8章 And to you

And to you(1)

 バスを降りた途端、強い冷気を帯びた空気が肌に張り付いてきた。想像以上の寒さと、拭えない不安に身を震わせながら少し歩を進めると、山の麓に佇む角ばった建物が見えてくる。自分の体とは思えないほどの重量を持った両足を動かし、その目の前に辿り着く。それは、酷く恐ろしい存在のように僕の目に映った。


 玖賀野町の外れにある総合病院。今、ここに、彩音がいる。


 全く信じられない。信じたくもない。


 しかし、頭でそう唱える度に、落ち着いた笹崎の声が蘇ってくる。


「彩音ちゃん……石川が昔、交通事故に遭った事は知っているだろ?」


 文化祭のライブ後、訳もわからぬまま教室で待機していた僕たちの前に、事を済ませた笹崎は神妙な面持ちで現れた。


「義手をつける理由にもなった事故のことだ。その時に相当な量の出血があったみたいで……そこで輸血を受けたらしいんだが――」


 その輸血が原因で血液の病に冒されている。笹崎はそう語った。彼は慎重に言葉を選び、その核にある事実を悟られないように注意を払っていたが、しかしそんな言葉の中からでも彩音の症状が重篤であることは理解できてしまった。もう取り繕うことができない段階まできていると言うかのように。


 それでも何かしらの理由を付けて、僕はそれを信じないようにしていた。趣味の悪い冗談だろう。冗談でなくても、ライブで少し無理をしただけで、少し療養すればすぐに退院することができるだろう。あんなに眩しいほどの活気に満ち溢れて毎日を過ごしていた彼女が重い病など患っている筈がない。


 切実な願望に支えられた一筋の光を胸に置きながら、僕は病棟へと入る。


 窓口で病室の位置を教えてもらい、そのまま足を進める。自身で尋ねておきながら、彼女の名前に対して平然と応対する看護師がとても厭わしく感じた。


 病棟内は暖房が効いているが、体の強張りが一向に消えない。体の底から寒気が湧き出ているというのに肌には汗が滲む。焦燥が浸透した両足は歩幅が安定しない。


 病院独特の深い静寂が僕の憂いをより一層濃くさせる。必要以上に広い廊下も、ガラス戸から見える庭に佇む寂しげな草木も、潔癖を感じさせる空間の匂いも、全てが僕に不安を投げつけてくるかのように思えた。


 病棟の中央に着き、エレベーターに乗り込む。中には、点滴スタンドを片手に持つ中年男性や包帯が巻かれた右腕を肩に吊るす青年、少し体を震わせる老婆などがいた。 


 この建物の中で毎日何人かの人間が生まれ、そしてそれと同じか、それ以上の人間が亡くなっていく。突然、その現実が脳裏を過ぎり、無意識に呼吸が震えた。


 目的の階でエレベーターを降り、森閑とした廊下を歩くと、すぐに教えられた病室の前に辿り着いた。扉の横を見ると、確かに彼女の名前が記された名札が掲げられている。


 僕は扉を軽くノックした。


「――はい」


 数秒の間があった後に、室内から小さな返事が聞こえた。彼女の声だ。扉越しのせいか普段に比べてその輪郭は儚げに感じる。


 一度呼吸を置いて、静かに扉を開いた。


 室内は廊下よりも更に静けさが深い。テレビの電源は切られてあり、廊下から看護師や患者の声も聞こえず、窓外の音も入ってこない。エアコンの音の下に、純白の布に覆われたベッドがあるだけだった。


 僅かに開いているカーテンの傍に寄って、その中にいる彩音の姿を窺う。


「……あ」


 吐息のように漏れ出た彼女の声を耳にした僕は言葉を失った。胸の奥底にポッカリと深さの分からない真っ黒な穴が開いたよう感覚がした。


 そこには、次に眠りにつけば二度と目を開かないのではないかと思うほど憔悴した彩音が横たわっていた。顔はやつれ、かつて無邪気な輝きを湛えていた瞳は淡い光を残しているだけだ。


「修志くん」


 彼女は名前を呼んで嬉しそうに目を細める。しかしその微笑みにいつものような爛漫さはない。枯れる直前の花弁が懸命に形を保っている状態と一緒だ。


「……笹崎先生に話は聞いた?」


「……ああ」


 弱々しい彼女の問いに、無理やり声を絞り出して答える。笹崎が語った内容が事実で、それが全てだということも体感できてしまっている。


 しかし一つ、聞かなければならないことがあった。僕は堪え切れず、間髪入れずに言葉を吐き出す。


「どうして、言ってくれなかったんだ?」


 もしかしたら、と僕は思う。彼女の容態を知り、ライブやレコーディングを止めることができていれば、この結果は待っていなかったのではないか。音楽活動よりも治療に専念していれば、少しでも病状を快方に向かわせることができたのではないか。今となっては変えようのない過去だが、どうしてもそう考えてしまう。


「――だって」と、彩音は悪戯っぽく微かに表情を変えて答えた。


「もし病気だって言ったら、きっと君は私の体を気遣って、バンド活動を止めようとしたでしょ? 修志くん、優しいから」


 その言葉に思わず口を噤んでしまった。やっぱり、と言わんばかりに彼女は小さく笑う。


「まあ、とりあえず座ってよ」


 何も言い返せずにいると、彩音はベッドの横に置かれた椅子に目をやって促してきた。僕は軽く頷いて腰掛ける。彼女から何かを語ろうとする気配が感じ取れた。俯きたい気持ちを我慢して、彼女の顔をじっと見つめる。


「もう知ってると思うけど」と、彩音は前置きをして静かに言葉を並べ始めた。


「例の交通事故の時にね、結構出血が多かったから輸血を受けたんだ。その影響で、ちょっと、血液の病気に罹っちゃってるの」


 笹崎から聞いた内容そのままが、彩音の声で語られる。かろうじて残っていた望みが失せ、暗澹とした感情が僕の胸中で明確な形を持っていく。


「それが分かったのは事故の後、少し時間が経ってからだった。義手になったとはいえ、それ以外は特に体に異常もなく元気だったから、病気だって初めて判明した時は流石にショックだったよ」


 まるで、今は気にしていないような口ぶりだった。


「余命なんて明確なものは無かったけど、でも高校に入学した時にはもう何となく感じてたの。そんなに長くは保たないだろうなって」


 それからだよ、と彼女はほんの少し寂しそうに視線を布団に落とした。


「病気の事が分かってから、お母さんは音楽を避け始めたんだ。私がギターを弾いてたら止めるようになったし、自分でもまったく曲を聞いたりしなくなった。『音楽は人を不幸にする』って言ってね。きっと、音楽が好きだった私やお父さんが揃って病気になっちゃったからだろうけど……音楽と病気に、直接関係があるわけないのにね」


 そして彩音は目を窄めて、とても丁寧に、強かな思いを乗せて言う。


「だから、私はお母さんに伝えようと思った。音楽が人を不幸にさせることなんて、絶対にないって。私は音楽と出会えて、音楽と共にある人生を生きることができて、幸せだったって、伝えたかった」


 僕は黙したまま、彼女の声に耳を傾けていた。その言葉を聞くことで、頭の中の様々な点と点が線で繋がっていく。


 なぜ『生きた証を残す』という理由でアルバムを作ろうとしたのか。それに対して、なぜ今という時間に強い固執を見せたのか。なぜあれほどの技術と意志を持っていながら音楽に関わる将来を選ぶことができなかったのか。なぜ『音楽が人を不幸にさせることがあってはいけない』と、意地を通していたのか。


 今なら、全て理解できてしまう。


 自分で曲を書いて、それを母親に聴いてもらって、伝えたかったのだ。どんな人生を過ごしたとしても、自分は音楽と共に生きることができて幸せだったと。音楽のおかげで幸せだったと、伝えたかったのだ。果たして彼女の音は母親に届いたのだろうか。


「……怒ってる?」


 ふと、彩音が僕の顔を窺うように声を漏らす。


「……何がだよ?」


「いや、病気を内緒にしてたことをさ」


「別に……怒ってないけど」


「……そっか」


 彼女はどこか申し訳なさそうに息を漏らす。


 僕の答えは決して偽りではなかった。彩音に対して怒っていることはない。彼女が誇りと意思を持って決断した選択肢ならば、それが間違いだったとしても、反対することがあったとしても、その結果を咎めることはできないと思う。


 だがそれ以外の全てに、僕は怒りを覚えていた。


 交通事故を起こした運転手。冒された血液を輸血した手術医。その血液を善意の献血で差し出した人間。彼女の病を治療することのできない医者。彩音の不運に理由を作りだして彼女の音楽を拒絶する母親。そして今、目の前の彼女に対して何もすることのできない、病から救う何かを与えることのできない自分に、怒りを覚えていた。


 胸の底へ溶けた鉛の雫が落ちたかのように全身に重たい不快感が染み出していく。喉の奥が苦しく締め付けられる。怒りを、嘆きを、やるせなさを吐き出したくとも、その方法も行き場も皆目見当がつかない。


 なぜ何の罪も犯していない彼女がこんな不運に見舞われなければならないのか。なぜこんな理不尽な現実を突きつけられなければいけないのか。どうして平穏な将来を歩むことすら許されないのか。どうして不幸が待ち構える選択肢だけしか与えられないのか。どうして――


「――でもさ」


 収拾がつかない思考に支配されていた脳裏に、ふと、穏やかな彩音の声が響いた。それはいつも通りの柔らかさに包まれていて、波立っていた僕の心がふっと凪ぐ。


「でも」と、彼女は改めて口にして頬を緩めた。


「もし今日までの全部が今に繋がってるなら、やっぱり私は幸せだよ」


 そう言って、右手を顔先に掲げる。


「交通事故に遭ったことも、そのせいで義手になったことも、病気になったことも。その人生があったからこそ、修志くんと出会えて、御堂くんと土田くんに出会えて、バンドを組んで音楽ができたって言うなら、私は、その全部を愛しく思えるよ」


 彼女の言葉には真っ直ぐな感情が込められていた。不運を正当化しているようにも聞こえるが、それが強がった嘘ではないことは確かに伝わってくる。


 僕は沈黙を保ったまま、冷たく光る彼女の右手を見つめることしかできなかった。

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