ありふれた奇跡の終着点(3)

 錆び付いた鉄扉を開け、屋上へと足を踏み入れる。


 約半年ぶりに訪れた空間は随分と懐かしいような、はたまたその逆のような、不思議な印象を抱いた。この半年間の時間の流れがとても特別なものだったからだろうか。そんなことを思いながら右手を向く。


 するとそこにはあの日と同じ背景に、あの日と同じ少女がいた。その姿を見ると、心の奥底が春の陽だまりのような温かさに満たされていく。


 石川彩音が左肩にギターを吊るし、背中を向けて立っていた。


 彼女は演奏を始める為にチューニングを進めている。ペグを摘んで回しながら、六本の弦を一つひとつ順に弾いていた。


 始まりの景色だ。


 胸中で呟き、僕は彼女に近づいていく。


 ――ジャーン


 チューニングを終えた彩音は六本の弦を勢いよく鳴らした。綺麗に調弦の整った音が重なって響く。


 それと同時に彼女は身を竦ませるように動きを止めた。背後の空気の流れの変化に気づいたようだ。そのままゆっくりとこちらを振り返る。そして僕の姿を認めた次の瞬間、彼女は体の強張りと表情を共に緩める。


「おはよう、修志くん」


 安堵と喜びが混じったような微笑みだった。


「おう、おはよう。早いな」


 軽く応えて、彼女の隣まで移動する。


「楽しみ過ぎて早く目が覚めちゃってさ。家でジッとしてるのも落ち着かないから、学校に来てギターでも弾いとこうかなあって。修志くんはどうしたの?」


「俺も一言一句同じ理由だよ」


「そっかそっか、瓢箪の質流れってやつだね」


「川流れな」


 何気無い普段通りのやり取りが、不思議といつも以上に楽しく感じる。僕と彼女との間には確かな高揚感が佇んでいた。


「いやあ、しかし遂にこの日が来たねえ。本当にあっという間だ」


「ああ」と、僕は返す。


「けど、大勢の前で演奏するのは初めてだから、やっぱり少し緊張するな」


「大丈夫大丈夫、私だって初めてだし。ていうか御堂くんと土田くんもだよ」


「まあ、たしかにそうだけど」


「始まってみればきっとなんてことないって。しっかり練習も積んできたんだしさ」


 快活に放たれる彩音の言葉を受けて、昨日までの練習の日々が思い起こされる。


 アルバム制作という主の目的を果たした僕たちは、もう一つの目標である文化祭でのライブに向けて練習を繰り返していた。ゲームで例えるなら言わばボーナスステージだが、惰性で続けることはなく、ライブならではのアレンジやセッションを思索しながら音を奏でる毎日を過ごしていたのだ。


「せっかくのライブなのに緊張ばっかりで楽しめないのは勿体無いよ」


 彩音は浮かれ気味に言ってギターを奏で始めた。左手で押さえた弦を、右手に摘んだピックで弾いていく。何度耳にしても聴き飽きることのない澄んだメロディが目の前で広がる。その鮮やかなピッキングを繰り出す右手を僕はジッと見つめた。


 軽快な動きに合わせて光沢を変化させる銀色の義手。初めて目にした時は流石に驚愕したが、今となっては何一つ違和感無く視界に溶け込んでいる。時折その事実を忘れてしまうほど。きっと圭一も悠人も同じ感覚を持っているだろう。


 しかし、それはメンバーだけの錯覚だ。


「でも、本当にいいのか?」


 僕は思わず不安を口にした。


「ん、何が?」


「いや、その、ライブでさ、大勢の人に右手を見られるのがだよ」


 以前彩音は、ライブをすることで他の生徒や観客に自身の右手を見られても構わないと言った。それは、彼女なりの決意を込めた選択の筈だ。


 けれど、その選択肢が今後の彼女の学校生活に一切の弊害を与えないとは言い切れない。仮にどんな綺麗事を並べても、この世界で義手というものが大きなマイノリティであることは否定し難い事実であって、本人の意思とは関係無く、万人から特異な存在だと認識されてしまうだろう。そして、多くの好奇心というものは往々にして人の心を強く蝕むものだ。


 ライブができるという熱に浮かされ、彼女が色々なリスクを切り捨ててしまっているような気がして、どうしても僕は憂慮を拭えずにいた。


「うん。大丈夫だよ」


 しかし彩音は即答する。


「この前も言ったでしょ。もしもみんなから馬鹿にされたりからかわれたりしても、君が味方でいてくれるならそれでいいって」


「まあ、そう言ってたけどさ……」


 あっけらかんと笑う彼女を前にしても、胸に蟠りは残ってしまう。


 余計なお世話かもしれないが何か良い手立てはないだろうか、と僕は考える。


 義手を着けている人間は薄幸な存在だと、哀憐の対象だという、その冷ややかな先入観を搔き消す何かが――


「――そうだ」


 突然の閃きに僕は思わず声を漏らした。


「どうしたの?」


 首を傾げる彩音に対して、僕は頭に浮かんだその案を説明する。


 そして言い終えると、彼女は悪戯っぽく笑い、二つ返事で快諾した。


「いいねえ、まっかせといて!」

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