ありふれた奇跡の終着点(7)

 一つひとつの音に意味を持たせるように優しく弦を撫でる。頬を掠めるそよ風のように穏やかな音が通り過ぎて、四曲目は幕を閉じた。会場には一瞬だけ静謐な空気が通ったが、すぐに拍手が起こり、静寂は心地良く壊される。


 涼やかな音符が集まった旋律の上で、喜怒哀楽に満ちた日々の美しさを歌う『Halcyon holiday』。そこで絡まった興奮の熱を緩やかに解いていくような感傷的なメロディに、一人の人間を想い続ける恋心を綴った『一途の果てに』。


 続けて演奏した二曲も観客の感情を揺さぶることができたようで、僕は満足感に浸りながら再び水分を摂った。


 ペットボトルを置き、客席を振り返る。秋の暮れの太陽の動きは早い。たった数曲演奏しただけで陽光の出所が目に見えて沈んでいる。その色合いも少しずつ赤みを帯びてきた。


 あと、残り二曲。それを演奏してしまえばこの時は終わってしまう。


 楽しい時間は本当にあっという間に過ぎていく。


 以前、笹崎も口にしていた陳腐な言葉が脳裏を過った。いざ自分の身に降りかかると、とても理不尽なことのように感じられる。


 出来る限り、音と幸福に満ちたこの瞬間が続いて欲しい。そんなどうしようもないことを願いつつ、僕はマイクに口を寄せた。


「改めて今日は足を運んでもらってありがとうございます」


 言うと同時に小さな拍手が湧く。それに軽く一礼して続ける。


「早いですけど、次の二曲で最後になります」


 そこで示し合わせたかのように「ええーっ」と、期待通りの声が会場に響いた。思わず僕は失笑してしまう。


「いや、本当はまだまだやりたい曲もあるんですけど、時間超えちゃうと実行委員とか先生たちに文句言われちゃうんで」


 冗談めかして言いながらも心の底からの言葉だった。可能ならばアルバム中の全ての曲を披露したい。あとでこっ酷く叱られようが、この空間を終わらせたくない。


「じゃあ、あと二曲ですけど、最後まで聴いていってやって下さい。今日は本当にありがとうございました」


 再び起きた名残惜しそうな拍手が止むのを待って、僕はギターのボリュームを上げた。


 彩音と悠人にそっと目配せして、三人でそれぞれ楽器を構えながらドラムの方を向く。三つの視線が集まった場所で圭一が微笑み、スティックを握る。


 次の瞬間、ドラムのダイナミックなフィルインと共に四つの音が重なって演奏は始まった。躍動感溢れるリズムの上で爛漫とした音色が華やかに踊る。まるで僕たちの音で、茫洋とした夜道に点々と灯りが灯されていくような情景が脳裏に浮かぶ。


 そして僕は、苦難の奔流の中でもがきながらも胸に湛えた夢を誇示するような瑞々しい言葉を、万感を込めて音に乗せる。


『誓いのロック』


 この曲は一つ、僕の心の拠り所になった存在だ。夏休み、劣等感と自己嫌悪に塗れたあのスランプの日々に、そしてそのスランプを越える瞬間に共に有った曲。


 どんなに物事が上手く進まない時があっても、立ち止まっても、後戻ることがあっても、諦めない限りは決して可能性はゼロにはならない。強固な意志を持っていればいつか夢を手繰り寄せることができると信じさせてくれる曲。希望の歌だ。


 深い暗闇の中にいた僕の行先を照らしてくれたように、誰かにとっての大切な灯りになってくれればいいと、強く願いながら僕はギターを鳴らす。歌を歌う。


 向かい風に逆らって走り続けた旋律も終わりの時が訪れる。夜を超えて、やがて昇ってくる光の気配を感じさせるように、僕たちは音を鳴らし切った。


 曲が終わると、会場は今日一番の盛り上がりを見せた。空気が震えてひび割れそうなほどの歓声。歓喜が際限無く広がり、目に映る全員が笑っている。


 世界が音楽で輝いている。


 眼前の光景を前に、僕はそう思った。


 そして清々しい喧騒は次第に淡くなっていき、次の音を期待する静寂に形を変えていく。


 最後の曲だ。


 空間が静けさを取り戻した後に、僕は胸中で呟いた。

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