彼方なるハッピーエンド

野森ちえこ

第1話 幽霊とぼく

 本人たちはわりと深刻な悩みのつもりでいても、まわりから見れば『のろけ』以外のなにものでもないという、年中お花畑なカップルがいた。

 お互いのことが大好きすぎたふたりは、めったにケンカなどしなかったのだけれど、それでも長くつきあっていれば衝突することもそれなりにあった。そしてそのたびにこの世のおわりみたいな顔をしてはまわりの人間にうっとうしがられるということを繰り返していた。

 だからふたりの結婚がきまったとき、友人たちはみな思った。『やっとか』と。

 生ぬるく、ほほ笑ましく、時にうんざりしながらふたりを見守ってきた人々は心からふたりを祝福した。


 物語ならここでハッピーエンド。めでたしめでたしである。しかし現実の人生はそこではおわらないというのが世の常だ。むしろそこからがスタートだ。そのはず――だった。


「それが新婚旅行で事故にあった、と」

「はい。幸せの絶頂で死にました。いってみればこれもハッピーエンドですよね」


 いや、そこで同意をもとめられても。非常にうなずきにくい。


「それでぼくにどうしろと」

「べつに、どうもしなくていいですよ?」


 きょとんと首をかしげる女性の身体は透けている。世間一般でいうところの幽霊というやつである。


「質問を変えましょう。どうすれば成仏できますか?」

「わかりません」


 思わず天を仰いだ。マンションとは名ばかりの古ぼけたワンルーム。クロス貼りの天井はなにも教えてはくれない。


 ぼくは『見える』人間だ。そして見えるの人間だ。

 お祓いもできないし、成仏させることもできないし、特殊な能力などなにも持っていない。

 ほんとうに、ただ見えるだけだ。

 しかしこの『見えるだけ』というのはなかなかに厄介な力なのである。なにしろ、こちらが見えていることが相手にバレるとほぼ百パーセント絡まれる。だけならまだいいが、場合によっては襲われることもある。だから、ぼくはいつも見えていることが相手に気づかれないよう細心の注意をはらっている。

 ついでに、見えない人間には『うそつき』あつかいされたり、気味悪がられたりするので、やはりぼくが『見える人間』であることは気づかれないようにしている。

 そうして子どものころから長年磨いてきた、霊的な存在に対するぼくのスルースキルはなかなかのものだと自負している。

 ではこの状況はなんなのか。

 彼女とは道ばたで会ったわけではない。先ほどトイレに行って戻ってきたらそこに『いた』のである。避けようがない。せまい部屋のなかではスルーするにも限界がある。


 最初は出ていってくださいと頼んでみたのだけど、行くところがないと返された。

 幽霊が行くべきところはたぶんあの世だと思うのだけど、本人にも行きかたがわからないらしい。まあ、わかっていればそもそも幽霊になどなっていないのかもしれないが。

 ではなぜこの部屋にあらわれたのかと問えば、たまたまだという。

 最初はおなじマンションの空き部屋で悠々自適(?)に暮らしていたらしい。ところが先日、新しい入居者が引っ越してきた。彼女いわく『デリカシーのない野蛮人』なのだとか。ひとり暮らしにデリカシーもなにもないだろうと思ったけれど、ついでに見えもしない幽霊に対する配慮ってなんだとも思ったけれど、口にはださずにおいた。幽霊と口論してもいいことなどなにもない。


 ちなみに、彼女がこのマンションにきた理由は生前住んでいたことがあるから――ではないかと想像しているそうだ。

 ひとり暮らしをはじめてから二回ほど引っ越しをしていて、特にこのマンションに思い出があるというわけでもないというが、気がついたらマンションのまえに『いた』のだという。


「じゃあ、なにか心残りはありませんか」


 今度は聞きかたをすこし変えてみた。しかしなんだかひどく残酷な質問をしているような気がする。

 女性の年齢はよくわからないけれど、見たところたぶん現在のぼくと同年代。二十代なかばか、せいぜい後半。三十には届いていないだろうと思われる。

 心残りだらけだろう。だいたい新婚さんだったのだ。むしろ心残りしかないのではないだろうか。


「心残り、ですか。そうですねえ……」


 腕を組んで、うーんとうなりながら思いっきり首をかしげている。


「いちばんの心残りは死んじゃったことですが」


 まあそうだろうなと思う。


「しいていえば、小説が書きかけだったことですかね」

「え、作家だったんですか?」

「ち、ちがいますよう。趣味です趣味。ネットでね、誰にも内緒で書いてたんです」


 もじもじと恥ずかしそうにしている幽霊をうかつにもかわいいと思ってしまったぼくは、ちいさくかぶりを振る。

 聞けば、彼とのエピソードをフィクション仕立てにして連載していたのだという。書いているうちにどんどんたのしくなっていって、完全な創作短編なども書くようになっていたらしい。


 彼女の話を聞いているうちに、ぼくの背中は粟立ちはじめていた。


「あなたの、そのサイトでの名前は……?」


 口の中がカラカラにかわいて、声はみっともなくひび割れていた。


「りんねです」

「りんね……」

「はい。九分九厘とかの厘に音楽の音で厘音りんねって読みます」


 ――なんてこった。

 こんな偶然、あるのだろうか。


 厘音というウェブ作家を、ぼくはとてもよく知っていた。



     (つづく)

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