第76話 挿話: たてしなぶんがくちゃん に

 蓼科文学は、いつも通りに愛車ダイムラー・ジャガーに乗って出勤していた。

 以前は国産車に乗っていたのだが、石神が院長らしい車に乗らなければダメだと言ってきた。

 ベンツやBMWなどを検討したが、石神がジャガーのカタログを持ってくる。


 「これなんかどうですか。V8エンジンで、恐らくジャガーでも最後のV8になりますよ」


 フロントがやけに長く、先端にジャガーが跳びかかっている。



 カッコイイな。



 文学は美しいグリーンのボディを選び、納車を待った。

 ちょっと楽しみだった。

 

 「院長、楽しみですね!」

 「うん!」


 納車の際には記念のプレートをもらった。

 石神の言うとおり、ジャガー最後のV8を記念してのものらしい。

 文学は非常に満足した。




 運転手は最初に勝手が違うので戸惑っていたが、慣れてからは快適だ。

 帰りに急こう配の江戸見坂を敢えて昇る。

 運転手はアクセルを踏み込んで昇る。

 「流石V8エンジンは凄いですね!」

 運転手がそう言うと、自分のことのように嬉しい。


 「石神先生の言う通りです! 院長、本当にいい車ですよ」

 「ああ。車のことで何かあったら、石神に相談するといい」

 「はい、分かりました!」


 一つ困ったのは、塗装が異常にデリケートで、運転手は洗車の業者に細心の注意でやらせています、と言っていた。

 鉛筆の芯ほどしか強度がないらしい。


 まあ、ささいなことだ。

 プロが洗車すれば、間違いもないだろう。



 車はスペイン大使館の前に差し掛かった。

 運転手は横断歩道を渡ろうとする通行人がいたので、一時停車する。

 運転手にはいつも、通行人の方がいたら先に渡らせるように言っている。

 こちらは車だ。

 歩く方は大変なのだから。


 何か、雨音が聞こえた。

 外は快晴だ。



 「アアァー!」



 突然運転手が叫ぶので、文学は身を乗り出す。


 「どうしたんだ!」

 「すいません、虫が降ってきたようでして」


 文学がフロントガラスを見ると、確かに小さな虫がたくさんついているようだ。

 しかし老眼のため、状況はよくわからない。

 病院はすぐそこだ。


 文学は出発するように言った。





 病院の駐車場で、文学は老眼鏡をかけ、車の状態を見る。


 「なんなんだ、これはぁー!


 車の長くて美しいフロントボディ、フロントウインドウ、それにルーフに大量の小さな毛虫がうごめいている。

 びっしりと車を覆っている。


 「すぐに払い落とせ!」

 「はい!」


 運転手は急いで後部のボンネットを開き、羽ばたきを二本取り出した。

 文学は後を任せ、院長室へ向かう。


 しばらくして、内線が鳴る。

 取ると駐車場の運転手からだった。


 「すみません。虫が塗装をかじってしまったようで、ディーラーに持ち込まなければならないようです」


 文学は眉に皺を寄せた。

 しばらくは、あの愛車ジャガーに乗れないのか。

 タクシーを捕まえるのは面倒だが、仕方がない。


 「分かった。宜しくたのむ」

 「はい。石神先生がすぐに手配して下さって、本当に助かりました」


 「おい、お前! 石神に知らせたのか?」

 「はい、院長が何か問題が起きたときには、石神先生を頼れとおっしゃっていましたので」




 「バカモノー!」




 「ああ、石神先生、院長から伝言があります」

 院長の秘書室から内線が石神にあった。


 「また院長室へ伺えばいいんですか?」

 「いいえ、院長は「今日は絶対に来るな」、とおっしゃっています」


 石神は悪魔のような笑みを浮かべた。




 院長室で、石神は散々大笑いし、文学はからかわれた。

 「ちゃんと、写真も撮りましたから!」

 

 「いやぁ、ディーラーも「そんなの聞いたことないですよ」って言ってましたよ」

 「さすが、類人猿の頂点に立つ院長は違う」

 「あ、なんか炎的なものって見えました?」

 「そうだ、吸気系にも結構入っちゃいましたから、修理は時間がかかりますって」

 「どうせ全体の塗装ですから、虎縞にでもしますか? 虫除けに」

 

 俺が無視をきめて黙っていると、散々言いたい放題言ってから、石神は出て行った。

 

 院長車の災難は、なぜか病院全体に広まった。

 しばらく、文学の顔を見ると、みんなが顔を伏せて笑っていた。


 「……」







 文学は、出勤のコースを変えた。

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