special thanks(10)
滑らかに形を変えて弦を押さえる左手と、しなやかに弦を弾く右手。一つひとつの音に意味を持たせるような演奏で、彩音は流麗に空気を震わせる。
その音色には、彩音らしい温かみのある晴れやかな情調と、それと相反する哀愁を帯びた儚さが、絶妙に重ね合わせられていた。彼女の中を巡る万感が、余すことなく込められているように感じられる。いくつもの音を奏でてきた日々の軌跡を振り返ると共に、その最後の瞬間を祝福するような、惜しむような、そんな旋律だった。
彩音が織りなすその美しい響きは、いとも容易く僕の心の琴線に触れた。様々な感情が心地良く揺さぶられ、不意に瞳に雫が滲みそうになる。人は一つの音楽だけでここまで心を動かされることがあるのかと、少し驚きもした。
彩音はそのまま止まることなくアウトロまで弦を掻き鳴らしていった。この曲の色彩を決定づけるリフを奏でて、旋律の幕をゆっくりと降ろしていく。夕暮れに悠然と水平線へ沈む光のように。
そして、彼女は最後の一音となるコードを丁寧に鳴らして、演奏を終えた。弦の小さな震えの余韻が、澄み切った夜の空気へ溶けていく。
「ねえ、どうかな?」
彩音はギターに手を添えたまま、意気揚々と笑顔を向けてきた。僕は瞳に浮かんだ潤いを隠すように大袈裟に頷く。
「ああ、すげえ良かった。綺麗なフレーズで、曲の雰囲気にもピッタリ合ってたし」
「でしょでしょ! 自分でもビックリするぐらい急にこのフレーズが浮かんできちゃった」
素直な感嘆の言葉を並べると、彼女は嬉々として声を弾ませた。その顔から憂色はすっかりと消え、いつも通りの屈託のなさを頬に浮かべている。
「これでやっと全部の曲が完成だよ」
ジャラン、と彩音は満足そうに弦を撫でる。
「早速明日二人にも聴いてもらってアレンジも固めていこう」
「そうだな。2サビまでは出来上がってるから、あとはあっという間だ」
「うん。それが形になったら、いよいよレコーディングだね!」
彼女は一層声を華やがせた。やっとここまできた、といった感慨だろう。
『私の生きた証を残すこと』
彼女がバンドを組み、アルバムを作ろうとした理由が脳裏に蘇る。遂に、本当の意味でその願いを叶えることができるのだ。
「いやあ、楽しみだなあ。自分の作った曲が一枚のCDになるなんてさ」
彩音は無邪気に言いながらギターを鳴らし始めた。自身の曲のリフをいくつか適当に繋げたフレーズを軽やかに奏でていく。今となっては聴き慣れているが、聴き飽きることはない、煌びやかな音たちだ。
「やっぱすごいよな、彩音は」
その音色を耳にしながら反射的に僕はこぼす。
「へ」と、彩音は虚をつかれたように演奏を止めた。
「すごいって何が?」
「いや、それだけ曲を作れるのがさ。一つひとつのクオリティも高いし」
「ああ」
彼女は少し照れ臭そうに答える。
「別にそんな大したものじゃないって。作曲自体も慣れたら簡単なものだしね」
「いや、そうそうできるもんじゃないよ」
「やってみると案外できるものだよ――そうだ!」
すると、そこで彩音は何か閃いたように眉の形を変えた。
「修志くんも今からやってみなよ」
「……え?」
何を? と言うほど馬鹿ではない。
「いやいや、無理だって。全然作曲の知識もないし」
「そこまで難しいものじゃないって、ほら」
「ええ……」
たじろぐ僕を意に介さず、彩音はギターとピックを手渡してくる。勢いに負ける形で渋々それを受けとった。肩にストラップをかけた後で左手をネックに添えて、ボディへ視線を落とす。
3トーンサンバーストカラーのストラトキャスター。現在は彩音のギターであり、かつてはソニアのユウキのものだったギター。自分の好きなバンドのメンバーが実際に使用していた代物を、僕は手にしている。とても貴重な体験であるはずなのに、突然の『作曲をしてみろ』という無茶振りにまごついてしまい感慨に浸る暇も無い。
「さ、それじゃあ早速適当に弾いてみてよ」
「いや、とりあえず何かアドバイスないのかよ。いきなり言われてもどうしたらいいか全く分かんないんだけど」
「そんな気負うものじゃないよ。修志くんもコードはある程度覚えてるでしょ?」
「ああ……まあ、コードぐらいならな」
「じゃあ簡単だよ」と、彩音は事も無げに言う。
「例えば伝えたい思いとか、目の前の情景とか、今感じている気持ちとか、それに見合った音色のコードを見つけて繋げていくだけだからさ」
「そう言われても――」
「はい、やってみて」
以上で説明は終了、といった風に彩音は手のひらを上に向けた両手をこちらに差し出す。僕は不満を主張すべく細めた両目で彼女を一瞥した後、ため息を吐いてギターを構える。
コードを並べるだけ、と簡単に言ってもバランスというものがあるだろう。明るく穏やかな情調のコードも有れば、暗くもの悲しい雰囲気のコードも有る。どのような順番で進行させるかも重要であるし、それをどんなリズムで弾くかでも旋律の表情は大きく変化する。
深く考えれば考えるほど、一向にイメージが固まる気がしない。チラリと彩音の顔を見ると、強かな期待の眼差しを向けてきている。
一度思考をリセットしようと呼吸をした。そうして夜の匂いを鼻先に感じながら、ふと先ほどの彩音の言葉を思い返す。
伝えたい思い。目の前の情景。今、感じている気持ち。
すると次の瞬間、僕は弾かれたようにギターを鳴らし始めていた。
例えば、今、彩音と一緒にいて心を満たしているこの感情を、音に乗せてみようと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます