第4話 暗雲の下、奴隷アンシュリー

 その晩は風がひどく強かった。

 影だけの草木は揺さぶられて枝を振り落とし、土埃は絶えず砂礫されきを巻き上げ続けた。そのくせ、吹けども吹けども分厚く重たい雲が代わる代わる流れてきて、空をすっぽり覆っていた。空虚な膨らみには灰色のグラデーションが這い回っている。

 それらの連なりは、息が重たくなるような鬱屈うっくつとした空の蓋となって、向こう側、生身の空を隠していた。


 吹きさらしの闘技場で、みずぼらしい装いの少年が1人、そんな夜空を見上げていた。

 身にまとう粗い麻の服は所々ほつれ、砂と石だらけの地面に直接触れる小さな足は素足。

 彼は両手で竹箒を強く握り締め、どれだけ風に吹かれても、どれだけ砂のつぶてが無防備な身体に当たろうとも、夜から目を逸らさない。


 力を込め過ぎて白く色を変えた指先は、彼の内に秘められた苛烈かれつな反抗心をささやかに象徴している。

 奴隷の少年アンシュリーは、雲間から星が覗くのを辛抱強く待ち続けていた。


 アンシュリーが立ちつくしていたのは、ガロン島最大の闘技場のアレーナの上だった。

 中央に鎮座する巨大な円形のアレーナは、無骨な白灰色の石材が接ぎ木のように組まれて1つの巨大な円に押し固められている。縁には鮮やかな孔雀色や辰砂色が散っていて、獣と勇敢に戦う剣闘士の姿が描かれていた。


 観客席が階段状にそれを取り囲み、中央には権力者専用の特別席が設けられている。昼間はうだるような熱気を帯び、けたたましい声が止まない満員御礼の闘技場だが、夜になると死んだように沈黙し、人っ子1人いなくなる。


―――ただ1人、罰掃除を命じられた奴隷を除いて。


 遠くで虫の鳴く声がする。静かな夜にはそんな小さな声ですら膨れ上がって大きく響いた。控え目に鳴いたかと思うとしばらく雪のように黙り、それからまたおずおずと遠慮がちに鳴く。その繰り返し。

 鳴き続けても鳴き続けても、重なる音はない。どうやら1匹らしい。


 物寂しい空気の振動は、真新しい傷口まで震わせる。少年の薄く白い頬には真っ赤な傷が刻み込まれていた。真っ直ぐに入った細い線は刺繍糸のようだった。


 それは、数日前に主人であるガリオネ卿に切りつけられた傷だ。

 主人はぶるぶる震えながらへっぴり腰で慣れないサーベルを握り締めていた。まるでお守りのように。

 おまけに、奴隷たちに数字と文字を教えた罰だ、なんて弱々しい言葉まで叫んでいたのだ。


  アンシュリーはその姿を思い出して呆れて笑った。鼻にかかった声が口から漏れる。

 それと同時に、猫撫で声で自分の名前を呼ぶ声が思い起こされた。


 毎日毎日飽きもせず、リリアナ特有の虹色の瞳を、正確にはそこに映る自分を眺めてはうっとりと微笑むガリオネ卿。


 その度、アンシュリーは黙って床を眺めるようにしていた。視線で木目をなぞり、行き詰まったら線を変えてまたなぞる。

 そうでもしないと今にも血色の良い頬をひっぱたきそうだったのだ。


 いっそのこと、もう顔も見なくて済むなら清々するな。


 一途に空を見上げる首が痛い。意地になっていても、胸の内で呼び掛けても、雲は晴れないし晴れる気配もない。

 見ようとしているものが一向に顔を出さないことをしぶしぶ認めると、アンシュリーはようやく重たい腰を上げて版を雑に掃いた。


 目立って見えるゴミだけを地面に落とし、気が向いたところの埃を巻き上げてみる。

 砂埃がふわふわ舞ったが、同じ場所に落ちるだけだった。


「砂や汚れを取ってどうなるんだろう、もっと他のもので穢れているのに」


 アンシュリーは誰もいないからこそ言った。

 人と人が闘う様も、それをみて歓喜する民衆も、見れば見るほどアンシュリーの大きな目には異様で倒錯した光景に映った。


 それから仕方なく座り込むと、昼間の試合でこびりついたダチョウの血を拭き始めた。

 ダチョウと闘っていたのは剣闘士でもなんでもない、スリをした罪人だった。


 腹を空かせた足の長い鳥は獰猛に彼に噛みつき、彼は木製の剣を振り回して必死に応戦した。その痛ましい光景が目に焼き付いて離れない。


 歪な赤茶けた波紋に水を掛けると、いくらか色が薄まっていく。石を削るように擦ると少しずつ汚れが落ちていくが完全には落ち切らない。

 目を凝らすとその不快な鉄錆色は闘技場の至るところに点々とついていた。

 ここで流された血が、層になって積み重なっていく。


 いつか市場で出会ったあの男、いかにも人の顔色を伺っている背の高い剣闘士の彼も、ここで血を流し、また流させてきたんだろうか。


 重たい雲が彼を包み込むように一面に広がり、やがては地上を覆ってしまいそうな夜だった。彼は形の無い水蒸気に囚われていた。


 それでも彼は目を離さない。重たい雲のその向こう、燦然さんぜんと星々が輝いているはずの夜空を。


 一陣の鋭い風が空気を貫き、薄い肌を切り付けるように吹く。石造りのだだっ広い闘技場には風を遮るものがなく、彼は無遠慮に吹き続ける夜風に晒されるしかなかった。

 体の髄まで凍りついて、まだ真新しい頬の切り傷が痛んだ。

 生理的な涙が滲む。


 少年は気丈に歯を食いしばると、曲がった背筋を正した。


 いいや、この島に入った日、船の上であたった海風に比べたら生易しい。こんなものは痛くも痒くもない。あんなつまらない人間の行為が痛いわけがない。

 少年は煌々こうこうと燃え盛る反抗心を胸に背骨を立てる。

 今日はまだ見えない。


「アンシュリーさん、こんばんは」

 静かで風の音しかない夜を切り開くように、聞き覚えのある声が突然降ってきた。アンシュリーは草木の擦れ合う音と風の音以外の温度のある音に驚いて振り返った。


「あの噂、やっぱりアンシュリーさんだったんだ」


 数カ月前に市場で話しただけの元最高剣闘士が、心底嬉しそうに立っていた。

 片手には袋を提げていて、ふわんと芳しい匂いがした。


「噂?」

「うん。ガリオネ卿のお気に入りが他の奴隷に数字と文字教えたから、毎日闘技場で罰掃除させられてるって」


 ジオはふかふかの肉まんをアンシュリーに手渡しした。柔らかくてもちもちした生地に指が沈む。

 肉の香りが混ざった甘辛い湯気が香って鼻腔をくすぐった。


「それで、君は何しに来たんだ」

 190cmをゆうに超える逞しい大男は、照れたようにはにかんで屈み、アンシュリーと同じ目線で言った。

「俺にも数字教えてくれないかな?勿論、お礼はする。掃除手伝うよ。なんなら俺がやる」


 アンシュリーはぽかんと彼を見つめた。

 それから一呼吸置いてくつくつと笑った。

 後ろでシルエットだけの影がざわざわと不気味に揺れていたが、そんなもの気にもならなかった。

「それは、ここの掃除よりもずっと有意義だね」


 アンシュリーは竹箒を投げ捨てると、突然脈絡もなく両手を広げた。そして羽が生えているように軽やかに回ってみせた。それは儀式的な礼節と、神秘的な意味のこもった動きだった。


「数字もいいけど、その前にいいものを教えるよ」


 月の光も差さない夜に、白い肌がぼんやりと夜から浮いて、何かに照らされている。


「僕らリリアナは世界の物語を売る民族だ」


 リリアナの少年はどんな星よりも輝く瞳で言った。

 力強い声色が静かな夜を掻き切る。


「ジオにあげるよ。この島の始まりを」


 雲の隙間から切り取られた空が覗き、一等星が顔を出していた。

 彼らを見守るように白く灯った星だった。

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