そして音楽は続く(2)

「篠宮、修志くん?」


 通夜が終わり、線香の匂いが漂う会場を後にしようとした時に、その声は背後からかけられた。一度だけしか聞いたことがなかったが、印象深く頭に刻まれていた声だった。振り返るとそこには彩音の母が立っていた。


「はい」と、僕は小さく答える。僕の名前と顔が一致したのは、彩音から何か聞いていたからだろう。


「……そう」


 彼女は消え入りそうな声で呟いて、目を細めた。


 相変わらず、彩音との繋がりを感じさせない様相だと思った。先日病院で対面した時よりも、一層憂いが滲んでいるように見える。受け入れられない現実に呆然とするしかないのかもしれない。僕がそうであるなら、肉親の彼女は尚更だろう。


「……これ、なんだけどね」


 彩音の母親は弱々しい声色のまま、片手を差し出す。何だろうかと目を向けると、その手には純白の封筒があった。


「彩音から手紙を預かったの。あなたに渡して欲しいって」


 思いがけない出来事に言葉を失う。喪服に重なる白色は、重苦しい空間からは浮いて見えた。僕は口を閉じたまま、それを受け取る。


 とても複雑な気持ちだった。彩音の言葉が書いているであろう便箋を送られる嬉しさ。しかし同時に、彼女の死を認めてしまう苦しさ。手に取った封筒を見つめながら感情の行き場を探す。


「……ありがとうね。あの子と仲良くしてくれて」


 立ち尽くしていると、彩音の母親がそう言葉をかけてきた。その面持ちはどこか辛そうに萎れたままだ。そして彼女は「それじゃあ」と、振り返って僕の前から去ろうとする。


 駄目だ、と僕は心の中で呟いた。このまま別れては駄目だ、と。


「――あの」


 次の瞬間、僕は反射的に彼女を呼び止めていた。彩音の母は少し不可解そうな表情を浮かべて、もう一度こちらに向き直る。


 ここで別れたら、彩音の母と会える機会はもう無いかもしれない。だから、今、言っておかなければならない。


「彩音は、音楽と共にある人生を生きることができて、とても幸せだったと思います」


 それだけは、絶対に伝えておきたかった。もしその想いが母親に届かなければ、彩音の音楽の全てが否定されるような気がしたのだ。


 伝えたところで彩音の母親は到底そんな風に思うことはできないのかもしれない。けれど彩音自身が口にしたことであり、共に音楽を奏でた僕も偽りなくそう感じていた。


 何と言葉を返してくるだろうか。僕は毅然と放ったにも関わらず、つい身構えてしまっていた。娘を亡くしたという不安定な心境で、赤の他人から不用意な台詞を投げかけられる。もしかすると気に障ったかもしれないと思った。


「――そうね」


 しかし、次に彩音の母がこぼしたのは想定外の一言だった。


「聴かせてもらったわよ、あなたたちが作ったアルバム」


「えっ」


 思わず間の抜けた声を漏らして目を丸くしてしまう。意外だった。僕たちのアルバムを聴いていたことがではなく、それをこの場で口にすることが。


「どれも良い曲だった。あの子が書いた曲から、あなたたちの演奏から、十分伝わってきたわ」


 そして彼女は、何か重荷を捨てたように、少し声を軽くして言った。


「ありがとう。彩音の人生を彩ってくれて」


 そうして彼女が見せた微笑みには、少しだけ、彩音の面影を感じた。

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