ありふれた奇跡の終着点(2)
朝食を済ませた後もどうにも気分が落ち着かなかった僕は、準備を整えてすぐに家を出た。早めに学校に行って軽くギターを弾いておこうと考えたのだ。
肩にギグケースをかけて、真新しい今日の道を歩いていく。秋の早朝の町はまだ薄暗い。太陽は遠くに見える山に埋もれてあり、稜線の辺りにボンヤリと淡黄が滲んでいる。どこからともなく疎らな鳥の鳴き声が聞こえる。頬を撫でる空気は程良い冷気と僅かに湿った草木の匂いを孕んでいた。
夜明けの道を歩く足取りは軽い。早起き、文化祭、いつもと色合いの違う通学路の景色。様々な非日常感が僕に重力を忘れさせる。
左右に首を回しても、前方に向かって目を細めても、視界に人の姿は無い。傍を通る車道もほとんど車は走っていない。信号機が意味も無く青と赤の明滅を繰り返している。アスファルトの上には僕だけが存在していた。まるでこの広い世界で自分一人だけの時間を過ごしているような気がして、得体の知れない優越感に浸ってしまう。
――そういえば。
僕はふと思った。こんな状況に相応しい曲がある、と。
衝動的に鞄からMP3プレーヤーを取り出してイヤホンを両耳に差す。画面を立ち上げて、慣れた手つきで先ほど脳裏を過ったその曲名に触れる。すると何百回、何千回と聴いたイントロが鼓膜を揺らし始めた。
朝の到来を祝福するような、今から過ぎてゆく今日という時間が特別なものになりそうだと感じられるような、そんな旋律が全身を駆け巡り、僕の世界を輝きで満たしていく。
『朝、目が覚めて』
僕にとって古くからの思い入れがある曲で、そして、彩音と僕が出会い、彼女の奔放さに付き合う日々の始まりを告げた曲。
この曲が存在していなかったら、僕と彩音は同じ時間を過ごしていなかったかもしれない。悠人とも出会わず、圭一と音を交わすこともなかったかもしれない。
もしもそれが現実だった世界を想像してみると、大きな喪失感に駆られてしまう。春から桜が無くなるように、夏から蝉の声が消え失せるように、僕の日常から重大な要素が取り除かれる感覚。大袈裟に言えば、人生の形が変わっていただろう。
たった一つの音楽で人生の在り方は大きく変化する。それは良い方向に転がることも、悪い方向に転がることもある。
『音楽に関わる人間が不幸にはなっていけない』という彩音の言葉に沿うのであれば、全員が前者であってほしいと、僕は思う。
アルバムの四曲目を聴き終える頃には学校の正門へ続く坂道の上り口まで辿り着いていた。ギグケースを深く背負い直し、木立に挟まれた坂を上っていく。生徒も教師もほとんど来ていないようで、校舎やグラウンドから声が響いてくることはない。文化祭当日は運動部の朝練も無いようだ。
穏やかな静寂の中を進み、坂を上り切ると、くすんだ白色の校舎が視界に現れた。やはりまだ人気は無い。さすがに早く着き過ぎたか、と僕は壁面の上方にかけられた時計の針を確認するべく顔を上げる――
その瞬間、僕は思わず足を止めてしまった。
色褪せた屋舎のその上端。建物と水色の空とを分けるまっすぐな境界線。そこに一つ、柔らかな輪郭の何かが姿を見せたのだ。まるで水平線から悠々と昇る朝日のようにも見える。同時に、その冴え冴えとした光を見た時と同じような心の弾みを感じた。
それがなんなのかはすぐに理解できた。相変わらず不覚極まりない位置取りと言うべきだろうか。地上に姿が見えていることにまったく気づいていないようだ。
僕は呆れ笑いを漏らして、その場所へと歩を進める。
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