First ensemble(5)

 オープンハイハットを三回刻んだ後に叩かれたクラッシュシンバルと同時に、僕たちは一斉に音を鳴らし始めた。圭一がドラムスにスティックを走らせ、悠人は二本の指で太い弦を撫でる。そして僕と石川はそれぞれのピックで六本の弦を掻き鳴らしていく。


 各々が繰り出す音の激流に、スタジオは瞬く間に満たされた。鼓膜が揺れていると、はっきり感じ取れるほどの空気の震え。しかし騒音でも不協和音でもない。それは、調和された轟音だった。


 ダイナミックかつ軽快に晴々しいリズムを作り出すドラム。低く唸りを上げて音色に膨よかな厚みを加えるベース。華やかにメロディを飾っていく二本のギター。四つの音が重なり、溶け合い、一つの瑞々しい旋律が生み出されていく。まるで夏の青空の下、自転車で下り坂を走り抜けるような、そんなどうしようもなく爽快な情景が脳裏に広がった。


 これが、バンドアンサンブル。


 僕は皮膚に高揚の震えを感じながら両手を動かしていた。左手でコードを押さえて、右手でピッキングをこなす。晴れやかな和音を作りあげて、曲の輪郭を確かなものにしていく。


 間も無くイントロが終わる。その直前に僕は大きく息を吸う。そして、肺に溜めた空気を勢いよく歌声として吐き出した。


 曲を印象付ける疾走感に満ちたリフの上で、今という瞬間を生きていることを祝うような言葉を綴っていく。度重なる練習によって歌詞は脳の奥深くにまで刻まれてあり、流麗に歌うことができていた。


 しかし、ボーカルへ気を回し過ぎると、ギターの押弦やピッキングにミスが生まれて、音に濁りが浮き出てしまう。それを修正しようと意識し過ぎると、演奏のテンポが遅れたり、ボーカルの声量が下がったりしてしまう。あちらを立てればこちらが立たず。我ながらまったく不完全な演奏だ。


 そしてそれは僕だけではなく、圭一もだった。ギターを弾きながらドラムの音に耳を傾けていると、途中途中でリズムが走り過ぎてしまう箇所があったり、フィルインの際に音量が小さくなったりしている。やはりまだ経験も浅く、バンドで音を合わせるのに慣れていないゆえ、完璧な演奏には程遠い。だがそれでも十分、曲として形にはなっていた。


 比べて、石川と悠人の演奏は非常に卓越されたものだった。確かな技術に裏打ちされた正確性や表現力。磨き抜かれた宝石のような、完成された洗練さを誇っている。


 特に僕は、石川が奏でる弦の響きに強く意識を引き寄せられていた。丁寧かつ軽妙に曲を彩っていく音の羅列。既に幾度か彼女のギターを聴いてきた筈だが、これまでのどの演奏よりも凄みを感じた。ソロでなく、バンドアンサンブルの一部になったからこそ輝きが増しているように思える。


 それはまるで水彩画が描かれていくような感覚だった。石川以外の三人で下絵となる音を作り、そこに彼女がリードギターで鮮やかな色を塗っていく。そうして完成した旋律は、とても美しい。


 自身で音を奏でながらも聴き入ってしまっているような不思議な感覚に浸されていると、いつの間にか曲は残り数小節というところまできていた。初めての情感に触れたこの三分間を噛み締めるように僕は両手を動かす。そして、曲中で繰り返されてきた軽快なリフを強く鳴らして、演奏を終えた。


 それぞれの楽器が吐き出した最後の一音と共に轟音は止み、スタジオは心地よい残響に満たされる。それはやがて、アスファルトに染みた雨水が乾くようにゆっくりと消えていき、空間には少しの耳鳴りだけが残る静寂が訪れた。そのまま僕は初めてのバンドアンサンブルの余韻を反芻するように目を閉じる。


「修志」


 しかし三秒と経たない内に、隣からかけられた声で現実に引き戻された。呼ばれた方を向くと、明らかに不満そうな鋭い目つきを携えた悠人が立っている。次の瞬間、彼は率直な言葉を滔々と並べ始めた。


「まず、ミスピッキングが多い。それから全体的に音量がバラバラだ。もっと音の粒を揃えるように心がけて弾いた方がいい。それとボーカルが入ったらギターのリズムキープが全然できてなかったぞ」


「……悪い」


 勢いよく突きつけられた指摘はあまりにも明け透けで、そして的確な事実であったため、一切の弁明無く声を漏らすしかなかった。ぐうの音も出ない、の一言に尽きる。


「で、圭一」と、悠人は背後を振り返りながら続ける。


「所々テンポが走り過ぎだ。ちゃんと休符も意識するようにしろよ。あと逆にフィルインの時はミスしないように気にし過ぎてるのか勢いが弱くなってる。タム回しはもっと力強くやっていい」


 僕も少し気になっていた点を、先ほどと同じく歯に衣着せぬ言葉で伝えていく。


「分かった、改善するよ」


 と、圭一はまったく動じていないように微笑を浮かべて応じた。


 その反応に小さく頷いた悠人は正面を向き直る。そしてそのまま石川にも何かしらの指摘を送るかと思ったが、予想は外れた。彼はそれ以上口を開くことなくチューニングの再確認をし始めた。


 今の流れで何も言わない、ということはつまり、石川の演奏には非の打ち所が一切無かったということだろう。それは暗に彼女の実力を認めたということになる。


 ギターの腕を認められたことで得意げな表情を浮かべるかと思い、僕は石川の顔を窺う。するとそこには想像していた以上にだらしなく頬を緩めた彼女がいた。


「いやあ、やっぱりみんなで音を合わせるのは楽しいねえ」


 そして、柔らかい微笑を保ったままそう言った。


 彼女も少なからず僕や圭一の演奏に満足のいかない部分が有っただろう。しかしそれに文句をつけるような素振りは一切見せず、満面に喜びを滲ませている。


 僕は彼女に特に言葉を返すことはしなかった。けれど自然と、小さく口元が緩んでいた。彼女が何の蟠りも無くギターを弾いて、純粋に音楽を楽しんでいることが、なぜか自分の事のように嬉しく思えたのだ。


 そして同時に僕は、自分の中で石川彩音という少女の存在が想像以上に大きくなっていることに気付かされた。


 初めに彼女に対して持った印象は呆れだった。四月の終わりに屋上で出会い、半ば無理やりバンドを組まされて、その後メンバー集めに腐心した。彼女の無鉄砲さや奔放さが光るその記憶を辿ると、今考えても呆れるのは然るべきだと思う。


 しかし、それから共に時間を過ごしている内に、その胸中は形を変えていった。石川が奏でるギターの音色や作り上げる曲の旋律、そして音楽に対する確固たる意思に触れることで、今では尊敬や憧憬が混じった思いを彼女に向けている。


 出来る限り早く彼女の実力まで近づいて同等の演奏を、完璧に調和されたアンサンブルを奏でてみたい。僕はそう強く思った。その意志を音に乗せようと、再び左手を弦に重ねる。

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