ありふれた奇跡の終着点(4)

 多くの足音が、様々な話し声が、穏やかな波のように押し寄せてきている。時間の経過と共にその騒めきの密度は増していき、自分の中の落ち着きが無くなっていくのが分かる。文化祭の終わりが近づくに連れて校内の興奮も高まっていっているように感じた。


 薄い布で作られたこの壁の奥には一体どれ程の人間がいるのだろう。詳しい数は分からないが、その全員が同じ目的を持ってここに足を運んできていることは確かだった。今から数分後、この場で行われる僕たちのライブを観るために集まってくれているのだ。


 僕は自らの出番を待つべく、グラウンドに設営された野外ステージの裏にある待機所に来ていた。一つ前のグループの出番がちょうど終わったところで、もう少しで僕たちのスタンバイの時間が始まる。


 全身の内側からは蜃気楼のように揺れる熱が沸々と込み上げてきているのに、頭や手足の表面からは温度が奪われていくような感覚がある。自分の中で未だに緊張と高揚が繊細なバランスでせめぎ合っていた。こうもジッと待たされていると様々な感情が波立って平静でいられない。


「予想以上に盛況みたいだね」


 ふと背後から声が聞こえて振り返ると、二本のドラムスティックを片手に収めた圭一が歩み寄ってきていた。そのまま僕の隣に並び、軽く両腕のストレッチをする。圭一は緊張の色など一切見せず、いつも通り涼やかな様相だ。


「観客数一桁、みたいなことはなくてよかったよ」


「他人事みたいに言ってるけど、ほとんど圭一の仕業だろ?」


「さあ、なんのことだか」


 まるで不干渉のようにとぼけているが、この集客の大部分は間違いなく圭一の働きのおかげに他ならなかった。校内新聞での宣伝。膨大な人脈を駆使した噂作り。時には昼休みや放課後に、校内放送で完成したCDを流すこともあった。僕たちの曲を事前に全校生徒の耳へ浸透させておこうという狙いだ。


 この野外ステージの、しかもその大トリという舞台を確保できたのも、圭一の手腕によるものに違いないと僕は思っている。野外ステージの大トリのプログラムは、体育館ステージのイベントやクラス企画の開催が全て終わった後に公演時間が設定されている。つまり全校生徒が一堂に会することができる唯一の場ということだ。


 そのような特有性ゆえに、多くのグループが文化祭の最後に一花咲かせようとステージの使用を希望することとなる。ステージの使用権を巡って、毎年血で血を洗う争いを繰り広げることが恒例となっているが、今年は例年通りの展開とはならなかった。


 気がつけば、なぜか当然のように僕たちがステージの使用権を獲得していたのだ。詳細は分からないが十中八九、圭一の持つ何かしらの力が働いたのだろう。彼の策略によって何人もの生徒が尊い犠牲になっていることは想像に難くない。


「修志くん、緊張してるのかい?」


 落ち着き払った語調で圭一が聞いてきたので正直に首を縦に振る。


「そりゃあ、大勢の前で何かするって滅多にないからな。あれだ、小学校の学芸会以来だ」


「ああ、懐かしいね」と、圭一は愉快そうに言った。


「小三の時だったかな。修志くんが劇の台詞忘れて無茶苦茶なアドリブを入れ込んできたの」


「ああ、あれな。焦りと恥ずかしさを勢いだけで誤魔化そうとした覚えがある。たしかあの時の相手は圭一だったんだよな」


「そうそう、本当にあの時は苦労したよ」


 下らない思い出話を交わし、二人で呆れるように笑う。少しだけ体の緊張が解けて楽になったような気がした。


「思ったより人集まってんな」


 背後から気怠そうな低い声が聞こえた。デジャヴだ、と思いながら僕は振り返る。するとそこには、いつも通りわけもなく不機嫌そうな表情を備えた悠人がいた。


「二人とも必要な機材はちゃんと運んできてるのか?」


 圭一と共に僕を挟むように並び立って尋ねてくる。


「ああ、準備できてる」


「僕も大丈夫だよ」


「そうか」と、悠人はステージへ続く通路に目をやった。そのまま、見えない何かを捉えようとするようにジッと視線を固めている。その横顔を目にした僕は、そこにいつもと違う空気感が漂っていることに気がついた。普段と同じ険のある顔付きに、どこか熱を帯びた情感が滲んでいる。緊張ではない。不安でもない。


「悠人」


 確認するべく呼びかけると彼は首をこちらに回す。


「なんだ?」


「ライブ、楽しみか?」


 僕が投げかけたシンプルな問いに、悠人は虚をつかれたように目を丸くした。そのまま表情を隠すように、すぐに顔を正面に戻す。


「……まあ、そうだな」


 そして、少しの間を置いた後でそう呟いた。それは小さな声だったが、大きな意味を持っている。


 僕は堪えられずに口元を緩めてしまった。悠人の反応を面白がったわけではなく、喜びに心を動かされたのだ。


 初めて悠人の演奏を見た日に、青木が言っていた事を覚えている。


『今の悠人は昔の経験もあって、本当の意味で音楽を楽しむことができてないんだよ』


 そして、それに対して彩音が発した言葉も。


『土田くんが今音楽を楽しめていないのなら、だからこそ私は一緒にバンドを組みたい。一緒に演奏して、バンドは、音楽は楽しいものだってことを思い出させてあげたい』


 その願いが叶ったことが、なぜか自分のことのように嬉しく思えた。あとで彩音に聞かせてやろうと考えていると、圭一が思い出したように口を開く。


「そういえば石川さん、まだ来てないね」


「あいつ時間間違えてんじゃないだろうな」


 続けて悠人が呆れ顔で周囲を見回す。たしかにまだ姿が見えないが、理由は分かっていた。


「たぶんまだ、弾くフレーズを考えてるんだろうな」


 僕が答えると、「ああ」と、二人同時に納得したような声を漏らした。今朝、屋上で僕が彩音に提案した計画は圭一と悠人にも伝えていた。そして二人も迷わずに首を縦に振った。


 ライブのオープニング、一曲目の演奏を始める前にそれは決行される。唐突な事の運びとなったが、彩音の技量を持ってすれば何も問題はないだろう。その内容も彼女に一任した。というよりも僕が考えられるようなものではない。技術的な意味ではもちろんだが、何より、音に乗せる想いの問題だ。


 その時、少し離れた所からこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。三連符のように軽やかな足音だ。陽気な空気が距離を縮めてきている。


 ようやく来たか、と僕はその声を待つ。


「ごめん、お待たせ!」


 彩音は小さく息を切らしながら僕たちの前まで辿り着いた。右肩にはギグケースが吊るされ、そのショルダーストラップを掴む右手にはまだ手袋を着けている。


「どうだ、大丈夫そうか?」


 僕が聞くと、彼女は勢いよく右手の親指を立てる。


「もうバッチリ! 観客をアッと沸かせる準備はできてるよ」


 屈託無く言い放つ瞳には自信と高揚がほとばしり、まるで満天の星を映しているように燦然とした光を湛えていた。その得意げな表情を前に、僕も笑って頷く。


 これでメンバーは全員揃った。楽器や機材のスタンバイは万全。曲も演奏も洗練された状態に仕上がっている。そして今からライブに臨む、音を奏でる、その気持ちの用意も十分だ。あとは、その時を待つだけ。


「さて」


 ふと、圭一が場の空気を改めるように言った。


「ライブ前に石川さんから何か言うことはあるかい?」


「へ、私?」


 不意打ちだったようで彩音は間の抜けた声を漏らす。


「ほら、せっかくだからバンマスから檄を飛ばしてもらいたいじゃないか」


 からかう様子でもなく圭一は涼やかに言った。


「別にバンマスっていうつもりはなかったけどなあ」と、彼女は空を仰いで数秒唸る。しかしすぐに顔を僕たち三人の中心に戻した。


「じゃあ」


 そして、眩しいほど無邪気に顔を綻ばせて、溌溂と言った。


「音楽を、楽しもう!」


 あまりにも真っ直ぐで純粋な一言に思わず言葉を無くしてしまったが、それは一瞬のことで、すぐに僕と圭一は緩い笑みをこぼす。いつもは無愛想な悠人も、鋭い輪郭の両目を伏せて、ほんの少しだけ愉快そうに唇の形を変えていた。


 音を楽しむ。いつだって彩音の音楽の根底には、その思いがある。


「みなさーん、時間でーす」


 ステージ入口に立つ実行委員の張り切った声が響いた。僕たちは返事をしてステージへ繋がる通路を向く。


 圭一、悠人が歩き出し、僕も続こうとしたその時だった。


「修志くん」


 僕にしか届かない程度の細やかな声で、背後から彩音に呼び止められる。


 振り向くと、彼女は淡い微笑みを作って静かに言った。


「ありがとね」


 なぜこのタイミングでそんな言葉をこぼすのか。理由は分からなかったが、僕はその顔から目を逸らせなかった。満ち溢れる高揚の中に、僅かな寂しさが滲んでいるような不思議な表情。透明な水面へ藍色の絵の具を一滴垂らしたように、憂いが薄く広がっている。例えば子供の頃、夏祭りの終わりに感じた、度し難いやるせなさのようなものに近い。


 今から訪れるライブの始まりと、そしてその最後の瞬間に、同時に思いを巡らせているのだろうか。何においても始まりがあれば終わりがある。呆れるほど陳腐な言葉で、どうしても揺らぐことのない現実。


 けれど、少なくとも今は始まりの時だ。


「その台詞はライブが終わってからだろ」


 僕はからかうような口調で笑ってみせた。


 その言葉に応じようと彩音は口を開きかけたが、寸前のところで唇を結ぶ。そのまま何かを確かめるようにゆっくりと頷いた後、穏やかに言った。


「うん、そうだね」


 いつもと同じ、夏の空から降り注ぐ陽光のような、鮮烈な笑顔で。

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