浮かぶカモメは、左右に大きく揺れながら、離れないように連なって飛んでいる。


 道が開けると同時に、だだっ広い浜が視界いっぱいに広がった。波は白い浜に駆け上っては去っていくのを規則的なリズムで繰り返していた。少し遠くを見てみると、岩部に打ち込む波が白く泡立ったり、弾けたりして海を揺蕩っている。


 そこに、見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 虹色の瞳の少年が、浜をうろつくカモメの群れの中に立っていた。少年の足元には、抱えきれない量の果物と野菜が置かれている。

 賑やかな街に背を向け、海を見つめていた。その視線は直向きに海の果てに向けられ、しかと何かを見据えていた。そして、時折、浜のある一点を見ているようだった。目の先を辿ると、古い灯台と使われていない小さな船着き場がひっそりと息を潜めている。


「君、俺の鎖を切ってくれた子だよね」

 少年は大きな輝く瞳をまんまるく拡げて年相応に幼い顔で振り返った。眉は柔らかなアーチを描いており、穏やかな表情を浮かべていた。

 ジオが一瞬人違いをしたのかと心配したほどだった。これまで見てきた静かな烈火を思わせる形相とは結び付かない幼気いたいけな驚いた顔だった。


 海を映し、太陽を直接浴びる少年の目は、市場で見た時とは比べ物にならない輝きを閉じ込めていた。

「市場でもありがとう。俺、字も数字も分かんなくてさ。助かったよ」

「別に。汚い商売が気に喰わなかっただけだ」


 少年はさっきと同じ調子で短く言った。一際大きな波の尾が、浜を覆いつくして湿らす。ジオのフェルトの靴と、少年の裸の足が熱を含んだ海水にさらされた。


「ところで君、海鳥っていうの?あれ、ウミネコだっけ」

 少年の顔に、一気に血流が駆け巡る。カッと火が付いたように耳まで顔を赤くし、そして、まくし立てるように叫んだ。

「海鳥やウミネコは、僕らリリアナの蔑称べっしょうだ。リリアナは、航海術に優れた海洋民族『星の女神リリーに導かれる民』であって、海を漂流しているわけでもなければ鳥でも猫でもない」


 少年の突然の大声に、カモメたちが一斉に飛び立った。

 羽で空気を掻く音が耳をいっぱいにし、飛び立つ鳥の白い羽に視界が埋め尽くされた。羽ばたきが起こした空気の揺らぎが、身体中に無造作な風をおこし、髪が激しく乱れた。

 その向こうで、ジオと少年は、お互いにお互いから目を離さなかった。


 少年ははっとしたように息を飲むと、小さな声でアンシュリーと名乗った。耳慣れない響きの名前だったので、ジオはアンシュリー、と忘れないように唱えた。

「アンシュリーさん、ごめん。知らなかったんだ。酷いことを言ってしまったお詫びに荷物持つよ」

「いや、知らないんだろうと思った。僕も言い方がきつかった。悪いことをした」

 アンシュリーが言い淀んだので、ジオは控えめに名乗った。

 

 ジオは片手で絶妙なバランスで折り重なる果物と野菜の袋を抱えあげて歩いた。隣を歩くアンシュリーの歩幅に合わせながら、2人はしばらく無言で歩いた。本当はアンシュリーに様々聞きたいことがったが、自分の無知が少年を傷つけることを恐れて黙るしかなった。

 頭の中で小さな話題の芽を摘み、緊張しながらジオは言った。

「海で何やってたの?」

「君には関係ない。それと僕があそこにいたことは誰にも言わないでほしい」

 アンシュリーは必要最低限の言葉で済まそうとしているように短く言いきった。


 意味のない意地悪や嫌味で質問に答えないわけではないのだろう。ジオは直感的に理解した。市場で正しさを唱えた少年が、そんな意味のない感情に駆られているとは思えなかったのだ。アンシュリーにはアンシュリーなりの言えない理由があるのだろう。

 ジオはわかった、とだけ言った。


 しばらく歩くとガリオネ卿の巨大な屋敷の屋根が見えた。本当は目的地まで運んでやりたかったが、それを他の奴隷やガリオネ卿に見られるとアンシュリーが叱られるかも知れないと思ったので、ジオはアンシュリーに荷物を返した。

「アンシュリーさん、またね」

 アンシュリーは両手で抱きしめるように荷物を持ち、少しだけ自由の利く右手で控えめに手を振り返した。


 しかし、アンシュリーが市場を訪れることは2度となかった。

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