第569話 門土 Ⅱ

 貢さんが亡くなってからも、俺たちの付き合いは続いた。


 門土はやがて芸大に進み、本格的にピアニストになろうとしていた。

 俺は一年遅れで東大に入り、互いに忙しく、徐々に会う機会も減った。

 それでも二か月に一度は会って、一緒にセッションをした。

 会う機会は減っても、何も変わることは無かった。


 「俺さ、今全部全音で表現できないかって考えてるんだ」

 「へぇ! トラ、面白いじゃないか!」

 「そうだろ? 速弾きは貢さんの得意分野だけど、だからこそ、その正反対ってどうなんだろうって」

 「お前凄いな!」

 「やっぱ?」

 俺たちは笑った。

 

 俺は幾つかやってみたことを門土に聴かせた。

 とても喜んでくれた。





 ある日、門土の家の音楽室で、一緒に遅くまでやっていた。

 橘弥生が来た。


 「随分と楽しそうね」

 「はい! お邪魔してます!」

 「トラと一緒にセッションするのが、一番楽しいみたいよ」

 「はい!」


 「トラはギタリストにはならないの?」

 「はい。俺は医者になります」


 「だったら、もう来ないで」

 「え?」

 「母さん!」

 「音楽家でなければ、門土には必要ないの」

 「……」


 「分かりました」

 俺はギターを片付けた。


 「母さん、頼むよ!」

 「ダメよ。あなたもそろそろピアニストとして立ちなさい」

 「トラ!」


 「門土、橘さんの言う通りだよ。俺はお前の邪魔をしている」

 「そんなことはない! お前といっしょにやってると、俺の中で」

 「違う。それはただの遊びだ。俺たちは友達だ。でもお前はピアニストになれよ」

 「トラ!」


 俺には橘弥生の言うことがよく分かった。

 門土は楽しいばかりではない、厳しい道を歩かなければならない。


 もう横浜線の終電は終わっていた。

 俺はギターを抱えて歩いて帰った。


 ギターがやけに重かった。


 途中で公園を見つけ、独りでギターを弾いた。

 無性に貢さんに会いたかった。






 その後、門土は徐々に活動して行った。

 天才ピアニスト・橘弥生の息子として売り出された。

 門土の初めてのコンサートだというチケットが、俺に送られてきた。

 橘弥生からだった。

 以前の暴言を詫びる言葉と、門土のために是非演奏を聴きに来て欲しいと書いてあった。


 俺は出掛け、門土の演奏を聴いた。

 ショパンの曲を数曲。

 サントリーホールで、新人としては異例の大々的なデビューだった。


 本当にいい演奏だった。

 門土のあの澄み切った音が、更に清冽さを増し、そこに橘弥生の情熱が加わりつつあった。


 プログラムで知ったが、門土は海外留学もし、本格的に学んでいたようだ。


 大きな拍手の中で、門土は素晴らしいデビューを飾った。

 俺も思い切り拍手を送った。



 最後の挨拶で、門土がマイクの前で語った。

 大勢の方々に来てもらったことへの礼。

 育て導いてくれた母・橘弥生への礼と感謝。

 そして


 「子どもの頃から互いに切磋琢磨した親友、石神高虎への深い感謝を! トラ! 来てくれているか!」

 会場がざわめいた。


 「お前に一番聞いて欲しかった! 西平貢の最後の弟子! トラ!」

 会場に拍手が沸いた。

 俺は泣きながら席を立った。


 家に帰って、明け方までギターを弾いた。

 門土のショパンに合わせて、必死で弾いた。





 

 その数年後、信じられない事件が起きた。

 俺は港区の大病院へ移り、毎日蓼科文学にしごかれている頃だ。


 門土はピアニストとして、確固たる評価を得つつあった。

 それを知るたび、俺も嬉しかった。

 初めて録音されたCDは100枚買ってみんなに配った。


 「凄い演奏なんだ! 絶対に聴いてくれな!」


 しかし、その門土がコンサート会場へ向かう途中で交通事故に遭った。


 前方からトラックに突っ込まれ、運悪く後部座席に座っていた門土に、フロントガラスの破片が大量に飛んだ。

 咄嗟に顔をかばおうとした門土の両手に、大量の破片が突き刺さった。


 門土は、二度とピアノが弾けなくなった。






 俺は門土の見舞いに行った。

 あの日、別れて以来の再会だった。


 「門土」

 「トラか」


 「久しぶりだな」

 「ああ」


 俺は見舞いの花を花瓶に活けた。


 「お前、まだ弾いてるか?」

 「ああ」

 

 「俺はもうダメだ」

 「門土……」


 「見てくれ、この指を。ズタズタだ」

 門土の指は何本か欠損し、残った指も何本か動かなかった。

 無残に腫れ上がり、変色していた。

 縫合の痕が痛々しい。


 「門土。お前の音楽の才能は凄いよ。だからこれからもピアノじゃなくて活躍するって」

 俺は門土に作曲家としての道を勧めた。

 必ず大成すると思っていた。


 「トラは優しいな。そうだな、そういう道も面白いかもな」

 「そうだぜ! お前なら絶対凄い曲を作るって!」


 門土は笑ってくれた。






 その二ヶ月後に、門土は自殺した。

 

 葬儀の後で、俺は橘弥生に自宅に呼ばれた。

 あの音楽室に通された。


 橘弥生が大きな封筒を持って来て、俺に渡した。


 「これ、門土が書いてたの」

 

 楽譜だった。


 「ギター用のものね」


 『Amici Eterni(永遠の友)』というタイトルだった。



 ブルーノートだった。



 「三流ね。私はいらないわ。あなたにあげる」


 そう言って橘弥生は後ろを向いた。


 「ありがとうございます」


 俺は頭を下げて部屋を出た。

 橘弥生が俺の後ろで言った。







 「あなたと、ずっと一緒にやらせれば良かった」


 震えた声だった。

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