7章 ありふれた奇跡の終着点

ありふれた奇跡の終着点(1)

 瞼を持ち上げた瞬間、明らかに早く目が覚めてしまったと確信した。アラームが鳴っていないからという理由ではなく、体内時計のような何かで、なんとなく直感したのだ。


 念のため枕元のデジタル時計を確認する。時刻は五時半を過ぎたところ。そして、その横に表示された日付の枠には、廊下に掲示されたポスターで何度も見た、文化祭の開催日が映されていた。


 いよいよこの日が来たか、と僕はベッドから体を起こす。いつもより一時間以上は早い目覚めだが、不思議と眠気や気怠さは微塵もない。緊張や高揚が全身の血管を巡り、浮ついたエネルギーが体中を支配していた。小学生時代の遠足当日の感覚を思い出す。


 自室を出て顔を洗った後、朝食を食べる為にリビングへ向かう。ドアノブを掴み扉を開けると、香ばしい玉子の匂いが鼻先を撫でた。


「あれ? おはよう、今日は随分早いね」


 声の方向へ目を遣ると、キッチンで軽やかに手を動かす母がいた。どうやら昼食の弁当を用意してくれているらしい。


「うん」と、小さく返して僕もそちらへ近づく。母の邪魔にならないように身を捩らせながら棚から食パンを取り出してトースターにセットする。焼き上がりを待つ間にコップに牛乳を注ぐ。


 その途中でふと母の方を盗み見た。母は当然のような顔で調理を進めている。今日は土曜日で、自身はせっかくの休日だというのに、こんなに朝早くから何の不服もこぼさずに労働をこなしているのだ。


 素直に感謝しなければならない。別に今初めて気づいたわけではないが、改めてそう思った。


 しかし思春期の少年がそんな思いを言葉にするなど、簡単にできることではない。もしかすると、大人になっても気恥ずかしくて言いづらいものなのかもしれない。


 それならば、ただの会話ではなく、音楽でなら伝えることができるだろうか。彩音のように言葉を音に乗せたら、伝えやすいこともあるのだろうか。


 何気なくそんなことを考えてみた。きっと答えは肯定だ。そう思えるだけの、音楽への信頼と自信を、今の僕は持っていた。


 まあ、結局はとても照れ臭いことなんだろうけど、と頭の中で苦笑していると、パンの焼き上がりを知らせるトースターの音が鳴った。

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