第2238話 着られなかった着物 Ⅱ
そしてパーティ当日。
レイは言われた通りに1時間前に出頭した。
もちろん着物を着て、髪は自分で結った。
研究所の玄関で、スペンサー少佐が待っていた。
レイだけしかいなかった。
レイの姿を見るなり、スペンサー少佐が顔を歪めた。
「やはりそうだったか」
「はい?」
スペンサー少佐は、今日のパーティが海軍の礼装で出席することになっていると告げた。
そういう決まりになっているので、私服、まして民族衣装での出席は大問題になると。
「え! でも私はマクダネル中佐に言われて!」
「分かっている、コシノ少尉。君がここでいわれのない不遇といじめを被っていることは知っていた。だから、今回のことも、君を陥れる何かがあるのではないかと思っていた」
レイは驚くと共にショックを受けた。
自分がどうしてそこまで周囲に嫌われるのか。
一体自分が何をしたと言うのか。
込み上げる涙を必死で押さえた。
スペンサー少佐は、どこからかレイの陥れる罠を察知していたのかもしれない。
少佐はレイの肩に手を置いて強い口調で言った。
「コシノ少尉、負けるな。君の努力と情熱を顧みない人間ばかりじゃない」
「スペンサー少佐。申し訳ありません。今日はこのまま帰らせていただきます」
涙を見せまいと必死に堪えたが、パーティへ行く気には到底なれなかった。
「待ちたまえ。逃げてはいけない。君は礼装に着替え、至急戻って来るように」
「でも、少佐!」
「負けるな! 私は君をちゃんと見ている。今は辛いかもしれないが、きっといつか君は認められる」
「……」
レイは涙を堪え、ロッカーに用意していた礼装に着替えた。
靴は常に磨き上げ、記章の手入れも怠っていない。
礼装はすぐに準備できた。
レイはスペンサー少佐のお陰で恥を掻くことも、処罰対象となることも免れた。
ただ、レイは必死で涙と怒りを抑えた。
パーティでは全員ではなかったが、何人かが予想外だという顔をしてレイを見ていた。
やはり、最初から仕組まれていたのだ。
しかし、パーティから戻ってから、とんでもない事件が起きていた。
レイがロッカーへ仕舞った着物が、何者かによってズタズタに斬り裂かれていた。
恐らく、レイを陥れようとした人間の手によるものだろうと思われた。
レイが難を逃れ、礼装で出席したことへの腹いせだった。
レイは母親の形見を喪い、泣き崩れた。
大切な思い出の品だった。
幼い頃に突然両親を喪い、残った物の中でも、最も大切な品だった。
それをこんなことに。
もう、涙を抑えることは出来なかった。
スペンサー少佐が事件を聞き、すぐにレイの所へ来た。
泣きじゃくるレイに、その着物が亡き母親の形見であることを聞いた。
「絶対に許さない! ここには鬼畜がいる! 私が絶対に許さないぞ!」
そう叫び、レイを慰め着物を自分のコートで丁寧にくるんでレイのアパートメントまで送った。
スペンサー少佐の懸命な調査にも関わらず、レイの着物を斬り裂いた犯人は見つからなかった。
上官であるマクダネル中佐にもねじ込んだが、中佐は記憶に無いと一言の下に跳ねのけた。
スペンサー少佐はこれまでのレイの不遇を上申し、レイを自分の設計部署へ引き入れた。
ようやく、レイへのいじめは鳴りを潜めた。
レイは自分を拾って助けてくれたスペンサー少佐のために、懸命に働いた。
しかし、その数年後。
再び頭角を現わしたレイを嫌う人間たちが出てきた。
研究所の中で、機密情報の漏洩事件があり、それにレイが関わっていたという噂が流れ始めた。
レイもスペンサー少佐も必死に否定したが、状況証拠に近いものが幾つか提示された。
レイはスペンサー少佐に害が及ぶことを懸念し、海軍研究所を辞職した。
スペンサー少佐は何度も思い直すようにレイを説得したが、レイはもうこれ以上ここにはいられないと思った。
傷心のレイを静江さんが心配した。
レイを呼び寄せ、静養させながらロックハート家の造船所で働くように勧めた。
レイも静江さんの好意に応え、心機一転して造船所で一層頑張るようになった。
後に静江さんは、レイが母親の形見の着物を台無しにされたと聞いて、大きなショックを受けた。
レイの心を思えば、どうしても放っては置けなかった。
日本と関わることを控えていた静江さんだったが、決意した。
「レイ、お母さんの着物を預からせてくれないかしら?」
「え、あの着物をですか?」
台無しにされたとはいえ、もちろんレイは捨てることもせずにまだ畳んだままで保管していた。
「もしかしたらね、直せるかもしれない」
「本当ですか!」
「あのね、そんなに期待しないで。でもそういう技術を持った人を知っているから」
「お願いします! たとえ直らなくても、少しでも元に戻れば!」
「そう、じゃあ預からせてもらうわ」
レイは寝食を忘れるほどに仕事に打ち込んだ。
それは、駄目になった自分を再び拾ってくれた静江とロックハート家に恩義を返すためだった。
度々静江さんや上司が叱責するほど、レイは仕事にのめり込んだ。
そして、時は流れ、レイは石神家との縁が出来た。
静江さんから時々、石神一家の話は聞いていた。
響子の大手術以降だ。
しばらくの間、石神高虎という男に感謝してはいたが、会う機会もなく自分に関わることだとは思ってもいなかった。
そして、ルーとハーの遭難事件が起きた。
静江さんに言われて西海岸まで迎えに行き、双子の明るさと逞しさを一遍に好きになった。
話に聞いていた通りの、石神家の人間だった。
レイは静江さんに命じられて石神家まで双子を見送り、そこで石神高虎に会った。
一目惚れだったのだと後に静江さんから聞いた。
しかしレイは俺と結ばれることなど考えもせずに、それ以上に自分の心が揺れることを恐れた。
俺が誘っても家に入ることも遠慮し、急いでニューヨークへ帰った。
静江さんと石神家と石神高虎の話をするようになり、レイの心の中で消せない炎があることを認めざるを得なかった。
レイを愛する静江さんも、会話の端々に漏れてくるレイの恋情に気付いていた。
静江さんはレイを俺の傍に送り、レイには幸せになって欲しいと願った。
あのレイの最期の前日。
「シズエ様! 石神さんが戻ったら、私に素敵なプレゼントを下さるそうです!」
「そう、良かったわね」
「あの、多分なんですが」
「なあに?」
「あの、まだ、その……」
静江さんは微笑み、レイにこれを着て帰るようにと言った。
静江さんが持ってきたものを見て、レイが号泣した。
それは、あの日斬り裂かれてどうしようもなくなった、母親の着物だった。
「先日、やっと修理が終わって届いたの」
「シズエ様! どうして!」
「あら、私は直すって言いましたよね?」
「はい! でも、本当に、全部元に……」
泣きながら近づくので、静江さんがそっとレイを止めた。
「ほらほら。そんなに泣いた顔を近づけてはいけません。折角綺麗に直してもらったのですからね」
紅茶を頼み、レイを落ち着かせた。
静江さんは、京都の有名な修復師に頼んだと言った。
「昔の知り合いの伝手でね。最高の腕を持った方にお願い出来たの」
「そうなのですか!」
国宝も手掛けるほどの人物で、一般の人間からの依頼を受けることはほとんどないそうだ。
恐らく、静江さんが持てる力の全てを使い、レイのために手配したのだろう。
「レイ、これを着たあなたを見れば、石神さんはきっと喜ぶわ」
「はい! そうですね!」
レイが嬉しそうに笑った。
しかしレイはその着物に袖を通すことは無かった。
どれだけ、あの着物を着ることを楽しみにしていたことか。
レイの心を思うと、今も胸が痛む。
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