誓いのロック(4)

「……なあ、石川」


 気がつくと僕の口はゆっくりと動いていた。視線は真っ黒な川面を捉えたまま。頭に浮かんだ言葉を、弱々しく吐き出す。


「サイドギター、今からでも他のやつ見つけろよ」


 それは、自分でも驚くほど悄然とした声だった。同時に、隣に漂う空気が揺らいだことを肌で感じ取ることができた。しかし僕は顔の方向を変えることなく続ける。


「最近、俺がギターもボーカルも上手くできていないこと、気づいてるだろ? いや、まあ、元から下手なんだけど、輪をかけてさ。いくら練習しても一向に改善しないし」


 努めて平静を装い、声音を変えずに捲し立てていく。


「石川と悠人は前から十分な技術を持ってるし、圭一もどんどん上手くなっていってる。だから、俺がいたら駄目だ。せっかくの演奏が台無しになる。まあ、うちの学校で新しい人を探すのは難しいかもしれないけど、俺も手伝うからさ」


 だから、と僕は改めて口にした。


「俺の代わりに、もっと上手いやつを見つけろよ」


 言い終えた後も、僕は隣を向くことができなかった。今、彼女はどんな表情をしているのだろう。どんな感情を抱いているのだろう。


 急な申し出に怒っているか。今更何を、と呆れているか。それとも、下手な人間が自らバンドを抜けようとすることに対して、清々すると喜んでいるか――


「篠宮くん」


 次の瞬間に隣から放たれたそれは、予想していた全てと違った。肩透かしをくらうほどいつも通りの朗らかな声に、僕は思わず首を回す。


 そして、そこにあったのもまた、何度と無く見てきた石川の柔らかな微笑みだった。


「ちょっとギター貸してくれない?」


 僕の話を聞いていなかったのかと疑いたくなるほど彼女は平然と言う。その奔放な姿に「なぜ?」と問い返すこともできず戸惑いながらも、ストラップを肩から外してギターとピックを手渡す。


 石川は頬に少しの高揚を滲ませながら、大事そうにそれらを受け取る。そして右手から手袋を外してピックを摘むや否や、口と両手を同時に動かし始めた。


「コードチェンジのコツはね、前後のコードで共通する指のポジションがある時はその指を動かさずに他の指だけ運指すること。基本だけど上手く弾けてない時って案外無意識に全部の指を離しちゃってたりするの。あとは慣れるまでは前のコードを小節の終わりギリギリまで弾かないことかな。コードが切り替わる直前の裏拍で運指するようにしてみたら良いと思うよ」


 不意打ちのアドバイスを滔々と口にしながら、華麗にギターを奏でていく。


「右手のストロークは、篠宮くんはやっぱりもう少し力を抜くことを意識した方が良いかな。ピックを弦に当てる角度とか、深さとか、力が入るとどうしてもバラついちゃうから。あとはピッキングの強弱だね。今日、御堂くんに言ったみたいにメロディに合わせた音の強さってあるんだよ。それがうまくハマると良いグルーヴ感が生まれるし。まあ、少し難しい話になってくるけど――」


「石川」


 遮るように名前を呼ぶと、彼女は口と両手の動きをピタリと止めた。弦の震えの余韻が細く響く。石川はそのまま呼吸と瞬きを数回繰り返す。


「――たしかにね」


 そして、眼前の川面を見つめながら彼女は言葉を紡ぎ始めた。


「どんな物事でも、それを追求していく途中には必ず壁が現れると思うよ。人それぞれその高さや種類は違うだろうけど。私だって今まで何回もそういう経験をしてるし、正直ギターを弾くのが嫌になりかけたこともあった。だから今、君が感じてることも少しは理解してるつもり。だけど――」


 これだけは忘れないで欲しいの、と、彼女は毅然とした面持ちでこちらを向いた。


「私はね、君がいてくれたから、今、バンドを組んで音楽ができてるんだよ。君と出会って、君がこの右手を受け入れてくれて、わがままを聞き入れてくれて、君が一緒にギターを弾いてくれているから、夢を叶えようとすることができてるんだよ」


 強く言葉を放ち続けるその瞳は、揺るぎない思いを湛えるように煌めいている。


「たしかに、もしかしたら君以外にも一緒にギターを弾いてくれる人がいるかもしれない。君と出会わなくても別の人とバンドを組むことができていたかもしれない。けど、私が出会って、今一緒に音を奏でているのは君なんだよ。いくら他の可能性を、色々な過去や未来を考えたところで、目の前の今は変わらない。他の誰が何と言おうと、君が何と言おうと、君がいてくれたから今の私の音楽があるんだよ」


 そして、大きな丸い両目を綺麗に細めて、彼女は言った。


「私には、私たちのバンドには、絶対に修志くんが必要だよ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の底に広く滲んでいた暗闇がゆっくりと引いていくのを感じた。それはまるで、夏の夜明けを見ているようだった。突風が過ぎるように、瞬く間に世界が陽光で満たされ始める。目を細めてしまうほどの鮮烈な光で、視界に映る全てが燦然と輝き、色を、輪郭を、取り戻していく。


 ギターが思うように弾けなくなってみんなの足を引っ張り、バンド内で僕という歯車だけが大きくずれていた。バンドの中で、石川の中で、僕の存在意義が無くなっていると思っていた。


 しかし彼女は、一切欺瞞の色の無い瞳と声で、僕を必要だと言ってくれた。ただの僕の思い込みで、彼女が心にも無い世辞を吐いている可能性はもちろん有る。虚言でなかったとしても、それは彼女のエゴのようなものであり、他の二人が同じように考えているかは分からない。


 けれど、我ながら本当に単純だと思うけれども、その言葉だけで体が、心が、軽くなっていた。きっと僕に必要だったのはその一言で、それだけで十分だったのだ。


 石川は口を閉じた後も強かな視線で僕を捉えていた。自分の意思表示は終わったからあとは君次第だと、答えを待っている。


 僕は真っすぐに彼女を見つめ返した。気恥ずかしさから一度目を逸らしそうになったが堪える。誠意には誠意で返すことぐらい、こんな自分にもできるのだ。


 彼女の言葉に救われたと言うと大袈裟かもしれない。


 しかし僕は、率直な胸中を、丁寧に声に出して伝えた。


「ありがとう、彩音」


 まるで、大切な人と大切な約束を交わした時のような穏やかな感情を抱いて、僕はその名前を呼んだ。


「んっふふ」


 彼女は満足そうに頬を緩める。それから「さてさて」と、ギターとピックを返してくる。僕が受け取ると同時に彼女は立ち上がった。ズボンの後ろに付いた細かな草を手で払った後、自身のギターケースを持ち上げる。そして、親指を立てた右手をこちらに掲げた。


「よし! じゃあ今から駅前のコンビニまで競争ね。負けた方がアイス奢りで!」


「は?」と、僕は目を丸くする。


「はい、スタート!」


 一方的に理不尽な勝負の火蓋を切られた。彩音は早くも法面を上がり切ろうとしている。


「いや、ちょっと待て。俺まだギターしまってないんだけど!」


「甘いよ修志くん、先んずれば人を刺すってね!」


「制すだよ!」


 僕は声高に言いながら急いでギターをケースに収めて肩に担ぐ。勢いよく立ち上がると、僅かに湿気を含んだ芝で足を滑らせてしまいそうになった。


 しかし、強く踏ん張って堪える。ここで転んでしまえば、先を行く彼女に追いつけないと、両足に力を込めた。


 そのまま急いで法面を駆け上がる。慌ただしい足音に気づいたのか、彩音がくるりとこちらを振り返った。柔らかな亜麻色の髪がふわりと浮かび上がる。そして焦る僕を見て楽しそうに笑う。紺青に染まった空の下で、陽だまりのような彼女の笑い声が響く。


 月明かりと常夜灯に照らされたその姿は、出来過ぎた一枚の絵画のように、とても美しく見えた。

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