And to you(2)

『そういえば、今度CDプレーヤー持ってきてくれない? 文化祭の日に教室の机の中に入れて、そのままになっちゃっててさ』


 歩きながら、病室を出る際に彩音から頼まれたことを思い出す。


「分かった」と返事をして扉を開けると、ちょうどそこには一人の女性が立っていた。それが誰なのかはすぐに分からなかった。軽く挨拶をしながら廊下へ出ると、女性は無愛想な声で「どうも」と、一言だけ返して扉を閉めた。その目は、背筋が凍り付きそうなほど冷ややかな色をしていて、僕を拒絶する気配すら感じた。


 その表情のせいで余計に思い至れなかったが、次の瞬間に扉越しに聞こえた彩音の声で女性の正体を知ることができた。


「お母さん」


 彼女が、彩音の母親か。


 誰もいない廊下で、僕はひとり目を丸くした。失礼だが、到底親子には見えなかった。顔立ちも、身に纏う空気感も、声色も、彩音とは正反対の位置にあるように思えた。彩音が父親譲りの娘ということなのか、それとも今の状況が彩音の母親を変えてしまったのだろうか。


 病棟を出てバス停に着くと、ちょうどバスがやってきた。乗客は片手で数えるほどしかいない。後方の座席に腰をかけると、程なくしてバスは進み始めた。窓外の景色がゆっくりと流れていく。病棟の姿が無くなり、視界には一面に田んぼと山々が映る。緑の褪せた草木が寒風に吹かれて心細そうに揺れている。日没が近づいた空は東から滑らかな紺色が押し寄せてきていた。


 窓に頭を軽く預けて夕暮れの町を眺めながら、僕は病室での会話を思い返して様々な情報を整理しようとする。しかし、どれだけ思考を進めようとしても、一つの事実だけが脳内で延々と反芻される。


 彩音が病気を患っていて、残された時間は長くない。


 一瞬でも気を緩めたら、こうして無表情のまま座席に座っていることもままならなくなるような深い悲哀が体中を巡っていく。


 自分はどこにでもいるただの高校二年生。そんな当たり前のことが、酷く憎たらしく感じた。


 彩音もまた、僕と同じただの高校二年生なのだ。人一倍音楽が好きで、非凡な演奏技術を持っていたとしても、どこにでもいる普通の少女なのだ。


 それなのに、僕は漠然とした将来を思い悩むことができて、彼女にはそれができない。好きな曲を聴いて、ギターを弾いて、それを仕事にして人生を歩むことを選び、沢山の人を音で楽しませる。そんな将来を、思い描くことすら許されない。


 理不尽な現実への怒りと、彼女がいないかもしれない未来への恐怖が綯い交ぜになって、心が歪んでいく。


「ねえ、お父さん」


 ふと、前方の席に座る親子の話し声が聞こえてきた。


「お母さん、来月には退院できるって言ってたよね?」


「そうだな。リハビリも順調みたいだし。よし、お母さんが家に帰ってきたら盛大にお祝いしようか。お母さんが好きな物も用意して、ケーキとかもホールで用意したりしてな」


「うん! 僕もお部屋の飾り付けとか色々作ってみる!」


 嬉しそうに声を華やがせる子を、あまり大声を出してはいけないと父親は窘める。しかし注意の言葉を吐くその声にも、小さな幸福が滲んでいるような穏やかさがあった。


 僕は歯をきつく食いしばり、足元に視線を落としていた。そして、その場で舌打ちをしそうになっている自分に気付き、強い自己嫌悪に襲われた。こんなに小さな子供の無邪気な喜びを祝福することもできず、それどころか憤りさえ覚えてしまう自らの醜悪さが忌まわしかった。


 この世界に訪れる全ての幸せが、共存することはできない。そんな常識とも言える事実を、今の僕は受け入れることができなかった。


 バスはそのまま、全ての客を平等に、目的地へと運んでいった。

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