ありふれた奇跡の終着点(8)

 その曲は、彩音のギターから始まる。潤いに満ちたピアノの音にも似た繊細な音色を彼女は優美に響かせる。そして穏やかな弦の震えで道が開かれたところで、追って僕と圭一と悠人が同時に音を鳴らす。それぞれの音が綺麗に交錯し、結ばれて、一つの旋律となる。


 彩音が作る曲らしくどこまでも屈託の無い情調が溢れるメロディ。しかし、どこか心地良い哀愁を帯びた儚さも纏っている。出会いがあれば別れがあるように、光が差せば影ができるように、相反する感情が絶妙に重なる。彼女の中を巡る万感が余すことなく込められた音符を僕たちは辿っていく。


 そんな音の波に綴る言葉は、今日までの道のりと、そこで出会った人たち、そして巡り会った全ての音に捧げる特別な感謝。


『special thanks』


 演奏を続けながら、僕の頭の中では一冊のアルバムをめくるように、この春からの日々が思い起こされていた。


 屋上での彩音との出会い。バンドメンバーの勧誘に腐心する毎日。奏原公園で彩音が作った曲を初めて聴いたこと。彼女の父親がソニアのユウキだと知らされた時の衝撃。


 圭一の加入と、二人でのセッション。悠人が見せた拒絶の視線。スタジオでの青木の鷹揚な佇まい。笹崎のお節介と、悠人の加入。初めて四人で音を合わせた瞬間の感動。


 絶望に満ちたスランプ。そこから救い出してくれた彩音の言葉。進路を見出せずに悩む毎日。夜空の下で彩音が響かせた美しいギターの音色。彼女を想いながら奏でた旋律。


 そしてその中に、新たなページとして、今この瞬間が刻まれていく。掻き消されない、拭うことのできない、大切な彩りを放つ記憶として刻まれていく。


 見えている光景も、聞こえている音も、指先の感触も、空気に漂う熱や匂いも、自分の僅かな息遣いですら、一生頭の片隅に残り続けるであろう感覚。


 何年、何十年、例えどれだけの年月が過ぎ去ったとしても、仮にどんな人生が待っていようとも、きっとこの時間だけは絶対に忘れることはなく、いつでも克明に思い出すことができると、そう言い切れる。春になれば桜の花が開き、冬になれば空気が冷たくなる、そんな世界の形と同様に、いつだってこの音楽は僕の傍に存在し続けるのだ。


 壮大な旅の終わりを迎えるように五線譜は続く。いくつもの音を奏でてきた日々の軌跡を振り返ると共に、その最後を祝福するような、惜しむような音色が繋がっていく。


 必ずまた、このメンバーで音楽を響かせよう。


 心の奥に芽生えた確かな思いを握り締めながら、最後の歌詞を音に乗せた。


 アウトロを弾きながら、僕はそっと彩音の方に顔を向ける。この音の最後の瞬間に、彼女の姿を目に留めておきたいと思った。


 彩音はただただ幸福そうに笑ったままギターを奏でていた。その場で飛び跳ねそうなほど溌剌と弦を弾き、音を紡いでいる。左手が指板の上で踊る。右手の光沢が上下に揺れる。柔らかな質感の髪がふわりと靡く。その音に、その姿に、僕の心は温もりで満たされていく。


 間も無く旋律が終わる。


 彩音は満面に幸福を湛えたまま、最後の一音を鳴らした。そして、次の瞬間、


「――え」


 ストン、と僕の視界から彼女の姿が無くなった。


 直後、何かが破裂するような衝撃音がアンプから吐き出される。それはギターの弦が硬質な床に強く擦れた音だったと、僕は視線を落としてすぐに気づく。


 彩音がギターを手にしたまま、前のめりに倒れていた。


 会場を切り裂いた耳を塞ぎたくなるほどの轟音は緩やかに消える。そして目の前に残ったのは呆然に染まった静寂だけだった。


 演奏が終わったというのに、先ほどまでのような歓声は上がらない。僕も圭一も悠人も、音を作り出していた両手を止めて硬直していた。


 唐突に照明が消えたように、舞台の幕が閉じたように、長い夢から醒めたように、一瞬で変わった眼前の景色に、誰もが言葉を無くしている。


 ――何が、起きたのだろう。


 思考が追いつかないまま立ち尽くしていると、ステージの袖から何人かの教員が飛び出してきて、倒れたままの彩音に駆け寄った。その中には笹崎の姿もある。そのまま教員たちは焦るような語勢で彩音に声をかけ、肩を貸して彼女を立ち上がらせようとする。驚くほど機敏なその動きは、僕たちの知らない何かを知っている動きだった。


 教員たちに弱々しく応じる彩音の体は糸の切れた傀儡のように力が抜け落ちている。肩で息をしているその様子は、ライブでの疲労を訴えている風ではなく、全身を蝕む深刻な何かに必死に抵抗しているように見えた。


 楽しい時間はあっという間に終わる。


 それは、思いがけないタイミングで。


 思いがけない終わり方で。

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