And to you(4)

 起床してリビングに入ってきた母と入れ替わるように、僕は家を出た。


 日の出の時間はとうに過ぎていたが、空には灰色の膜が満遍なく張られてあり、町は薄暗い。気力の抜けた両足をゆったりと進める。頭上の電線に並んでいるスズメの鳴き声や、真横を通り過ぎる車のエンジン音が随分と遠くから聞こえてくるような感覚がする。


 程なくして一つの坂道に辿り着く。重たい全身を動かし上り切ると、見慣れた門が姿を見せた。それはいつものように開放されていて、奥には色褪せた校舎が建っている。


 よかった、と心の中で呟きながら僕は歩を進めた。日曜日に学校を訪れたことは皆無に等しいので、八時を回っていたとはいえ開門されているか確信は無かった。管理棟に入る前にグラウンドを見ると野球部がウォーミングアップのためかランニングをしている姿が見え、門が開いている理由に得心する。


 僕が今日、ここに来た理由。それは昨日の帰り際の彩音との約束を果たすため。彼女のCDプレーヤーを回収しに来たのだ。


 わざわざ休日でなくて、明日登校した際でも良かったかもしれない。けれど僕は迷わず今日を選んだ。少しでも早く、少しでも長く、例えどれだけ小さな欠片であったとしても、彩音の存在に、彼女との記憶に触れていたいと思った。


 職員室には平日の三割程度の教員しかいなかった。当然だが、部活動の監督や急ぎの業務が無い人間は休みなのだろう。入口の一番近くにいた教員に断りを入れて自分のクラスの教室の鍵を借りる。部活も補習も無い生徒が日曜日に学校へ訪れたことに少し不思議そうな表情を浮かべていたが、「忘れ物を取りに来た」と答えると、教員はさほど興味無さそうに相槌を打ち、会話は終わった。


 僕は鍵を握りしめながら教室へ向かう。鍵山の凹凸が皮膚に食い込んで手のひらに痛みが走っていたが、そんなことはどうでもよく感じた。きっと彩音は、僕が想像しえない苦痛に体を蝕まれている。何も悪いことをしていない彼女が、理由もなく苦しめられている。そんな世界の不平等さを僕は呪っていた。そして、せめて僕自身も体に痛みを感じることで、その不平等さに抵抗したいと、訳の分からない自己完結の思いを抱いていた。


 教室に辿り着き扉を開く。休日の静寂に包まれた教室に新鮮さを感じながら、僕は真っすぐに彩音の机の傍に近づく。この引き出しの中にCDプレーヤーが入ったままになっていると言っていた。中を覗くのはなんとなく気が引けたため、手だけを突っ込んで探ってみる。すると直ぐに冷ややかな質感の円盤を掴むことができた。引き出すと瑠璃色に色取られたプレーヤーと、そこから伸びるイヤホンが現れる。


 僕はそれを机の上に置く。彩音の輪郭をなぞるような気持ちで上蓋をそっと撫でながら、彼女との時間に思いを巡らす。すると、頭の中に浮かんでくる光景は、既に過去の記憶だけになっていた。どうやって想像しても、彼女と過ごす未来が思い描けない。


 高校の卒業式。大学への通学路。仕事に忙殺される日々。久しぶりの旧友との会遇。「あの頃はよかった」と現在の生活の愚痴を言い合う時。桜を見ながら、蝉の音を聞きながら歩く道。秋の木漏れ日や冬の新雪に心を躍らせる瞬間。そのどこにも彼女の姿は見つからなかった。許容できない悲しみが両目の奥深くから滲みそうになる。


 その時、廊下から足音が聞こえた。それは迷いなくこちらに近づいてきていることが分かる。僕という人間がこの場にいることを確信しているような足取りに聞こえた。今となっては懐かしいデジャヴだ。


 間も無くして教室の扉に現れたのは、いつもの服装に身を包んだ笹崎だった。


「……おう」


 彼は僕の姿を認めると、少し悲痛そうな面持ちで呟く。僕は表情を隠すようにわざとらしく頭を下げて挨拶をする。顔が床を向いている間に強く瞼を閉じ、感情を抑え込んだ。視線を戻し笹崎を見ると、彼は一瞬目を逸らして聞いてきた。


「……石川のところに行ったか?」


 そこに続く言葉が彼の瞳の内にはあった。『彼女の容態を実際に見てきたのか』、『その深刻さが理解できたか』、『彼女と離別する覚悟はできたのか』、と。しかし僕は、彼が口にした部分だけに対して弱々しく頷く。笹崎は決まりが悪そうに「そうか」と言った。


「……改めて、あいつの病気のことを黙っていて悪かった」


「……いえ……そんな」


 思わず漏れそうになった嗚咽を慎重に飲み込んで、僕は答える。


「彩音が頼み込んだことでしょうし……笹崎先生は何も悪くないです」


 色々な感情を悟られないようにと、努めて声の抑揚を無くして。


 それでも笹崎はやはり申し訳なさそうに唇を結んだ。しかし次の瞬間、少し驚いたように目の形を変えて僕の手元を見た。


「そのCDプレーヤー」


 漏れ出たその声は、まるで故郷の風景を懐かしむような情感を纏っていた。


「そうか……今は、彩音ちゃんが持ってたんだな……」


 そうか、と僕は思う。このCDプレーヤーは、元は彩音の父親が、つまりソニアのユウキが使っていた物。元バンドメンバーであり旧友の笹崎はもちろんこれを知っていて、彼にとっては思い出の品のような感覚なのだろう。


 笹崎は物寂しそうな苦笑を浮かべた後、一度ゆっくりと瞬きをする。そして何か吹っ切れたように言葉を続けた。


「篠宮」と、真っ直ぐな視線を僕に向けてくる。


「伝えたい事は、ちゃんと今のうちに全部伝えておけよ」


 強い説得力を持ったその声色に僕は少したじろぐ。その助言のようなものが、誰から誰に対してのものなのかは言わなくても分かる。だからこそ僕は反射的に、一つの質問を返してしまった。


「先生は」


 失礼な質問かもしれないが、止めることはできなかった。


「何か言い残したことがあったんですか?」


 それが誰に対しての事なのか彼は直ぐに分かったようだった。そして次に見せた表情から、その答えは明確で、かつその答えに憂いが混じっていることを、僕は理解できた。


「すいません……変なこと聞いて」


 僕が焦って謝ると、笹崎は軽く笑って首を横に振った。


「いや、いいんだ。別に怒ってるわけじゃない」


 すると彼は教室の窓外に視線をずらして、「大したことじゃないさ」と語り始めた。


「俺たちのバンド……ソニアはさ、高校生の時に結成したんだけど、最初は優希が俺を誘ってきたのが始まりだったんだよ。あいつは昔からギターを弾くのが大好きで、バンドを組んで演奏することに憧れてたらしくて」


 言葉を続ける彼の顔には郷愁の念が映されている。


「まあ俺も趣味でギター弾いてたけど、バンドを組もうとも、プロになろうなんて思ったことも一度も無かった……その時は他に夢があったしな」


「……その、夢っていうのは」


 現在進行形で将来を思い悩んでいる僕は、つい気になって口を挟む。すると笹崎は、まるで少年のように悪戯っぽく白い歯を覗かせて答えた。


「学校の教師だ」


 僕は思わず目を丸くする。なるほど、最終的に今は夢を叶えたというわけだ。


 笹崎は微笑したまま続ける。


「けど結局、優希の押しの強さに負けて一緒にバンドを組んで、そこから他の二人も加入して本格的に活動を始めたんだ……そしたらこれが楽しくてさ。音楽に触れることでしか知ることのできない感情があるって知ったよ。そんでいつの間にか、俺はメンバーとずっと音楽を続けていきたいと思うようになってた。俺たちの音楽で少しでも多くの人を楽しませることができたら、それはどれ程の喜びだろうと想像するようになってた」


 それは今の僕にも共感できる思いだった。バンドを組んで活動していくことで知り得た、感情の輝きだ。


「……そこからはまあ、お前も知ってるかもだけど、色々と運も良くて、デビューして、それなりに人気も出て活動していったわけなんだが……」


 そこで笹崎は言葉を止めて頭を掻いた。一度呼吸を置いて言う。


「……さっき、俺が将来教員になることを目指していたって言ったろ。優希とは小学生の頃からの付き合いだったから、昔からあいつはそれを知ってたんだ。だから……これは優希が亡くなった後で他のメンバーから聞いた話なんだけど、あいつは俺が無理してバンドに付き合ってくれてたんじゃないかと思ってたらしい。自分のせいで夢を諦めさせてしまったんじゃないかって。もしそうだとしたら申し訳ないことをしたと心配してたらしいんだ」


 その割には強引に俺を引きずり込んできたけどな、と呆れるように小さく笑う。


「実際はさっき言った通り、俺の意志で音楽の道を選んだわけなんだけど……もちろんあいつが亡くなった後でそれを伝えることなんてできなかった。だから俺はそれを後悔してるんだ。最後にあいつの不安の芽みたいなものを一つでも摘んでやることができたらよかったのにって」


 その時、笹崎の声がほんの少しだけ震えたような気がした。


「だから」


 しかし、それは気のせいだったかと感じるほど、彼は決然とした声で、最後に改めて言った。


「もし何か石川に言い逃してるようなことがあるなら、今のうちに伝えておけよ」


 僕は彼の、その目から視線を外すことができなかった。過去に大きな喪失を経験し、その先にある未来を懸命に生き、そして自分の後悔を僕が繰り返さないようにと思ってくれている、その瞳の内にある、強い芯を持った笹崎宏人という人間から。


 彼が語ってくれた過去を聞いて、僕の胸中では多くの言葉や感情が渦巻いていた。その中からどれを掬い出すべきなのかは、まだ判然とはしない。いや、答えは見つかったのかもしれない。あとは僕が覚悟を決めるだけだ。それはこの後に考えることにしよう。


 とりあえず、今は――


「先生」


 この言葉を、彼に伝えようと思った。


 今、目の前にいる笹崎に。


 そして、少しの間だけ面影を見せた、ヒロトという彼の過去に、その言葉を伝ようと。


「ありがとうございます」


 僕が今、すべきことを教えてくれて。


 僕と彼女が出会うきっかけを、音楽を、生んでくれて。

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