ありふれた奇跡の終着点(5)

 細い通路を抜けて、ステージへと足を踏み入れる。それと同時に右手から賑やかな声が上がった。突然湧いて出た音に怯みながらもそちらへ目を向ける。


 ――次の瞬間、僕の頭は驚愕に染められた。


 なんだ、この客の数は。


 この高校の全校生徒は約七百人。その程度の人数であれば校内行事などで見慣れている。だが今目の前には、その倍に近い人間がほとんど隙間無く立ち並んでいた。優に千人は超えている。


 前方はほとんど自校の生徒で溢れかえり、後方になるにつれ他校の制服や、保護者や卒業生と思しき一般客で埋め尽くされている。オールスタンディングの形式らしい雑然とした光景だ。まさかここまでの集客になるとは思いもしなかった。果たして圭一はどこまで宣伝の手を回していたのだろうか。


 客席を眺めながら立ち竦んでいると、悠人と圭一がこちらに視線を送ってきた。僕は我に返り、極力平静を装いながらステージ中央へと進む。


 ステージ上には、ギリギリまで他の場で音の調整をしていた彩音のギターを除いて、全ての機材が準備されていた。スタジオでの練習の時と同じポジションにそれぞれのアンプがあり、僕のギターと悠人のベースはその前に置かれたスタンドに立てかけられている。アンプのセッティングは昼休みの簡易リハーサルの時点で済ませていた。ステージの後方にはドラムセットが鎮座し、ドラムスローンには既に圭一が座っている。


 定位置に着いた僕はスタンドからギターを持ち上げてストラップを肩にかけた。毎日のように、何度も繰り返してきた動作。しかし今は動かす両手に、肩に感じる重さに、何か特別な感情が巡っているような気がする。それはギターを買って初めて手にした時の感覚に似ていた。


 そのまま僕はチューニングを確認する。ライブのために笹崎から拝借した足元のペダルチューナーを見下ろしながら六本の弦を弾いていく。視界の外側ではライブの始まりを今か今かと待ちわびる騒めきが飛び交っている。時折、囃すように僕たちの名前を呼ぶクラスメイトの声が聞こえ、俯きながら思わず苦笑してしまった。


 程なくして確認が終わり、僕は圭一と悠人の様子を窺う。二人もセッティングを終えたことを伝えるように視線を返してきた。


 残るは一人だけだ、と僕はステージの袖を見遣る。そこには、いつも通り低い位置でギターを抱える彩音が立っていた。待機所の中で準備を済ませてしまったようだ。既に右手からは手袋が外されて、暗がりの中で銀色の義手が露わになっている。


 その手を一瞥した後で、僕は彩音に向かって軽く首を縦に振る。


 すると彼女は悪戯っぽく微笑む。そしてゆっくりと足を進めてステージに姿を現した。


 彩音が登場するや否や、先ほどのように客席から名前を呼ぶ声が飛んでくる。先の三人と違って女子の声も多い。


 しかし、その浮ついた歓声はすぐに輪郭を変え始めた。


 前方の生徒が何かを見つけたように声を漏らして、そのまま隣の友人へそれを伝えるように囁く。その視線は明らかに彩音の右手を捉えていた。他の客も、ステージに立つ女子生徒の右手から放たれる、おおよそ普通の人間の体からは生まれない不自然な銀色の光沢に気づき、瞬く間に騒めきは後方まで滲んでいく。


 そうして、恐ろしいほど早く、会場は淀んだ喧騒に包まれた。いくつもの奇異の視線や無責任な好奇心が彼女の右手に集中している。


 その光景を見た僕の胸中では仄暗い感情が渦巻いていた。容易に想像はできていた結果だが、いざ目の当たりにすると大人数からの歪んだ関心というものは冷たく心に刺さる。本人でなくても良い気はしない。


 しかし彩音はまったく意に介していない様子で自身のアンプの前まで歩を進めた。差しているシールドをギターのジャックに接続する。事前に設定していたアンプのダイヤルの位置を再確認して頷いた後、客席を振り返った。凛とした態度のまま彼女は定位置まで移動する。


 客席に漂う空気の揺らぎは未だ止まない。演奏前に説明しないと収拾がつかなくなってしまうのではないかと不安を抱きそうにもなった。


 けれど、きっと大丈夫だろう。僕は彩音と、彼女の音楽を信頼している。だから、あとは見届けるだけだ。


 彩音が足元に置いたエフェクターのペダルを踏んだ。音を歪ませる回路を介した信号がアンプに繋がり、スピーカーから漏れるノイズが大きくなる――


 次の瞬間、彼女はその右手を、六本の弦に向かって勢いよく振り下ろした。


 ――ジャアァーーン


 深く歪ませた弦の震えがアンプから放たれる。まるでギターの咆哮のような一音が、会場に充満していた好奇の騒めきを切り裂いた。


 ――キイィィーーーイィーーン――


 そのままフィードバック奏法を駆使して、ハウリングのような鋭い高音を空間に響かせる。次第に音は窄んでいき、それが完全に止んだ時、会場には静寂が訪れた。視界に入る客は、全員が呆然とした顔をしている。


 そして、彩音は大仰に一つ呼吸をして、ギターを鳴らし始めた。


 柔らかな質感の左手が指板の上で縦横無尽に走るように弦を押さえる。硬質な冷たい光を放つ右手がしなやかにピッキングを繰り返して弦を震わせる。そこから弾き出されるのは、ロックンロールという言葉が似合う、鋭く、爽快で、心が弾むような音の粒。


 スライド、ハンマリング、プリング、カッティング、オクターブ奏法、チョーキング、ビブラート、速弾き。様々なテクニックを適切なバランスで巧みに織り交ぜ、疾走感のあるフレーズを華麗に奏でていく。普段の彼女と比べれば、とても激しく攻撃的な演奏。しかしいつもと同じ麗らかで暖かみのある情調も残した端正な響きを保っている。


 その旋律には僕のギターも、圭一のドラムも、悠人のベースも加わらない。純然たる彩音の音だけが空間を満たしていた。


 彩音がギターソロを披露するオープニングアクト。


 これが、今朝僕が立案した、彼女の右手に対する観客の先入観を搔き消すアイデアだった。


 彼女の義手を見れば、多くの客は好奇の目を向け、『何かしらの不幸を経験したのだろう』と冷ややかなイメージを持ったままライブを鑑賞することになるだろう。実際、不運が故の義手であることは正しいが、しかし彩音はそれを同情されることは望んでいない。


 ならば、別の先入観を植え付けてしまえばいいと、僕はそう考えた。


 彩音がステージに立ち、義手である右手が露わになると同時に、超絶技巧とも言えるギターの演奏を見せつける。その右手は哀れみの対象ではないと、誰もが感嘆するほど卓越された演奏技術を持つ右手であると、聴いた全ての人間を楽しませるような音を生み出す右手であると、誇示するのだ。


 この案が成功だったかどうかは演奏を終えるまで分からない。しかし少なくとも、観客は一人残らず、その右手への好奇を忘れているように、彩音の演奏に圧倒されている。そして驚くことに、それはバンドメンバーの僕たち三人も同じだった。


 彼女が持つ演奏技術や音楽の才能が、どれだけ傑出されたものかは当然知っている。だがそれでも、僕は彼女の実力を見くびっていたのか、もしくは彼女が今まで本気を隠していたのかもしれないと、そう思ってしまうほどに、今目の前で行われている演奏の質は並外れていた。


 人生に息づく多くの感情が混然と凝縮されながらも、それらが完璧に調和したような、豊かな音を彩音は奏でている。一本のギターから、たった六本の弦から放たれているとは到底思えないほどの密度を持った音。彼女の全てを注ぐようなその演奏はとても魅力的で、とびきり格好良くて、果てしなく美しい。


 見惚れているうちに、彩音が放つ音の奔流は勢いを増していた。その音調から、終わりが近づいていることが分かる。


 力強いギターの音色が会場を駆け抜けていく。まるでこの場に有る空気に鮮やかな色が着いて輝いていくように、空間中へ音の波が響き渡る。


 そして彩音は、全ての想いを惜しみ無く出し切るように弦を搔き、最後の一音を高らかに鳴らした。


 世界を満たしていた音は、ゆっくりと霧散していく。


 その余韻が全て消え去った次の瞬間、眼前の客席から轟音のような歓声が沸き起こった。男女入り混じった感嘆の声。風が吹き抜けるような口笛。至る所から弾き出される大きな拍手。それはまるで銀幕の世界のように壮大な光景だった。


「彩音ちゃーん!」と、女子生徒の楽しげな声が聞こえる。


「超カッコいいーー!」


 飾り気ない賞賛が真っ直ぐにステージまで届く。それを受け取った彩音は大きく目を見開いた。鈴を張ったような瞳が瞼の内に隈無く映される。しかしすぐにその輪郭はふわりと細くなった。そして彼女は顔を綻ばせたまま、西日を浴びて光沢を放つ右手を誇らしげに頭上へ掲げた。


 一層歓声が膨らんだ中で彩音がこちらに視線を向けてくる。達成感と喜びを頬に浮かべながらも、同時に始まりへの期待も滲ませていた。僕はその表情から言いたい言葉を汲み取ってギターのボリュームノブを回し、バトンのように圭一に視線を送る。圭一は頷いてドラムスティックを構えた。それを合図に僕と彩音と悠人もそれぞれ楽器に手を添える。


 そして、三回のハイハットが叩かれたのち、その時が始まった。

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