And to you(7)

 修志くんが帰る頃には、窓の外は完全に夜の帳が下りていた。暗い町の片隅にある静かな病室に一人残されると、底の深い孤独感に襲われる。行き場の無いその不安で乱れそうな呼吸を落ち着かせるように、手に持ったCDプレーヤーを撫でた。


 大丈夫。私にはこの音楽がある。


 心の中で呟いて、CDプレーヤーから伸びるイヤホンを両耳につけた。静寂がより深くなる。そして私は本体の側面にある再生ボタンを押した。


 数秒の間を置いた後で一トラック目が流れ始め、私の世界は音で満たされていく。


 軽快なビートを朗々と弾き出すドラム。リズムに膨よかな厚みを持たせて心地良いグルーヴを生むベース。華やかな和音で曲の輪郭を明瞭にするサイドギター。メロディが放つ輝きに彩りを加えていくリードギター。


 そうして作り上げられた旋律の上に、虚飾の無い真っ直ぐな感情を込めるような修志くんの歌声が響き渡る。目の前で穏やかな春風が吹いたような気配を感じて、気が付けば自然と頬が緩んでいた。


 そのまま私は順番に全ての曲を聴いていった。それは思い出を巡っていくような感覚にも似ていた。目を閉じてそれぞれの音を耳にする度、曲を作った時に胸に感じていた気持ちや、みんなで演奏した時の情景が瞼の裏に蘇ってくる。


 音楽は人の記憶と寄り添うように心に刻まれる。そして輝き続けると、私は思う。


 五線譜は移り変わっていき、瞬く間に最後の曲に行き着いた。私のギターソロから始まって、そこから三人の音が追って重なる。鮮やかな音色で飾られる、私の人生と音楽が全て詰まった旋律。


 この『special thanks』は、私にとって誇りであり、宝物のような曲だ。最後のフレーズが完成した時のことはよく覚えている。奏原公園で偶然修志くんと出会った、あの夜だ。


 真っ暗闇の中を進むような人生への恐怖に怯えていた私に、彼は言ってくれた。


 私の音楽を大切だと、私の音楽をいつまでも忘れないと。


 その一言で、全ての不安が消えた気がした。例え私が明日この世からいなくなったとしても、私をいつまでも心に留めていてくれる人がいる。私の曲を好きでい続けてくれる人がいる。それだけで私の音楽は間違っていなかったと思える。自分の音楽が誰かの特別になれたなら、私は幸せだ。それが自分にとって特別な人なら尚更。


 壮大なエピローグを綴るようなアウトロが響いて、五線譜は終わりを告げた。穏やかな弦の余韻が鼓膜と心を揺らす。長い旅路の果てで美しい夕焼けを目の当たりにしたような、少しの高揚と感傷が全身を駆け巡る。


 こうして聴くと、また自分の手で音を奏でたくなってくる。病院にギターを持ってきてもらって演奏することはさすがに無理なので今は我慢するしかない。


 持て余してしまうこの欲求を発散させるためにもう一度最初から聴こう。そう思いながらCDがリピートされるのを待つ。


 しかし、一向にトラックは最後の数字から動かない。おかしいな、と私は一人首を傾げた。レコーディングした時に、曲間は長くても三秒程度に設定している。ここまでトラックが移らないことはない筈だ。上蓋越しに内部を見ても、ディスクはちゃんと回り続けている。もしかして記録面に埃がついて変に音飛びしているのだろうか。


 そう思い、停止ボタンを押そうとした、その時だった。


 ガサッ、と何か衣ずれのような音がイヤホンから漏れた。予期せぬ出来事に私は反射的に手を止める。何事かと考えていると、すぐに次の音が発された。


『――あ、もうこれ録音始まってるな』


 突然聞き覚えのある声が耳に入る。私は思わず大きく目を見開いた。


『そうみたいだね。青木さんも合図出してくれてるし』


『だな、二人共準備は出来てるか?』


 続けて別の声も二つ聞こえる。問いかけに先の二人は軽く答える。


 ――これは、三人の声だ。


 喫驚しながらも、私は確信を持って胸中で呟いた。


 中性的で涼やかな御堂くんの声。低くて少し気怠げな土田くんの声。そして穏やかで優しい、わけもなく安心する修志くんの声。


 なんでみんなの話し声がこのCDに録音されているんだろう。何かの手違いだろうか。いや、レコーディングを終えて私が持ち帰った分にはこんな音声は入っていなかった。家にいた時に何度もリピートしていたから間違いない。


 つまり、今再生しているこのディスクは、CDプレーヤーを持ってきた修志くんが意図的に入れ替えたものということか。


『よし、じゃあやるか』


 一つひとつ思考の糸をよっていると、その隙間に修志くんの声が響いた。


『うん。あ、そういえば』と、御堂くんが返す。


『これ、曲名は決まってるのかい?』


 その言葉に、私の頭の中には再びクエスチョンマークが浮かぶ。曲名とは何のことだろう。


『あー、うーん、そうだなあ……じゃあ――』


 混乱する私をよそに、修志くんは答えた。


『「And to you」で』


 それは、とても大切な感情が込められているように澄んだ声だった。


『単純過ぎだろ』


 間髪入れずに土田くんがダメ出しを入れる。うるせえ、と修志くんがこぼした後に、愉快げな三人の声が小さく聞こえた。


『よし、それじゃあ――』


 数秒の間が空いた後で、修志くんが改めて言った。


『始めよう』


 そう言って、深呼吸をする光景がありありと脳裏に過ぎる。


 そして次の瞬間、三つの音色が同時に鳴って、一筋の旋律が響き始めた。

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