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その時、甲高い女の悲鳴が短く三回、山々に木霊した。いや、人間というより鹿の鳴き声に似ている。反響していたが音の発生源は近く、聞こえた方向ははっきりしている。
「緊急時の合図……噂をすれば影ってことか」
国見が背嚢と鉈を手に立ち上がる。先ほどの悲鳴は鹿笛から発せられたもののようだ。
「早速吹きやがって、予定が狂いっぱなしだ」
「国見くん、黒江さんもお願いします。何があるかわかりません、十分に気を付けてください」
呆然と立ち尽くしていたら、黒江に手首を引かれる。
「あなたも来なさい。人手がいるかもしれない」
「大丈夫なのか? こんなやつ連れて行って」
「先生とふたりきりで置いとく方が心配だわ」
国見は不満そうに一瞥したけれど、眼鏡に触れただけでそれ以上の反論はしなかった。その代わりに山歩きするには十分重たい背嚢を押し付けられる。中身を覗くと、綱の類いと医薬品らしき箱と水筒が入っている。
鉈と灯りを持った国見を先頭に、黒江、ぼくと三人が一列になって進む。国見は獣道を辿らず、一直線に音の発生源へと向かう。
十数分かけて、凹凸の激しい斜面を下っていく。ぼくが逃げてきた御堂の付近は比較的なだらかだったが、岩棚の穴倉から音源の方向へは浅い谷になっている。一行は口を利く余裕もなく、軽く息を切らしながら暗闇の底へと下って行く。唯一幸いなことは、斜面にも樹木が生い茂っているために手掛かりが多いこと。暗中で下るにも、転倒を防ぐにも、樹海であることがぼくらを助けた。
「見えた。おいッ、大丈夫か?」
視界の先に光源を見つけ、国見が声をあげる。
「止まれっ! 罠があるッ」
男のしゃがれた声が警告する。ぼくらは一斉に足と息を止める。
「この辺りは村の連中の狩場じゃ。獲物が触れたら爆ぜて毒矢が飛んでくらぁ」
「もしかして刺さったのか?」
「那智のやつが肩をいかれた。肉ごと切り取ったども、危ういかもしれん」
男の声に紛れて、苦悶のうめき声がこちらにまで届いてくる。
「呪いの正体ってわけね。本当に狩りのためだけなのかしら」
黒江がぼそりと呟いた。彼女の言う通り、おかしな気もする。足を射られたならまだしも、腕に当たるなんて。動物を狙うにしては、人間の肩は位置が高すぎる。状況が正確に判断できないからどうとはいえないが、この罠にはどことなく悪意を感じる。通り掛かったものへの暗い敵意のようなものを。
「俺たちはどうやって近づけばいい?」
「そこいらの木に目印をつけながら来た。その跡を辿ってこい。周囲の木や足元には目を凝らせ。不用意にあちこち触るんでねぇぞ」
国見が明かりで上から下まで照らし回すと、意図的に幹を剥がれ矢印を刻まれた木をみつける。鏃は穴倉の方角を指しているようだ。ぼくらは薄明りのか細い命綱のなか、必死に目を凝らし、枯葉や藪に隠された罠を探しながら歩いた。一歩進むにも数十秒、数分とかかり、蝸牛が這うより遅々とした前進だった。
合流した谷底にはふたりの男がいた。ひとりは横たわり、肩に包帯代わりに上着の袖が巻き付けてある。上着は血で染まり、枯葉の上に滴って血だまりをつくる。御堂での光景が蘇り、思わず顔をそむけてしまう。彼が毒矢で射られた那智なのだろう。那智は唇を青くし、暗闇に浮かび上がるほど蒼白な顔で苦しみ呻く。
「おい、バックパックよこせッ。なんの毒だ。救急セットの中身で何とかなるものなのか?」
国見はぼくから背嚢をひったくり、逆さまにして中身を漁る。
「アイヌの使う矢毒と同じじゃったらスルク……トリカブトだ」
もうひとりの浅黒い肌をした男が苦り切った様子でいった。口と顎の髭が濃く、しゃがれた声からして田澤と同じぐらいの年齢だろうか。彼が村までの道案内をするはずの猟師なのだろうか。
「水で傷口を洗い流せ。刺さってすぐにまわりの肉さ切り取って、血を絞り出したけんど、見ての通り毒が回っとる」
紫になるほどきつく止血された肩口は丸く切り取られ、ごっそりと肉がなくなっていた。骨まで見えそうな傷に、国見が髭男の指示通り水筒の水をかける。流水の刺激で目を見開いた那智がぶるぶると体をけいれんさせる。
「あとは? そのあとはどうすればいい?」
「なんも。なんもできん」
「なにッ? このままじゃ、こいつが死にそうじゃねぇかよ」
髭男に掴みかかろうとした国見を、黒江が静かに制する。
「国見先輩、トリカブトの毒、アコニチンには解毒薬がありません。誤食した場合にも、胃洗浄がもっとも有効な治療だといわれています。現状で私たちにできることは、彼を病院に送り届けることぐらい。ですが……」
黒江はその先を言い淀む。ここは深い山の奥。ひとひとりを背負って下山するのにも時間がかかる。麓との連絡手段を持っていても助けが来るまでに、どれぐらいの時間がかかるか。加えて、この辺りには他にも毒矢が仕掛けてあるかもしれない。救助にきたはずが、救助される羽目になりかねない。
「ひとつ、ある。麓の病院に運ぶより、ましかもしんねぇ」
髭男が谷底に続く、か細い水路の跡を上流に向かって明りで照らした。
「村に行く道を見つけた。村の連中が手助けしてくれるかもしんねぇ」
髭男の言葉に顔色を変えた国見だったが、すぐさま首を振る。
「いや、それじゃあ、予定が……計画が頓挫するかもしれない」
「いいえ、先輩。怪我人をダシに使えば、村人たちも無下にはしないでしょう。我々の不自然さや不信感を薄めると思います。無辜の人間を傷付けた負い目があるのですから、調査にも協力的になってくれるかも。少なくとも、那智さんが回復するまでは逗留を許すはずです。もちろん、彼らが人道的な倫理観を持ち合わせていればの話ですが」
矢の仕掛けられた位置についての疑問を彼女も持っていたのだろう。村を発見できたとして、村人たちが必ずしも友好的とは限らない。
「どのみち、日の出までは危なくて動けないだろう。うっかり毒矢に打たれるなんて冗談じゃないぞ。くそ、全員降りてきたのは失敗だったな。だれか弥敷先生に伝えにいければ」
「ながく血の匂いを漂わせるのもよくねぇ。熊を引き寄せちまう」
髭男は足元に置いてあった長細い木と金属の杖を、守り刀のように胸元に引き寄せた。
「それは何? どうやって使うものなの」
「そういやあんた何者だ。猟銃みたことないのか」
髭男が縮れた髪の隙間から鋭い視線を投げる。
「彼が松丸聖、村側との折衝をしてくれるはずだったんだけど……なぜか、このざま。自分のことも、周りのことも碌にわからないみたいなの」
黒江が手短に事情の説明と紹介を済ませてくれる。
「髭の彼は
「呪い、呪いか……確かに、あんたもわしらも呪われとるわ。ただし、このライフルで撃ち払える程度のもんだが。こいつはライフル銃。鹿や熊を撃つための猟銃じゃ。一発ごとに弾を装填せにゃならんが、有効射程300メートルはある。無論、腕次第だが、獣以外も容易く仕留めることができる代物にちがいねぇ」
山素は筒の脇に飛び出た取っ手を引いて、中に込められた弾丸をみせる。先端の尖った円筒形で鈍い金色の光を放っている。構えさえすればいつでも撃てる状態だった。
「こんな奴に扱い方を教えるな。とてもじゃないが信用できん」
国見は怒りのこもった眼で山素と猟銃を睨んだ。
「こんな暗闇の谷底で夜を明かすだけでも最悪なのに」
谷底は風の通り道なのか、休みなく吹き付ける夜風が体を冷やす。満足に身動きもできないまま、野生の熊にも警戒しなければならない。張りつめた緊張感のなか、ぼくらは枯葉が舞う音にも体を震わせた。寝かせた那智を囲むようにして、四人の人間がそれぞれの方角の闇を見張った。
耳ざわりな喘鳴が耳元で渦を巻く夜が続いた。
誰一人言葉を発しないまま夜が明けた。緊張感で疲れ果て眠気が襲い来るころ、樹海の隙間にもわずかな朝日が差し込まれる。薄暗いのは相変わらずだったが、夜よりははるかにましだ。
今すぐにでもへたり込んで眠ってしまいたかったが、まだやることがある。行きがかり上、ぼくだけ手伝わないわけにもいかない。那智の世話は黒江に一任して、男三人で森を探る。周囲の樹々を慎重に調べて、罠がないことを確認した。
国見と山素が穴倉に戻り、田澤と荷物を回収しに向かう。その間に黒江と那智を運ぶための担架をつくる。なるべく長くて真っ直ぐな枝を二本並べ、上着と綱で間を渡す。簡易的な担架だ。
那智は相変わらず青白いまま。震えている状態だけが、唯一彼の生死をはっきりと伝えていた。
「度重なるアクシデントで当初の予定から随分外れましたが、仕方ありません。村へ向かいましょう」
合流した田澤の決断を信じ、一行は村へと向かうことになった。
ぼくはというと、疲れ果てて、自分が何者かなどどうでもよくなっていた。国見や黒江が命じる通りに、荷物や担架を交代で持って歩いた。
登りや下りを数時間ほど繰り返した頃だろうか。行く手を立ち塞ぐ岩壁に突き当たった。岩壁には大人が両手を広げて通れる幅の亀裂が走っており、道はその先へと吸い込まれていた。
「この先が目的地の村だ」
亀裂からは風が吹き抜けており、少なくとも行き止まりではない。風に乗って運ばれてきた空気には、甘い果実の香りが漂ってくる。陽の光も満足に差さないような樹海のなかだ。却って不気味で、一行の表情を硬くさせた。
「行きましょう」
田澤を先頭に一列になって亀裂を進む。田澤の後ろに黒江、担架の前を持った国見、寝かされた那智、担架の後ろを持つぼく、しんがりに山素の順に潜り抜ける。
大蛇の腹のなかを歩き抜けるような、延々と続く通路。いつしか岩山自身の重みで押し潰されるのではないかという妄想が何度も頭をよぎった。
「出口がみえました」
先頭の田澤の声に顔を上げると、行く手に光が現れる。入り口で嗅いだ、甘い芳香が強さを増している。ぼくらは無意識に足早になり、最後はほとんど駆け抜けるようにして通路を抜け出た。
長い長い蛇の胎道を抜けた先に。
「ここは桃源郷か?」
誰かが呟いた。
そこには常春の極楽浄土が広がっていた。
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