第2311話 コーヒーの香り Ⅱ
「そうだ、親友がさっきケーキをくれたんだ」
そう言ってマスターがカウンターの奥からフルーツロールを出してきた。
「良かったら食べてよ」
「いえ、そんな」
一切れしかなかったのでお断りした。
「大丈夫だよ。もう一切れは上の仏壇にあるから。俺は後でそっちを食べるからさ」
「そうなんですか」
「親友はさ、こういう甘いものはいつも二人分買って来るんだ。明穂の分だってね」
「いい方なんですね」
「ああ。今でも明穂のことを気に掛けてくれてね」
私は申し訳なかったけど、フルーツロールをいただいた。
落ち着いて来ると、不思議に空腹を感じて来た。
甘さが控えめで美味しいケーキだった。
マスターがコーヒーを入れ替えてくれた。
身体がすっかり温まった。
冷え切った心はもっともっと温かくなった。
「ありがとうございました。後日、必ずお金は……」
マスターが手を振って笑った。
「丁度暇だったからさ。若いお嬢さんとお話し出来て嬉しかったよ」
「そんな!」
「ありがとう。良かったらまた来てね」
「はい! 必ず!」
マスターが上から私の制服を持って来てくれた。
「乾いているけど、アイロンを掛けないと」
「はい。あの、この服はお借りしてもいいですか?」
「ああ構わないよ。またいつか返してくれれば」
「じゃあ、お借りしますね」
私が帰ると言うと、マスターが傘を貸してくれた。
それもお借りして家に帰った。
もう先ほどまでの悲しみは無かった。
両親のことはもう仕方がない。
納得したわけではないが、自分が悲しんでいてもしょうがない。
どうしようもない別れがあることを、マスターから聞いた。
家に帰ると、二人とも心配していた。
私は二人に言った。
両親のどちらとも一緒に暮らしたくないと言った。
私には選べない。
二人とも一緒に暮らしたい。
でも、それが出来ないのであれば、私は独りで生きよう。
あれだけショッキングなことがあったのに、私の心は短時間で落ち着き、新たな世界へ踏み出すことが出来た。
あの優しいマスターの素敵なコーヒーのお陰だと思った。
二人は驚いていたが、私の決意が固いことを知ると、生活費や学費は出すということで独り暮らしのマンションを用意すると言われた。
多分だけど、二人とも私がいれば邪魔になるんだろう。
先ほどまでならばそれもどうしようもなく悲しかったが、今は不思議とそれほど気にならなくなった。
「この近所に住みたい」
「でも、もっと高校に近い方がいいんじゃないか?」
「ううん、この近くでお願い」
新橋のマンションに住むようになった。
今までよりも少し「般若」とは離れるが、歩いて行ける距離なので満足した。
私は「般若」によく通うようになり、それだけで幸せだった。
今まで両親と暮らしていた頃よりも。
だから分かった。
私の家族はとっくに崩壊していたのだ。
思い返せば、もう家族の団欒など無かった。
両親のどちらとも、ほとんど話もしなかった。
二人は既に、外に大事な人を持っていたのだ。
「般若」は温かな空間だった。
本当に満足し、私は受験勉強にも一層身が入った。
「般若」に行くと、いつも「学割」だと言われて半額にされてしまった。
明恵和尚がいると、いつもおごられてしまう。
申し訳なかったが、甘えてご馳走になった。
いつか必ずこの優しくしてくれたことを返したいと思った。
「般若」には何人か常連さんがいた。
筆頭は近くのお寺の明恵和尚さん。
毎日3時頃に来て、夕方までいる。
学校が終わった私ともよく会って親しくなった。
ちょっとエッチで下品な人だ。
でも、とんでもなく明るく優しい人だ。
もう一人はマスターの親友だという石神さん。
近くの大病院のお医者さんで、背が高くて見たことも無いくらい顔の綺麗な人。
着ているものも、いつも高級なスーツだった。
石神さんも明るく優しい人で、マスターとは昔からの知り合いらしい。
「涼ちゃん、青の顔って怖くない?」
「いいえ、そんなことありませんよ」
「だって、黒い眼帯なんかしちゃってさ」
「おい、赤虎!」
何故かマスターは石神さんのことを「赤虎」と呼んでいた。
他の常連さん以外のお客さんがいると「石神先生」だった。
石神さんはマスターのことをいつも「青」と呼んでいた。
「顔なんかも潰れて拡がってるぜ?」
「この眼も顔もお前にやられたんだろう!」
「ワハハハハハハ!」
「!」
どういうことだろう?
分からない顔をしていると、マスターが話してくれた。
「こいつとはね、高校生の頃にお互い敵チームの暴走族でね」
「エェッ!」
「俺のチームの方がでかかったんだ。でもこの赤虎が化け物みたいに強くてさ。お互いぶつかったら、あっさりやられた」
「ワハハハハハハ!」
チーム同士の抗争で、石神さんがマスターの片目を潰し、顔も潰したのだという。
どうしてそんな二人が仲良くなっているのかと思った。
「喧嘩はしたさ。でも、それが終わればまたそいつ自身の話だ。赤虎には本当に世話になった」
「そんなことはねぇよ」
二人が静かに笑っていた。
よくは分からないが、そういう関係もあるのだろう。
そしてそれは美しい関係だと思った。
マスターと石神さんは美しい。
石神さんはいつも楽しい話をしてくれる。
他の常連さんもみなさんいい方たちだった。
翌年、私の受験の前にマスターがお店を閉じた。
マッカーサー道路が通ることは聞いていたが、マスターは立ち退かないつもりでいた。
奥様との思い出のこの店を潰したくなかったのだ。
でも、どうしようもなかった。
常連の人たちを呼んでのパーティが開かれた。
私も呼んで下さった。
みんなでマスターとの別れを惜しみ、マスターはしばらく奥様の遺影を持って海外を旅行すると言っていた。
明恵和尚さんがシクラメンを預かり、私は時々それを見にお寺へ行った。
そしてマスターの奥様の明穂さんのお墓参りもするようになった。
時々、石神さんとお会いする。
「やあ、涼ちゃんも来てくれたんだ」
「はい。マスターが来られないと思って、せめて代わりにと」
「そうか、優しいね」
「いいえ」
石神さんも同じだったのだろうと思う。
マスターの代わりに、私よりもずっと多くここに来ているのだろう。
石神さんが来たことはすぐに分かるようになった。
素敵なお花が入れられているからだ。
石神さんがいると、一緒に明恵和尚さんにもお会いするようになった。
「おう! 涼もちょっとウンコくれよ!」
「エェ!」
石神さんが和尚さんの頭を叩いていた。
「あなたね! 学生さんに何言ってんですか!」
「いいじゃねぇか! 若い方が栄養もあるだろう!」
「捕まりますよ!」
「ばかやろう! ウンコは欲しいけど、してるのを見たいわけじゃねぇ!」
「同じですよ!」
よく分からない喧嘩だったので、その日は帰った。
マスターが帰って来ると聞いた。
私は四谷の大学に通うようになり、その知らせを喜んだ。
マスターはまた近くで喫茶店をやるそうだ。
今度はマスターのお店でアルバイトがしたい。
今まではマスターやみなさんにお世話になってきた。
だから今後は皆さんにお返しがしたい。
両親とはその後、少しずつわだかまりを解いて行った。
今でもわがままな理由だとは思うが、大人というのはいろいろあるのだと思った。
マスターや石神さん、明恵和尚さんたちにいろいろなお話を聞いた。
だから、人生経験のない私などが大人の善悪を批判することは出来ないと思った。
私は素晴らしい大人の方々と知り合うことが出来た。
あの日、私をお店に入れてくれ、親切にしてくれ、コーヒーを飲ませてくれたマスターのお陰だ。
私は多分、マスターのことが好きだ。
でも、それはマスターと付き合いたいとかというものではない。
私はマスターのために何かをしたい。
自分に振り向いて欲しいんじゃない。
マスターが帰る日が待ち遠しい。
早くマスターに会いたい。
そして、またあのマスターの素敵なコーヒーの香りを毎日嗅ぐのだ。
私は、それだけで幸せになれる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます