special thanks(9)

 展望台となっている鉄製の東屋の下。並べられた石のベンチの上に、彼女の姿はあった。


 風邪を引いて学校を休んだのになぜここにいるのか。疑問を抱きながら僕は歩み寄って、その背中に声をかける。


「彩音」


 突然闇の中から名前を呼ばれたことに驚いたのか、彼女は肩をビクッと震わせて両手を止めた。小石に躓いたように音が消える。そのままこちらを鋭く振り返った。


「え、修志くん?」


 丸くした両目を瞬かせながら呟く。その顔は喫驚に染まっていたが、体調を悪くしているような面持ちには見えない。


「どうしたの、なんでこんな時間にここに?」


「それはこっちの台詞なんだけど」と、僕は彼女の隣に腰を下ろす。


「体調は大丈夫なのか?」


 問題無さそうだが念のため聞いてみると、彩音は「ああ」と思い出したような声を漏らした。


「うん、大丈夫。今日は仮病みたいなものだったから」


 苦笑しながら正直に吐く言葉は生返事に近い。


「そうか……何かあったのか?」


 問うと、彼女は小さくかぶりを振った。


「ううん……なんでもないよ。ちょっとズル休みってのをしてみたかっただけ」


「なんだその理由」


「人生で一回はしてみたいと思ったことない?」


「まあ、分からなくもないけど」


 肯きはしたものの、彼女が語った仮病の理由は真実ではないと感じた。もし仮病で学校を休んだとしても、彼女ならきっとそれを正直に言った後でバンドの練習にはちゃっかり参加しようとするだろう。彩音が音楽に触れられる時間をわざわざ自分から手放すとは思えなかった。


「それで、修志くんはどうしてここにきたの?」


 同じことを聞こうと思っていたが先手を取られる。


「少し考え事して煮詰まったからなんとなく散歩しててな。その途中で寄ってみただけだよ」


「そっか」と、彩音は弱々しく応じる。


「私も同じ。色々と考えてたら、もうなんだか分かんなくなっちゃって。それでギター持ってここまで来ちゃった」


 その言葉から詳らかな事情は掬い取れなかったが、彼女が深く思い煩っていることは痛切に伝わってきた。


「何か悩み事か?」


 その沈鬱の芽を少しでも除くために何かできることはないだろうかと僕は尋ねる。


「……うん」


 呟いた後で彩音は口を噤んだ。目の前には虫の音だけが残る静寂が訪れる。


 彼女は押し黙ったまま、顔を正面に向けて目を細めた。展望台からの遠景、その更に遠く、あるいは近く、彼女にしか見えないどこか他の空間を見つめているようだった。ギターのボディに添えられた銀色の右手は夜闇を纏っているせいか、いつもより冷たそうな質感を帯びている。


「……あのさ」


 静寂の訪れから三十秒ほど経った頃。彩音はこちらを向いて小さく口を開いた。


「修志くんは、もし私がいなくなったら……離ればなれになったら寂しい?」


「……え」


 それは、本当に予想だにしていなかった一言だった。彼女から向けられた視線に狼狽して僕は言葉を失う。


 なぜ、今そんな事を突然聞くのだろうか。卒業した後の将来の事を言っているのだろうか。たしかに別々の進路を選ぶのであれば、当然人生の道筋は緩やかに離れていく。進路を決めるということは往々にして別れを決断するということだ。


 僕は高校を卒業して、彩音と離別した未来を想像してみる。すると胸の底を弱く押し潰されるような淡い痛みが走った。疼きが浮かび上がり、喉の奥を僅かに締めつける。


「まあ……寂しい、かもな」


 僕は体の内に灯った感情を素直に吐き出した。少し気恥ずかしく、頬に熱が溜まっていくのを感じる。


「そっか……うん、私もね、寂しい」


 彩音はゆっくりと顔を正面に戻しながら続ける。


「修志くんと、みんなと会えなくなったら寂しいし、そうやって離ればなれになって、いつか私の作った曲が、私の音楽が忘れられちゃうかもしれないのが、怖い」


 その声は、口から漏れ出た瞬間に夜闇へ溶ける冬の吐息のように、とても悄然としていた。一度でも彼女から視線を逸らせば、次の瞬間には目の前から消えていなくなってしまうのではないかと思うほど、彼女の姿が儚げに目に映る。


 何か言いたい言葉が、あるいは言葉にできない思いが、彩音の中に有ることは伝わってきた。だが彼女の答えは要領を得ず、その真意を掴むことができない。


 将来の選択次第で大切な人と別れること。そこで生まれる寂寥。それは普遍的な煩慮であり、それぞれが将来を手に入れる為に払う代償とも言える。人生を進む上では避けられないものであるから、どうしようもないことだ。


 けれど――


「彩音の曲を忘れることは絶対に無いよ」


 僕は強い意思を乗せてハッキリと声にした。彩音が今何を思い煩っているのかは分からないが、彼女が口にした不安に対して、それだけは自信を持って答えることができた。


「たしかに、この先ずっと同じメンバーでバンドを組んで音楽を続けるってのはできないと思う。悠人以外はプロを目指しているわけでもないし、それぞれの進路もあるしな。だけど彩音が作った曲は、一緒に演奏したことは、俺は絶対に忘れない、と思う」


 僕が言うと、彩音は柔らかな輪郭の両目を大きく開いて、再びこちらを向いた。鈴を張ったような瞳が僕を捉える。


「……どうしてそう思うの?」


 今にも震えそうな細い声で聞いてきた彼女に、僕は躊躇わず答える。


「彩音の音楽が好きだから」


 我ながらとても単純な理由だった。だが、それが嘘偽り無い答えだった。


 彼女が作り出す楽曲も、彼女が奏でるギターの音も、綿雪のような歌声も。全てを含めて僕は彩音の音楽が好きだ。美しく心を揺さぶり、鮮やかに感情を彩っていく、彼女の音楽が。


 一生、頭の片隅に残り続ける記憶というものは必ず存在する。それは日常の中の些事という場合もある。ならば、とても大切な存在であれば尚更だろう。


 彩音は一瞬息を飲むような表情を見せた後に、何か言葉を返そうと僅かに唇を動かしたが、すぐにそれを結んだ。そのまま目の動きだけで小さく俯く。まだ吐き出したい憂いがあるのだろうか。これ以上は彼女の口から語られないと何も分からない。


 しかし、もう一つだけ、僕が彼女に言えることはあった。


「まあ、もしも」と、それを照れ隠しゆえのおどけた語調で口にする。


「どうしても自分のことが、自分の曲が忘れられそうで不安だっていうなら、いつでも呼べよ。どこにだって向かって、何回でも聴きに行ってやるから」


 彩音は伏せていた目を勢いよく戻した。再び僕を見つめてくる澄んだ瞳は微かに揺れている。


「……本当に?」


 まるで子供のようにあどけなく聞いてくる。


「ああ」


「日本の端っこでも?」


「任せろ」


「地球の裏側でも?」


「……出来る限りな」


 保険をかけるように付け足す。世界中となるとスケールが大きい。


「……ふふっ」


 次の瞬間、軽やかな息を漏らして、彩音は嬉しそうに口角を持ち上げた。そのまま喜びは満面に広がっていく。夜明けと共に花弁を開く朝顔の花を思い出させる、綺麗な笑顔だった。


 僕の受け答えが可笑しかったのか、それとも胸裏の煩いが少し和らいだのかは分からない。彼女の顔には晴れやかな感情だけが残っていた。


「そっか」


 そっか、ともう一度呟いて、彩音は改めてふわりと笑う。


「ありがとね、修志くん」


 その微笑みに、僕は思わず息を飲んだ。とても美しい景色に見惚れる時のような感覚に、大切な人を思う主観が重なる。


「――あっ!」


 次に瞬きをしたタイミングで、唐突に彩音が声を上げた。急な空気の変化に僕は面食らい、近くで鳴いていた秋虫も声を止める。


「どうした?」


 僕が聞くと、彼女は先ほどまでとは打って変わった朗々とした調子で答えた。


「思い付いた!」


「思い付いた? 何を?」


「ほら、出来てなかった曲の最後のフレーズだよ」


 ああ、と僕は頭の中で呟く。それはまた、随分と脈絡に欠けたタイミングだ。あれだけ考え悩んでいたというのに、突如としてアイデアが舞い降りてきたらしい。先ほどまでの会話の中に何かきっかけでもあったのだろうか。


 まあ、理由はなんでもいい。彼女が音を作り上げたというなら、僕が言うことは一つだ。


「じゃあ、聴かせてくれ」


 軽く笑って、彩音に頼む。


 彼女は微笑み返して、ギターを弾き始めた。

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