第570話 門土 Ⅲ
「聞くんじゃなかったですー」
亜紀ちゃんがまた泣いた。
「亜紀ちゃんが聞きたいって言ったんじゃないか」
「最初に悲しい話だって教えて下さい」
「俺が今セッションをしてねぇんだから。だったらしてた相手はもういねぇ、ということだ」
「そんなのー!」
俺は笑いながら抱き締めてやった。
「門土さんは、やっぱり悲観して、絶望して死んだんですかね」
「俺はそうは思いたくないな」
「どういうことですか?」
「あいつはやり切って死んだ。燃え尽きたんだよ。もうこの世でやるべきことが無くなったからオサラバしたってな」
「そうなんですか?」
俺は立ち上がり、自分の部屋から門土の譜面を持って来た。
亜紀ちゃんに見せた。
「これな、実は俺と橘弥生とで、最初にセッションした時のものなんだ」
「え! ギターの曲って……」
俺は亜紀ちゃんのために譜面を追ってやった。
「最初はギター・ソロな。ここまでだ。ここから、ほら、ピアノが始まるだろ?」
「ああ!」
「門土はこれを譜面に残した。一度きりで終わったはずの音楽を、ずっと残そうとしたんだ」
「橘さんは、最初しか見ないでギターだと言ったんですか?」
「そうじゃないよ。当然最後まで見ているさ。あの時の曲だってこともちゃんと分っただろうよ」
「じゃあ、どうして」
「門土が俺のためにやったことを分かったからさ。あの出会いが俺たちの全てだったってな。あいつは最後にピアノが弾けなくなったけど、俺と門土の人生はそれで良かった」
「そんな」
「そういう人生だったけど、俺たちは何度でもあの最初の時間に戻れる。そこから最後まで行けるんだ。それが「永遠」ってことだ」
「ニーチェの「永劫回帰」……」
俺は亜紀ちゃんの頭を撫でてやる。
「音楽は虚空に消える。その時だけの芸術だ。だから素晴らしいんだよ。それを譜面に残す、録音する。そうすることでまた聴ける。でも、消え去るものなんだ。何百回聞いても、何百回消える。そういうものだな」
「はい」
「門土はあいつの最高の人生の出発を、その思い出を残した。俺は立派な人生だと思うよ」
「そうですね!」
「最高なんだから、それ以上はいらない。俺はそう思う」
「はい」
「さあ、夕飯を作るか!」
「はい!」
「今日は、まあ、肉か!」
「はい!」
今日は豚と鶏の生姜焼きだった。
調理を始めるとロボが唸った。
いい匂いのせいだろう。
俺は笑ってロボに鶏の胸肉を焼いてやる。
自分のものだと分かるのか、俺の足にずっと身体をこすりつけていた。
食事を終え、亜紀ちゃんと風呂に入る。
「これだけしょっちゅう入ってると、山中も諦めて許してくれねぇかな」
「いえ、カンカンですよ」
「意地悪言うなよー」
「アハハハハ」
「山中もギターをやってたんだ」
「へー、そうなんですか!」
「御堂はヴァイオリンだろ?」
「上手いですよね」
「三人でやろうってことになってな」
「え!」
「でも山中ってコードがやっとでな」
「うーん、そんな気はしてました」
「その一回でセッションは終わったな」
「アハハハハ」
「家では弾いてたか?」
「いいえ。一度も聴いたことありません」
「奥さんはピアノが出来たはずだぞ」
「ほんとですか!」
「まあ、あの家だと置き場所も無かったからなぁ」
「じゃあ、私たちも音楽の才能がありますかね?」
「あ?」
「ひどいですよ! おかーさーん!」
「アハハハハ」
暑くなったか、亜紀ちゃんが湯船の縁に座る。
「まあ、歌はそこそこで、リズム感は優秀だな」
「そうですか!」
「あとはひたすら練習だ」
「そうですよね」
「じゃあ、私はギターをやる!」
「そうか」
「やりますからね!」
「がんばれー」
「教えて下さいよ!」
「やだよ、めんどくせぇ」
「おとーさーん!」
「おう、呼べ呼べ」
その時、ハーが俺に電話だと呼びに来た。
「誰からだ?」
「御堂さんです!」
俺はダッシュで風呂を出た。
身体も拭かないで、脱衣所の電話に出る。
「おう!」
『こんばんはー!』
柳だった。
「ばかやろー! 御堂だっていうから急いで出たのに」
『いいじゃないですか!』
「オチンチン剥き出しで来たんだぞ!」
『早く仕舞って下さい!』
「裸だぁ!」
風呂に入っていたと説明した。
『すみません。じゃあ、後で折り返して下さい』
「おい! 御堂を出せ!」
電話が切れた。
亜紀ちゃんが上がって来る。
「あいつ! 切りやがったぁ!」
亜紀ちゃんが俺の身体を拭いてくれる。
「まあまあ」
俺は怒りでオチンチンを振り回した。
リヴィングで御堂に電話する。
亜紀ちゃんがコーヒーを淹れてくれる。
「おう!」
『さっきは悪かったね。お風呂だったんだって?』
「いや、もう上がったから大丈夫だ」
『柳に電話を奪われてね』
「あいつ!」
御堂が笑っている。
『それで、再来週あたりに休みが取れそうなんだ』
「ほんとか!」
『ああ。金曜の晩からお邪魔してもいいかな?』
「もちろんだ! ああ、楽しみだなぁ!」
『僕もだよ。じゃあ、詳しい時間はまた連絡する』
「おう! 待ってるよ」
俺たちはしばらく近況を話した。
一連の危ない話はしない。
柳が電話の向こうで騒ぎ出した。
御堂が笑いながら電話を替わった。
『柳ですー!』
「にゃー」
俺は電話を切った。
「おい! 再来週に御堂が来るぞ!」
子どもたちが笑顔で俺を見た。
「タカさん、良かったですね!」
「うん!」
俺は最高の機嫌だった。
「あ、お前は御堂を知らないよな!」
俺はロボに一生懸命に御堂のことを話した。
ロボは黙って聞いていたが、そのうちあくびをした。
「よし! ロボも理解したな!」
子どもたちが笑って見ていた。
「今日はみんなで寝るか!」
「「「「はーい!」」」」
ハーが自分のベッドを抱えて、俺の部屋に入れた。
俺は御堂が来たら何をするのかを延々と語った。
亜紀ちゃんに「早く寝ろ! 御堂キチガイ!」と怒られた。
みんなが笑った。
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