第2310話 コーヒーの香り
両親が離婚すると聞かされた。
12月のことだった。
学校から帰ると、私を待っていた両親が私に言ったのだ。
突然のことで、自分の耳を疑った。
頭が理解を拒んだ。
ただ、全身から血が下がって目の前が暗くなるのを感じた。
本当にショックを受けるとこうなるのだということが分かった。
「涼、ごめんね。もうお父さんとは一緒に暮らしたくないの」
「涼、お父さんかお母さんか、どちらと一緒にいたい?」
両親から究極の選択を迫られた。
二人は以前から考えていたのだろうが、そんなこと、今聞かされた私が急に決められるわけがない。
大きなショックを受けていたが、確認しなければならなかった。
「ねえ、どうしても離婚しかないの?」
お父さんが言った。
お母さんに好きな人が出来たということだった。
なにそれ。
そんな身勝手な理由で、うちの家庭は崩壊してしまうのか。
でもお母さんも言った。
お父さんも10年以上ある女性と付き合っているのだと。
お互いに別に好きな人が出来たから、もう離婚しようということになったのだと。
私はそんなこと全然知らない。
なにそれ!
なにそれ!
なにそれ!
私は制服のまま家を飛び出した。
両親とも、許せない。
でも、私にはどうにもできない。
許さないから、なんだと言うのか。
大人の勝手な都合で自分が振り回されてしまうことが分かっていた。
その自分の無力さと、私のことを何も考えてくれない両親に涙が出た。
坂を下り、何となく駅の方へ向かった。
大雨が降って来た。
数秒で全身が濡れた。
喫茶店があった。
いつも学校の行き帰りに通るお店。
古い建物だけど、蔦が絡まった素敵な雰囲気。
でも「般若」という名前が怖くて一度も入ったことは無い。
マスターの顔もちょっとコワイ。
片目に黒い眼帯をして、ちょっと潰れて広がったような顔だ。
財布を持って来なかったことに気付いた。
駅へ行ってもどうにもならない。
こんなにびしょ濡れになって、他人にじろじろ見られたくもない。
どうせなら、びしょ濡れのままで、隠れていたい。
蔦の壁の脇でうずくまっていた。
寒さを感じ、じきに身体が震えて来た。
このまま死んでも構わないと思った。
寒くて冷たくて、それが不思議に心地よかった。
声を掛けられた。
傘をかざされ、大きな男の人が立っていた。
「ねえ、君、中へ入りなよ」
「……」
この喫茶店のマスターだ。
お店の前を通りかかったので見ていたのだろう。
とても優しい声だった。
コワイ顔だが、こんなにも優しい声を出す人だったのか。
「ほら、遠慮しないで」
「あの」
「ん?」
「私、お金持ってないんで」
身体が凍えきっていて、小さく震える声しか出なかった。
マスターが大きな声で笑った。
コワイ顔だったけど、笑うと本当に優しい人に見えた。
「そんなもの! 遠慮しないで入りなさい」
「……」
お店の中は温かかった。
マスターがすぐにタオルを渡してくれた。
そして2階へ上がって行った。
カウンターの後ろに何本もタオルが畳んで置いてあった。
急な雨で濡れて来る人に渡すために用意しているのだろう。
そういう人なのだと分かった。
私は全身が濡れていたので、髪を拭いた後も服はどうにもならなかった。
マスターが女性ものの服を持って来てくれた。
スエットの上下。
綺麗な薄いピンク色で品の良いものだった。
「上でこれに着替えて。ああ、先にシャワーを浴びてね。俺は下にいるからさ」
「あの、これ」
「死んだ妻のものなんだ。服が乾くまでそれを着ていなさい」
「……」
私は頭を下げて2階へ上がらせてもらった。
お風呂場の場所は聞いていた。
濡れた制服を脱いで、シャワーを浴びた。
喋ったこともない年上の男性の家でシャワーを浴びている自分。
他人の家で裸になったことなどない。
少し怖い気持ちもあったが、私はもう別にどうなってもいいと思っていた。
先に下着だけ乾燥機をお借りして乾かした。
シャワーを浴びている間に乾いていた。
清潔なバスタオルが棚に何枚も重なっていた。
その一枚をお借りして身体を拭き、また制服とバスタオルを入れて乾燥機を回した。
スエットを着て下に降りた。
「すみません、お借りしました」
「ああ、じゃあ、座って」
マスターがにこやかに席に座らせてくれた。
お店には誰もいない。
外では大雨がまだ降っている。
いい匂いが漂ってきた。
何か、凄く安心する匂いだった。
マスターがコーヒーを淹れてくれていた。
「どうぞ」
私の前に、お砂糖とミルクと一緒に、コーヒーが置かれた。
とてもいい香りがした。
マスターを見上げた。
笑って手でコーヒーを指していた。
自然に涙が出た。
マスターが微笑みながら私の前に座った。
「悲しいことがあったんだね」
私は泣いたままうなずいた。
「俺もね、数年前に妻が死んでね。しばらくはどうにもならなかったよ」
「!」
マスターは奥さんの話をしてくれた。
目の見えない明穂さん。
マスターが一目惚れで、結婚して一緒にここで喫茶店を始めた。
でも、最初から奥さんが長くないことも分かっていた。
近くの大きな病院のお医者さんが友達で、いろいろ世話になったのだということ。
「人生には悲しいことがあるよ。俺はね、それがおかしいことだとは思わない。妻とは悲しい別れが近いことを知りながら一緒になったんだ」
「それが分かっていてもですか」
「うん。時間の長さじゃない。俺は妻と一緒に暮らそうと思った。最後の日まで、出来るだけのことをしたかった」
「……」
マスターが窓辺のシクラメンを見ていた。
「あれは明穂が遺したものの一つなんだ」
「綺麗な花ですね」
「うん。俺の名前が青児っていうんでね。青いシクラメンを探したんだよ」
「そうなんですか」
「妻は目が見えなかったからね。自分はそんなことしか出来ないって言ってた」
「……」
マスターが窓辺に行って青い花に優しく触れた。
本当に愛おし気にその花を撫でていた。
「とんでもないよ。俺はこの花にどれだけ癒され慰められたことか。この小さな花が、俺をどれだけ助けてくれたことか。妻が死んで何も出来なくなった俺が、この花を見てなんとか立ち直れたんだ。この花と親友のお陰でね」
「そうだったんですか」
私にもそういう花に見えてきた。
亡くなった奥様の愛情が籠った素敵なお花。
人を慰め、勇気をくれるお花。
本当に誰かを好きになると、そういうものになるのだ。
私もそういう生き方がしたいと思った。
そして、素敵なコーヒーの香りが私の中へ沁み通って行った。
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