彼方なるハッピーエンド

らくがき

第一章

第1話 晴天の下、剣闘士ジオ

 歓声は、彼を取り囲むように降り注いだ。今しがた剣を振り下ろした指の一本一本が大歓声で痺れて震える。途切れぬ拍手、囃し立てる指笛、声高な称賛の叫び。鳴り止まない数多の祝福は、大きな一つのうねりとなって、彼をすっぽりと包みこんでいた。


 中央に鎮座している円形の闘技場と、それをぐるりと囲って見下ろす階段状の観客席。最上階には様々飾りの彫り込まれた特別席が大きく迫り出している。建物を構成するがさがさと荒れた白い石材が、太陽に反射して所々眩しく輝いていた。


 耳をつんざかんばかりの大歓声と、観衆の熱い視線は、彼らの目線よりも幾分か下の闘技場の丁度中央に注がれていた。

 ガリオネ卿記念闘技場の真ん中、その渦の中心で、一人の青年が静かに空を仰いだ。


 耳を貫き、肌を焼き切るような音を全身に浴びながら、彼は黙っていた。ただ、呼吸を整えるために肩で大きく短い息を繰り返す。いつもなら無意識にする活動のための呼吸が、この瞬間はひどく生々しく、意識をしなければ息を吸い込み、吐き出すことを忘れてしまいそうな感覚に陥った。


 彼の見上げた先は、雲一つない晴天の青空だった。顔をどれだけ上げても見渡しきることはできず、手を伸ばしてもその端にすら触れられない。澄んだ単色が同じ濃度で広がり、視界の端に写り込む闘技場の装飾をひどくちっぽけに見せた。

 

 永劫かかっても縮まらない壮大さに、彼は騒音の中で一人圧倒され、そして心が打ち震えていた。

 この日、青がどこまでも高く広がっていることに、彼は初めて気が付いた。生まれて初めて空を見上げた気さえする。

 どこへでも行ける気がした。

 そして同時に、ここが辿り着いた果てなのだとも思った。

 肺一杯に境界のない空気を取り込み、剣闘士ジオは独り、そんなことを考えていた。


 これが自由か。果てがないことを、きっとそう呼ぶのだ。


 自然と指が緩み、今の今まで必死に握り締めてきた剣を滑らせる。

 がらん、と大きな音を立てて石造りのレンガに横たわったそれは、ぴたりと呼吸を止めた。


 ほんの数分前まで刃を交えていた男の呻き声が地を這うように漏れる。身を捩らせて、固く冷たい石の並びに身体を擦り付けている。痛みを逃がそうとしているのが見て取れたが、それに大した意味がないことを、ジオは身をもって知っていた。

 入場門の奥では、涎を垂らす肉食獣が檻を引っ掻きながら、媚びた声で鳴いていた。爪が鉄を引っ掻く金属音は、直接脳の神経を逆撫でするようで、ひどく耳触りに鼓膜を揺らす。次の試合に備え、四足獣たちは極限まで腹を空かされていた。


 そしてその何もかもが、闘技場の外側の声と熱気で掻き消されていた。彼らの立てる生きた音は、ジオにしか聞こえていない。

 観衆たちにとっては、まるで、そこには何もいないかのように。

 この試合の勝者であるジオだけしか、この世界にはいないかのように。


 トンビが海から上がる風に身を任せ、大きな羽を広げて滑空するのを視線の端で捉えた時、聞き慣れた声がジオの意識を呼び戻した。


 いかにも寛大で優し気な様子の男、ジオのかつての主人ガリオネ卿は、ふくぶくとした顔を綻ばせていた。肩がピンと張った白いシャツに、上質な織物特有の光沢が眩しい黒いズボンを合わせた姿は、シンプルながらも富を隠そうともしていない。それに細かな刺繍の入ったふかふかの毛皮を羽織っていた。


 対して、ジオは麻で粗く編まれたほつれだらけの布に、錆びた金属板で押し固められた鎧を重ねているだけだった。剣だけは申し訳ばかりに輝く石で装飾が施されていたが、彼にはそれが何なのか、よく分かっていなかった。


 ジオはその場で跪いた。どうしてそうするのかは分からないが、そうするものなのだと、小さい頃から刷り込まれてきたからだ。まだ軋む身体を折り畳むと、ガリオネ卿は満足そうにジオの癖毛を一度撫でた。

 そして、一度時間を切り取るように咳払いをすると、形式ばった声を張り上げた。


「勇敢なる剣闘士ジオ。素晴らしい戦いっぷりだよ。これまでの輝かしい戦績を評し、約束どおり三等国民の権利を与えよう」


 上流貴族のガリオネ卿が口角を上げて慈悲深くにっこりと微笑むと、更に歓声は激しくなる。それは、油に火を着けたかのような爆発音に近かった。


 国民、その単語にジオは胸が熱くなるのを感じた。全身の毛が逆立ち、心臓から押し出される血脈の力強さをありありと実感する。


 頂点に這い上がった剣闘士は、国民として認められる。


 ジオの二十三年間の全ての根幹が、ようやく実を結んだ。叫び出したいような、飛び上がりたいようなむず痒い興奮を押さえつけ、ガリオネ卿を見上げる。

 湧き上がる感情を持て余したまま、どんな言葉を言えばいいのか分からない。ジオは火照ったままの顔でゆっくりと頷き、興奮で乾ききった喉を震わせた。


「ありがとうございます」


 ガリオネ卿の隣に控えていた奴隷の少年がジオの両手の鎖を持ち上げた。地面まで伸びてじゃらじゃらと重たい音がする。この冷ややかで堅牢な音は、檻の中の獣たちが立てる音と、何の相違もないのではないか。

 ふと、そんなことが頭を過り、ぞっとした。


 少年が糸のようなもので鎖を焼き切っていく。薄い木くずのような柔らかな髪をした小柄な少年だった。

 式典に合わせて着せられているのであろう着丈の短いシャツと、綺麗になめされた皮の半ズボンを履いている。ただ服装が違うだけで、奴隷ではなく中流家庭の利発な少年にしか見えない。

 鉄の溶ける悪臭と、小さく弾ける花火、ちりちりと痺れる手首の振動。

 これが、最後の鎖の感触。


 忌々しく見ていた首輪が、ひどく感慨深く思えた。寂しさは一抹もないが、最早自分は何者にも囚われていないのだと、叫び出したくなる。


 ふと、少年と目があった。

 ジオは、瞬間、呼吸を止めて思わずその目に見入った。


 アーモンド形の形の良い瞼にはまっていたのは、この世界の全ての色彩を落とし込んだかのような瞳だった。何層もの色の層が、小さなビー玉のような目に重なっていて、見ているこちらが罪悪感すら覚えるほどに荘厳な輝きを放っていた。

 かつてそんな色彩を見たことは無い。


 そして、少年は、この空間でただ一人、ジオをひどく軽蔑した目で見ていた。

 身体にねっとりと絡みつくような重たい負の感情が、そこには確かに存在していた。

 少年は、眉間に皺を寄せ、小さく薄い唇をむっつりと尖らせたまま、無言で主人の指示に従う。しかし、確かな意志を持って、美しい瞳を歪めていた。



 鎖が焼け落ちる。手首が軽いのは、きっと、重力だけではない。

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