誓いのロック(3)

 石川と別れた後、僕は家路を外れて歩いていた。


 歩を進めながら顔を上げ、民家と民家の間に切り取られた空を仰ぐ。日没が近づき滑らかな紺色に染まったその中には既にいくつかの星も浮かんでいる。煌々と輝くあの白い点に願いをかければ、今の僕の状況は改善されるだろうか。そんな下らない事を考えていると、目的地に着いた。


 町を縦断するように伸びる河川敷。圭一の叔父の家がある通りの土手だった。相変わらず立派な家屋だな、と首だけで背後を振り返りながら芝生に座る。


 ここにやってきた理由は安直な期待。普段と違う場所で弾いてみれば何か感覚が、この負の流れが変わらないかと思ったのだ。


 僕は傍にギグケースを置きその中からギターを取り出す。ストラップを肩にかけ、ピックを持ち、チューニングをしていく。流石にこの手順は不調の影響を受けることはなく、すぐに調弦を終えた。


 そのままピックを右手で握りしめて、一度わざとらしく息を吸う。そうすると世界の音が大きくなったような気がした。眼前の弱い水流の音。少し離れた道路を走る自動車のエンジン音。夏草からは鈴のような虫の音が涼しげに響き渡っている。


 そして僕は肺に溜めた夜の空気を吐き出して、右手でストロークを始めた。アンプもエフェクターも介していない乾いた弦の生音が手元から生まれていく。


 ――駄目だ。


 やはり上手くいかない。左手は寒さでかじかんでいるように強張り、右手は血液に鉛を流し込まれたかのように重い。両手とも自分の体であることを疑ってしまうほど、思うように動かすことができない。夏の夜の澄んだ世界の音が、僕のギターで汚れていく。


 僕はサビに到達することもなく演奏を止めた。ネックから左手を離し、顔を正面に向ける。日が落ち切って薄い闇に覆われた町を映した川面は濃い黒色に染まっている。そこに常夜灯の明かりが白く浮かび、まるで魚群が動くように揺らめいていた。


 例えば、あの水流にこのピックを投げ込めば、少しは鬱憤を晴らすことができるだろうか。例えば、無理に力を入れて弦を切ってみれば、行き場のないこの胸の疼きを搔き消すことができるだろうか。馬鹿げた衝動が頭に浮かんでも、実際にやってみせるほどの度胸は無い。いかにも自分らしい中途半端さが、体中に渦巻く忸怩たる思いを更に肥大させる。


 どうしようもなく、やるせない。ギターに触れることに嫌悪を感じる。


 ここ最近は音楽を聴くことにすら抵抗感を抱いてしまうようになっていた。以前までは悲しみや不安で歪んだ心の形を整えてくれていた存在が、今は逆に胸中へ滲む影を濃くしていく。時に背中を押してくれて、時に活力や高揚を与えてくれて、生活を色付かせてくれていた曲の数々が煩わしく感じてしまうことさえある。感情から弾力が失われているような感覚だった。


 なぜ僕は生きるために須要でもないことで、こんな失意に塗れなければならないのか。なぜ僕は将来を左右するでもない存在に、わざわざ懊悩に浸された時間を割いているのか。


 音楽とは、ここまで辛く、楽しくないものだったか――


「やあやあ」


 不意に、背後から声が聞こえた。全く人の気配が無かった空間への唐突な音の到来に、思わず体が震える。そして、それが僕に向けられたものだということは瞬時に理解できた。この場に僕だけしかいないから、という理由ではない。とても聞き慣れた声だったからだ。


 僕は確信を持って首を巡らせる。


「どうしたんだい、少年。何か悩み事かい?」


 そこには紺青の空の下、気取った調子で口角を上げる石川がいた。


「……なんで、こんな所にいるんだ?」


 呆気を率直に口にすると、石川は微笑んだままこちらに近づいてくる。


「いやあ、やっぱり今日の篠宮くん、様子がおかしいような気がしたからさ。心配になってついてきちゃった」


 そう言って彼女は僕の左隣に腰を下ろし、ギターケースを傍らに置いた。


「で、どうしたの? 秘密の特訓?」


 言外に何も匂わせることなく首を傾げる。毎日隣でギターを弾いているのなら、先日から僕に訪れている不調に気づいていないわけがない。実際、彼女はアドバイスだってくれている。それにも関わらず石川は、今僕が抱えている悩みなど微塵も察していないように無邪気に質問を投げかけてきた。


 僕は答えを躊躇った。自身の不調を認めているし、石川が少なからずそれに気づいているとも思っている。けれどその煩悶を彼女に吐露することは避けていた。


 ギター奏者として石川と同等の存在でありたいという、彼女と共にいる時間に比例して鮮明になっていく一つの望みが、口を固く閉ざしていたのだ。僕と彼女の間に存在する大きな実力差を、言葉という形で表したくなかった。そうしてしまえば僕の内に潜む惨めさが一層膨らむような気がした。そのまま意志が薄れて、一生彼女と同じ場所に立てないような思いもあった。口にせずとも、僕の音楽が劣り、彼女の音楽が秀でているという事実は変わらないのだが。


 だからこそ、足踏みが続く今の状態がひどくもどかしい。時間が過ぎていけばいくほど、止めどない焦燥感と劣等感に苛まれる。繰り返される自己嫌悪で心が枯れそうになる。


「篠宮くん?」


 自分のつま先を見つめたまま沈黙を保つ僕へ、石川が怪訝そうに言葉を重ねる。


 なんと言葉を返すべきだろうか。余計な意地は捨てて、素直に改めてアドバイスを求めるべきか。いや、アドバイス自体は先日からいくつも貰っている。それを活かせていない自分が悪い。ならば他にこの現状を解決する方法は有るのか。時間が解決してくれるものだというのか。


 このままではメンバーに迷惑をかけ続けてしまう。バンドの活動に支障をきたし続けてしまう。アンサンブルを崩し続けてしまう。


『アルバムを作る』という、石川の夢が叶わなくなってしまう。


 ならば、どうしたら――

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