First ensemble(2)

 当面の活動予定が決まったことで会議は終わり、僕たちはスタジオを出た。


 スタジオから見て我が家と反対方向に住んでいる圭一と悠人に別れを告げて、僕は帰路につく。国道沿いの道を歩く隣には、玖賀野駅へ向かう石川が肩を並べていた。


「いやあ、ついに本格始動だねえ」


 石川はウキウキとした声で柔らかく微笑む。ここ数日、彼女は喜びの感情を抑えることができていない。授業を受ける背中、弁当を食べる箸の動き、道を歩く靴の音。その全てから、まるで壊れた蛇口のように愉悦が漏れ出していた。


「しかしメンバー集めにここまで手間取るとは思わなかった」


「だね。でも、その分良いメンバーを見つけられたよ」


「たしかにな」


 石川と悠人は既に卓越した演奏技術を持っていて、圭一もドラムの腕を非凡な速度で上達させている。現時点でも僕を除けば、このバンドの演奏レベルは相当高度なものだろう。そう、僕を除けば。


 石川と出会い、そして彼女のわがままではあるが目標ができたことで、強い向上心を持ってギターの練習に励むようになり、若干ではあるが演奏も上達はしてきている。しかし、未だ僕の実力は並以下といったところだ。楽器の経験年数や練習時間を考えれば当然のことで、自分でも理解している。けれど、ここまでの実力者たちがいざ周囲に集まると、自らの未熟さが浮き彫りになってしまう。


 胸の奥底に仄暗い感情が滲みだす。それが確かな形を持ってしまう前に体から排除してしまおうと、僕は空を仰いでため息を一つ吐いた。目に映る梅雨入り間近の空は薄い灰色に覆われていた。


「そういえばさ」と、石川が歩を進めながら顔をこちらに向ける。


「この前、文化祭でライブするって言った時、私に大丈夫かって聞いてたじゃん? あれって結局何の事だったの?」


 一瞬、僕自身も何の事だったかと記憶を巡ろうとしかけたが、すぐに思い出す。


「……ああ」


 悠人の勧誘ですっかり頭から離れていたが、それはとても重要な案件だった。


「文化祭でライブをするってことは、大勢の人の前で演奏するってことだけど……」


 僕は慎重に、石川の右手を指差しながら言った。


「その……右手が色んな人に見られることになると思うんだけど、大丈夫なのか? 手袋外さないと演奏しづらいって言ってたろ?」


「――あ」


 石川は盛大に目を丸くして声を漏らした。先日の反応を見て予想は出来ていたが、やはり失念してたらしい。


「そっか……そうだよね、言われてみればそうだった……というか、その前にバンドで演奏するなら御堂くんと土田くんにも見せなきゃいけないもんね……」


 彼女は分かりやすく嘆くように両手で顔を覆った。「どうしよう……」と、小さく呻いている。


 やはり、その右手を衆目に晒すのには抵抗があるようだ。過去にそれが好奇の的となりからかわれた、と彼女は語っていた。子供の好奇心など、ほとんどが一過性のものであるし、本物の悪意がこもっていることの方が少ないだろう。しかし僕が想像している以上に、石川にとってその経験は、深く、歪な形で彼女の記憶に刻まれているのかもしれない。


「何か滑り止めが付いてるような手袋でも探すか?」


「あー……うん、いや……」


 取り急ぎ思いついた対策を口にしてみたが、彼女の反応は芳しくない。


「一回そういう手袋付けて試したことがあるんだけど……やっぱりちょっと感覚が違って上手く弾けなかったんだ」


 当然ながら僕は義手というものをこの身に付けて操ったことがない。それ故にその言葉には共感できないが、当人にしか知り得ない違いがあるのだろう。


「どうしようかな……」


 石川は腕を組んで再び唸る。その横顔を見ながら、僕も何か手はないかと思案を巡らせた。


 例えば義手の表面に肌の色に似せた塗装を施す。もしくは彼女が以前語っていた装飾用の義手に変えてみる。思い至ったのはせいぜいそれぐらいの案だった。しかし前者はその後の始末が大変そうであるし、色を変えたところで輪郭の違和感は誤魔化せそうにない。後者はそれこそ彼女が語っていたように、思うようにギターを扱えるような代物ではないだろう。


 自身が直面することはないと思っていた問題、いや、そう思うことすら考えていなかった問題と対峙した僕は己が無力さを痛感していた。テレビ番組の中で義手を付けている人間を、そしてその人たちが抱える問題を目にしても、そんな存在が自分の身近に現れるとは想像もしなかった。


「――まあ」


 自己嫌悪に打ちひしがれていると、隣で石川が口を開く。その声は想像していたよりも気楽そうなものだった。


「やっぱり別にいっか、見られても」


「え」


 あっさりと放たれた慮外の言葉に、僕は思わず呆気に取られて立ち止まった。つられるように石川は二、三歩進んだところで足を止めこちらを振り返る。そして数回瞬きをした後に、穏やかな口調で話し始めた。


「私ね、この右手にあんまり良い思い出は無かったんだ。義手だって事を小学生の時にからかわれて、それが嫌になって見られないように手袋付けてさ」


 ゆっくりと語る彼女の表情はどこか切なそうに見える。


「それから右手だけじゃなくて、自分の内側を見せるのもなんだか怖くなって……いつの間にか、人と関わるのもちょっとだけ壁を作るようになってたの」


 だけど、と彼女は続けた。


「篠宮くんはこの手を見ても、面白がったり馬鹿にしたり、からかったりしなかった。義手なんて気にせずに、普通に接してくれた。なにより、この手で弾く私のギターの音を好きだって言ってくれた」


 そう言って石川は柔らかく相好を崩す。


「君は何気無く言ったのかもしれないけど、私にとっては本当に嬉しくて、心が救われるような言葉だったんだよ」


 そして、何か意を決したように強い輝きを湛えた瞳をこちらに向け、その右手の形を変えて僕を指差した。


「だから、いいよ。ライブをして、みんなにこの手を見られて、もし仮に馬鹿にされたりからかわれたりしても。そうなったとしても、少なくとも君だけは味方でいてくれるって、そう信じてるから」


 真っ直ぐに向けられたその視線に、僕は少したじろいで思わず目を逸らした。信頼というものをここまで飾り気なく言葉にして、真っ直ぐに伝えられることは初めてだった。家族や親友といった近しい者の間でも、なかなかそのような機会は無い。


 だが動揺しながらも、僕の心の内にはすぐに、一片の迷いも無い答えが浮かぶ。それは彼女のギターの音色を聴いた瞬間に心に通う感情と同じ温かさを纏っていた。


 もしも、彼女の右手を見て嘲弄する者が現れた時は、必ず彼女を守る側の人間であろうと、僕はそう強く思った。


「まあ、なんだ……そうだな」


 しかし気恥ずかしさを隠せなかった僕は、答えにもなっていない曖昧な言葉を吐くだけに留める。頭を掻きながら彼女に目を戻す。少しだけ頬が熱かったような気がした。


 僕の顔を一瞥した石川は改めて微笑んで、踵を返す。そして軽やかな足取りで、次の一歩を踏み出した。

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