5章 誓いのロック
誓いのロック(1)
――きっかけは何だっただろうか。
あの時、押弦をし損ねた瞬間だったか。はたまたピッキングをミスした時だったか。それともコード進行を間違えた時か、スライドを失敗した瞬間か。もしかすると、ボーカルで音程を外したあのタイミングだったかもしれない。今となっては思い当たる場面が多過ぎて、どこが起点なのか分からなかった。
何一つ噛み合わない。全てが上手くいかない。僕のせいで音が濁る。
「ストップストップ」
轟音の中で声が聞こえたと同時に、ベースの音がふっと掻き消えた。残りの楽器の音も釣られるように止まり、一瞬にしてスタジオ内は森閑となる。
「修志」
低い声で呼ばれ、僕は鈍重な動きで悠人の方を向いた。
「何回同じ場所でミスピッキングしてんだ。ちゃんと修正しろよ。それからそのタイミングでテンポが急に遅れるのも。あとボーカルも全然声が出てないぞ」
「……悪い」
呆れ混じりの苛立ちを含んだ指摘を僕は悄然と飲み込む。何も否定できなかった。悠人は語気こそ苛辣だが事実しか口にしない。理不尽な文句をつけることは決して無い。そして今の発言に対して他の二人も何も言わないということは、それが全員の共通認識ということだ。
夏休みを迎えた僕たちは毎日のように朝から晩までスタジオへ入り浸り、バンド練習に明け暮れていた。
最終的にアルバムに録音する曲数は十三曲に決まり、現時点でその内八つは既に作曲を終え、バンドで音を合わせるまでに至っている。
想像していた以上に順調に事が進んでいく中で、僕のギターやボーカルの技術も少しずつではあるが上達してきていた。それは、バンドアンサンブルの一部として存在するのに十分なレベルと言えるほど。
しかし、八月に入ってすぐのこと。突如として僕の中の歯車は動きを変えた。
いつも通り練習が始まり一曲目を演奏し始めた瞬間、唐突な違和感が体に浸透していくのを感じた。前日までと比べて、明らかに上手く弦を押さえることができなかったのだ。そんな左手に意識を回しているとストロークが散漫になり、不要な弦をピッキングしてしまう。音色が乾き、テンポが狂い、旋律が淀む。
連日の練習で両手が疲れてしまっているのだろうと考え、その日は早めに解散して体を休めた。しかし次の日も、また次の日も、不調は続き、全く感覚は取り戻せなかった。
むしろそれからは一つのミスが他の部分にも伝播していき、別の問題点が次々と生まれていった。気づけば、以前まで容易に弾けていたフレーズすら満足に弾けなくなっていた。
「篠宮くん、ちょっと体に力が入り過ぎてるんじゃないかな?」
重苦しく自分のつま先を見ていると、隣から石川がアドバイスを投げかけてくる。
「脱力するイメージで弾いたら少し改善すると思うよ。左手の押弦もそうだけど、右手側もね。たぶんピックが深く入り過ぎてると思うから、それももう少し浅くする感じで」
「……ああ、分かってる、改善するよ」
この一週間で何度同じ台詞を吐いてきただろうか。そしてそれは決して虚偽ではない。自分では本当に理解しているのだ。何が悪いか、どう悪いのか。
しかし、それを修正する方法が皆目見当も付かなかった。ミスが続いた部分の練習を何十回、何百回重ねても一向に改善することができない。石川や悠人から貰うアドバイスを念頭に置いても体の動きが追いついてこないのだ。
ロープもハシゴも存在しない途方も無い深さの大穴に落ちてしまったような感覚だった。元いた場所に登らなければならないのに、どうやって登ればいいか到底分からない。一面には茫漠とした暗闇だけが広がり、自分の目では何も捉えられない。不安や焦燥感だけが際限無く溢れ、登ることを諦めてしまいたくなる。
「しっかし」と、石川が後ろを振り返りながら声を輝かせた。
「御堂くん、本当に上手になったね」
「え」と、不意に称賛を向けられた圭一は声を漏らす。
「いいや、まだ全然だよ。さっきもそうだったけど、たまに音の粒が揃えられない時が有るしね」
「そんなことないって。音の粒のズレっていうのはたぶん、若干溜め気味に叩いたり、浅く叩いたりしてるのを言ってるんだろうけど、所々でそういう変化があった方がむしろリズムにノリが出てくるから良いんだよ。もちろん曲に嚙み合ってないものは駄目だけど、御堂くんのはちゃんと効果的になってるから大丈夫」
謙遜する圭一に対して、石川は綿々と感嘆の言葉を並べる。褒められることを好まない圭一はバツが悪そうに苦笑いを浮かべるだけだった。そして、そのやり取りに悠人は何も口を挟まない。つまり石川から圭一へ送られた評価に何も異議が無いということだろう。
そんな光景を目にした僕の胸中には仄暗い霧が立ち込める。皮膚を内側から掻きむしられるような行き場のないもどかしさに襲われる。
そう、実際にこの短期間での圭一の成長速度は並外れていた。それはメンバーだけでなく、時折仕事帰りに練習を覗きにくる笹崎や、スタジオ店主の青木までもが舌を巻くほど。
――やはり圭一は天才だ。
その台詞が幾度と無く口を衝いてこぼれそうになった。
以前に圭一は『この世に天才はいない』と語った。どんな事柄においても、能力を持っている者や結果を残している者は相応の努力をしていて、そうでない者は努力が足りていない、と。
しかし、物は違えど、自分と同時期に楽器を始めた圭一の上達ぶりを見ていると、やはり天才はいるのだと思わざるを得なかった。そう思わないと、やっていられない。僕だって努力をしている筈なのに、と頭の中で何度も唱えてしまう。そんな考えが浮かぶ度、うらぶれた感情が紙に滴る墨汁のように心に滲んだ。
「よし、じゃあもう一回同じ曲で合わせようか」
石川が正面を向き直って言う。それぞれ返事をして演奏を始める構えを取った。
圭一がカウントを放ち演奏が始まる。躍動感に満ちながらも精巧なビートを刻むドラム。洗練された深みをリズムに加えるベース。華やかに鳴いて美妙な響きをもたらすリードギター。そこに僕の掠れた弦の音色が、粗野な歌声が混じる。澄み切った音の波紋が僕のせいで汚れていく。
一サビを終えたところで再び演奏は止まった。
僕は左手でネックを強く握り締める。指先に弦が食い込み、鋭い痛みが走った。
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