第2話 蛇と金貨

 ガロン島は、周囲を4つの激しい潮流に囲まれた絶海の孤島だ。海辺は島の南側にわずかばかりあるのみで、海沿いのほとんどは切り立った崖になっている。波に削られ続けた傷だらけの岩肌と、そこにぶつかる白波の飛沫しぶきは、見下ろす者に強い恐怖心を抱かせた。


 特に潮の流れが速い日にいたっては、浜辺まで地鳴りのような渦潮うずしおの音が聞こえてくる。鉛色の渦がごうごうと音を立てながら、波や海を漂う全てを暗い海底まで引きずり込む。これまで数え切れないほどの舟が、その欠片さえ残さずに、深海、あるいは大海原の彼方かなたに連れ去られてきた。

 次第しだいに、ガロン島の民であるガーデル人の誰もが、海にくり出すことを止めた。

 ほとんどのガーデル人が海に入ることを嫌い、その巨大な渦を見たことが無かったが、ただただそれを恐れてきた。


 しかし、潮の堅牢けんろうおりがもたらすのは悪いことだけではない。ガロン島は何人も外へ出さない代わりに、何人も侵入することができなかった。周囲の多くの島々が交わりいがみ合う中で、ガロン島だけは1000年前の暮らしをそのままに堅持けんじしてきた。  

 ガーデル人は、海と渦巻く潮流を恐れながらも敬い、として信仰さえしていた。


 そんな理由からか、ガロン島は島であるにも関わらず漁師がほとんどいない。市場いちばには近海で獲れた魚が数種類だけ並ぶ。

 市場いちばのほとんどは野菜や果物、そして名産品の海鳥の毛皮を売っていたし、ガーデル人にとっては、魚よりもむしろ鶏の方が身近だった。

 

 今日も街道沿いの市場は人で賑わっていた。石造りの道の端には、所狭しと出店が並ぶ。その明るいテントの色は競い合うように華やかに道を彩った。


 その中に、人の流れに逆らいながら、きょろきょろと落ち着かない様子で歩く青年の姿があった。彼は頭二つ分も周りのガーデル人よりも背が高く、加えて筋骨隆々とした恵体は、どこからどう見ても目を引いた。


 彼はジオ。つい先日剣闘士から三等国民になったばかりだ。

 ジオはこの日、初めて市場いちばを訪れていた。


 あっちを見たり、こっちを見たりと忙しなく首を回すのに合わせて、草原に差し込む夕日のように明るいオレンジ色のくせっ毛が揺れる。市場いちばに並ぶ景色のなにもかもを目に焼き付けようと、灰色がかった水色の目が忙しなく瞬きを繰り返していた。そして、開きっぱなしの口から、一々感嘆の声をあげては、猫のように丸い目を更に丸くした。


 地面を歩む不揃いな足音が石造りのレンガを通して伝わってくる。店の前で立ち止まって値段の交渉をするご婦人のヒール、足早に帰路につくせっかちな革靴のすり減ったかかと、子どもの追いかけ合う小さな足音…。

 地に足がついた確かな生活の息遣いが、地面を通して呼吸する。


 ジオにとっては何を見ても目新しい。鼓動が走っている。

 つい数日前まで禁止されていた「勝手に街に行く」という行為に、溶けきらない罪悪感を感じながら歩き続けた。

 

 街道の一本道を進んで、一際賑わっている大広場の周辺にさしかかると、客引きが汗をかきながらラッパを吹いていた。どこかに穴が空いているらしく、からっぽの空気をたくさん含んだ間の抜けた音だ。そのすぐ隣のカブ屋台で、鼻の長い老犬が寝そべったまま大きなあくびをした。


 屋台は似たり寄ったりの形をしていたが、テントは一つ一つ色や装飾が違っていて、端にはひらひらと海風にそよぐ金や銀のリボンが結んであった。


 どこかの店から逃げ出したらしい鶏が、麦の大袋をたくさん並べた店の前を駆け抜けていく。太った店主がそれを追いかけ回していた。

 ジオは、彼らに道を譲り、その後ろ姿を眺めながら、溢れる音に耳を傾けた。


 市場いちばにはただの生活が溢れていた。

 その一つ一つが、ジオが憧れ続けた生活だった。

 

 どこからか鶏肉の焼ける音が飛び込んできた。ぱちぱちと肉汁が零れて弾け、濃い煙が空に立ち上った。煙に乗って甘辛いソースの少し焦げた香りが空中を漂う。

 

 思わず足を向けると、木の看板を掲げた小さな屋台に行き着いた。串に刺さった鶏肉が焼かれている。


 おいしそう、と買い物をしてもいいのか、を秤にかけ、ジオはしばらく葛藤した。


 ジオは喉を鳴らして、努めてなんでもないような顔を取り繕った。なぜなら、この空間に溢れているのは「特別じゃない日の重なり」なのだ。肩の埃をはたき、意識して眉毛をきりりと上げた。

 間違っても、初めて買い物をするような表情を浮かべてはならない。

 彼はそう心得た。


「これください」

 ジオは、祈るような気持ちを隠しながら店主に声を掛けた。心臓が人知れず不安そうに収縮する。

「3枚だよ」

 店主は一瞥もくれることなくそう言うと、串を1本外して、もう一度火に炙り出した。串の差し口からぷくぷくと透明な肉汁が泡になってこぼれ、ソースと絡まって網の下の焼石を鳴らした。ジオのために香りが膨らむ。


 肉が音を立てて熱を吹き返していくのを見ながら、ジオは顔が耳まで熱くなるのを感じていた。唇を真一文字に結んでいないと、無意識に叫び出してしまいそうな衝動だった。そんな胸の高鳴りを持て余していると、目頭から瞳が潤んだ。


 普通の生活を噛み締めた。自分の意思で食べ物を選び、買い物をする。

 ジオにとっても、相手にとっても、それがごく自然のこととして受け入れる。

 胸にたまった熱が冷めない。


「お兄ちゃん、3枚だよ」

 店主は、ようやくジオに向かって顔を上げた。妙にすがすがしい表情を浮かべる青年を怪訝な目で見ると、眉を少し動かす。

「ごめん、今払うよ」


 ジオは慌てて小さな布袋を出した。紐で口が縛ってある。中には大量の硬貨が詰まって溢れかえっており、ずっしりと重たい。今にも底が抜けてしまいそうだ。


「この中からお代とって。俺、字も読めないし、金の数え方も全然分からないんだ」

 店主は最初驚いていたが、ジオを見ると何やら勘付いたらしい。

 ゆっくりとした動作で、一際明るく輝くを3枚抜いた。そして、巣穴から外を見上げるアナグマよろしく、ちらりとジオの顔に視線を向けた。

 ジオは店主と目が合うと、感謝の気持ちを込めて、にっこりと愛想よく笑った。


 『3枚』

 そう店先にはでかでかと書かれていたが、目の前の間抜けな青年は、心から幸福そうに笑うばかりで何も指摘してこない。


「たしかに。どうぞ、また御贔屓に」

「ありがとう」

 店主が目を細めて笑いかけたのに合わせて、ジオは歯を見せてはにかんだ。整った顔立ちを幼くほころばせ、お使いをやり切った子どものようだった。そして、店主の目にはひどく間抜けな笑顔に映った。


「ついでにこれはどうだ?こっちは1枚でいい。買ってくかい?」

 店主は何か書いてある紙の袋を指さした。

 それを見て、後ろに並んでいた身なりの良い女性が吹き出した。不思議に思って振り返ると、彼女はうつむいてくつくつ笑うばかりだった。


 その時だった。

 小さな手が突然横から伸びてきて、店主の筋張った腕に噛み付くように掴みかかった。まっすぐ放たれた弓矢よりも、鋭い直線だった。

 突然のできごとに、ジオも、当の店主も一瞬肩を強張らせ、息を飲み込んだ。


 白く幼い指が、浅黒い肌に食い込むように食らいついている。成長し切っていない細い指は、店主の腕をようやく一周する程度だった。


 何が起きたんだろう、ジオがぱちくりした目で腕を辿るのとほぼ同時に、清廉な声が声高に空気を貫いた。


「下賤な泥棒が!恥を知れ!」


 その声は声変りも迎えていない幼い少年の声だった。しかし、市場中に響きわたるほど力強く剣幕で、そして有無を言わせぬ凛とした気品を含んでいた。


 今の今までふわふわ漂っていた鶏串の香ばしい香りも、はためく店飾りの華やかな色彩も遥か遠くに忘れ去った。

 ありとあらゆる五感のすべてが声の主に引き寄せられた。柔らかく、強力な引力だった。

 ジオの目には、世界に彼だけが切り取られて見えた。

 

 そこに立っていたのは、虹色の目をした奴隷の少年だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る